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第12回 【私を映画に連れてって!】〝私をカンヌに連れてって〟くれたエドワード・ヤン監督『ヤンヤン 夏の想い出』で監督賞受賞

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第12回 【私を映画に連れてって!】〝私をカンヌに連れてって〟くれたエドワード・ヤン監督『ヤンヤン 夏の想い出』で監督賞受賞

1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。
『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。
テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。
この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。

 21世紀間近の1999年。この前後はアジアに、といっても韓国、中国、台湾、香港がメインだが数十回行ったり来たりの日々になった。

 エドワード・ヤン監督と会えたのも『スワロウテイル』の台湾公開キャンペーンで、たまたま台北でお会いできたからである。初対面なのに「カンヌ国際映画祭のコンペティションでパルムドールを目指す映画を一緒にやりましょう!」というと、「やろう!」と。

『LoveLetter』『スワロウテイル』『リング』等が各国で上映になり、プロモーションで海外へ行くことも多かったが、Y2Kなど2000年を起点とする問題が話題になったり、これからの日本、アジアはどうなっていくのだろうというような会話が増えた時期でもあった。

『スワロウテイル』の次の岩井俊二監督の新作は何か? を問われることもしばしばで、今度は、より国際的というか、海外でも話題となる映画を目指していた。

 当時の企画書を見ると、岩井俊二、エドワード・ヤン、ウォン・カーウァイの3人の監督がアジアから21世紀に向けて放つ、長編映画3本。オムニバスではなく、競作というのでもない。

▲打ち合わせのテーブルにつく正面3人の監督たち。右からエドワード・ヤン、岩井俊二、スタンリー・クワン。

 テーマだけは「アジアの監督たちが、21世紀に変わる今、何を考えるか……」のような話になり、理工系のエドワード・ヤン監督がY2Kの「バグ(プログラムの誤りや欠陥)」をモチーフにしたらどうか……の流れで一旦は「Y2Kプロジェクト」と名付けてスタートした。エドワードは1ドル札と1セントのコインを前に出し「この2つに共通する書かれている文字は何か?」と言われ皆ポカンとしたが、すべてのお札、コインに「In God We Trust」とある。彼が「お金にも【神様】を入れておかないと信じあえない……」という話になり、全体のタイトルは「In God We Trust」になった。流石にアメリカの大学で計算機工学を学んだ人で、「アジア人はお札やコインに神の文字は入れないよね」これが映画全体のコンセプトにもなった。

 製作費は主に日本で、各監督同様を考えたが、そんなに簡単には行かない。まず、ウォン・カーウァイ監督が脱落。シナリオを書かない、ストーリーもプロデューサーには見せない……など彼独特のやり方について行けなかったこともあった。その後、香港の俳優に聞くと、スタンリー・クワン監督と仕事をしたい女優が多く、僕も彼の『ロアン・リンユイ 阮玲玉』(1991香港)が好きだった。マギー・チャンがベルリン国際映画祭主演女優賞を獲得している。そんなこともあり、台湾出身のスー・チーやマカオ出身のミッシェル・リーらが参加してくれることとなる。

 1998年9月24日。釜山。第三回釜山国際映画祭でこの3人の監督と共に、雛壇に並び、製作発表を行った。本当は韓国の監督も考えたが、それ以前の韓国では日本映画の公開も微妙であり、日本、香港、台湾の監督にした。それでも、大好きな釜山映画祭には1回目から参加しており、その場所で発表を行いたかった。

▲アジアから21世紀に向けて放つ長編映画3本ということで、製作発表が1998年に韓国の釜山国際映画祭の場で行われた。製作発表には日本、台湾、香港の監督がそろった。雛壇に並ぶ右から香港のスタンリー・クワン、日本の岩井俊二、台湾のエドワード・ヤン、そして筆者。その後、残念ながら岩井俊二は抜けることになるが、岩井はエドワード・ヤン監督『ヤンヤン 夏の想い出』の日本版予告を手がけた。

 ここからまたハプニングが起こる。企画内容、製作費など色んな要因はあるが、岩井俊二監督が、まさかの脱落。元々、岩井監督の次回作を模索しているところからスタートして、日本のテレビ局も参加予定だった。ただ、岩井監督がいないと企業としては大きく目論見が違ったこともあり、数社はフェードアウトになってしまった。僕の読みも甘かったと言える。残された、香港と台湾の監督。スタンリーの『異邦人たち』には日本から大沢たかおさん、桃井かおりさんの参加も決めていた。資本を立て直し、ポニーキャニオン、オメガ・プロジェクト、博報堂が残ってくれた。感謝である。

▲2000年のベルリン国際映画祭に出品された日本・香港合作映画『異邦人たち』。監督のスタンリー・クワンは、香港の映画監督であり、映画プロデューサーでもある。大沢たかお、ミッシェル・リー、スー・チー、桃井かおりといった魅力的なキャスティングだった。

 エドワード・ヤンは最初「シザース」(グーチョキパーのチョキの意)というプロットを書いてくれた。主演候補は金城武。日本でも人気で唯一とも言える中国人スター俳優。しかもエドワードと同じ台湾出身だ。監督と一緒に台北で出演交渉を行うも先方から厳しすぎる条件。エドワードから「あきらめよう……」と。役名も「タケシ」と名付けたサスペンスアクションの要素もあるこの企画はボツにしてしまった。また一からストーリーを考えるという。

 時間は残されていない。数日で「Yi Yi」というまったくテイストの違うプロットをエドワードから見せられ、あまりの違いに驚いた。家族の話で、祖母が亡くなったことで、孫である少年が少し成長する、という「シザース」とは真逆のような感じのストーリー。これが『ヤンヤン 夏の想い出』である。

 こんな地味な話で、カンヌ映画祭のコンペ作品に入れるのかは、僕にはわからなかった。カンヌは参加したことも無い映画祭だった。

 それでも一緒にシナリオ作成をやり、キャスティングなど共同作業である。日本でも熱海の撮影をリクエストされた。

 台北でクランクイン。日本からは、イッセー尾形さんの出演も決まった。撮影の最初を見届けて東京へ戻り、1週間位経ったころであろうか。エドワード・ヤンから、相談があるので台北へ来てくれと言う。

 それまでの撮影ラッシュを見せられ、感想を求められるも特に問題は感じなったが、彼は「これだとカンヌで賞が獲れない」と。痛いところをついてくる。僕はカンヌのコンペティションに映画を出品したことがないので正直、わからない。何が足りないかと言うと、今の主演女優でこのまま最後まで撮影してしまうと受賞するのが厳しいと。と言っても、その女優を決めたのは監督だ。僕は両親にも会っていた。今さら……と思いつつも、監督は別のテストのような映像を見てくれと。そこには新たな女優がいて、良い感じではあった。ただ、既に数日間の撮影が始まっている段階であり、日本では、その段階でチェンジはあり得ないだろう。が、もう、監督の気持ちは固まっていた。

 撮り直しのような状況になり、ただでさえアクシデント続きのプロジェクトに耐性が出来たようで「それで行きましょう!」と言ってしまった。

 最初、三人の前で「エドワード・ヤン監督にはカンヌ国際映画祭コンペティションに、スタンリー・クワン監督にはベルリン国際映画祭のコンペティションに、岩井監督にはヴェネチア国際映画祭のコンペティションかアメリカアカデミー賞に!」と。今、考えると3大映画祭に対しての自分のミーハーな興味のまま、浅はかにも思うが、結果、二人は実践してくれたのである。

〝私をカンヌに連れてって〟のごとく、僕は連れて行かれた感が強い。2000人以上の前での公式上映での6~7分のスタンディングオベーション。翌日の映画雑誌星取表では『Yi Yi』=『ヤンヤン 夏の想い出』が断トツのパルムドール候補。監督もパルムドールを疑わない、自信がありそう。

 ただ『オー・ブラザー』のジョエル・コーエン監督、『コード・アンノウン』のミヒャエル・ハネケ監督はじめ、ラース・フォン・トリア―、ケン・ローチ、オリヴィエ・アサイヤス、ジェームズ・アイボリー、イム・グォンテク、リブ・ウルマン……。それに大島渚、そして『花様年華』のウォン・カーウァイ監督。カンヌの常連だらけだ。

 結局パルムドールはラース・フォン・トリア―監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だった。審査員特別グランプリはチアン・ウェン監督の『鬼が来た!』。我らは、監督賞。主演男優賞は『花様年華』のトニー・レオン。アジア映画が強い年だった。

 スタンリー・クワン監督らと挑んだベルリン国際映画祭コンペティションで『異邦人たち』は賞を獲れなかった。一緒にベルリンに行った大沢たかおさんはオープニングパーティでヴィム・ヴェンダース監督を見つけ、話しかけていた。その隣には音楽を担当したBONO(U2)がいて、彼にも果敢にアプローチしていた。その年のオープニング作品がヴェンダース監督の『ミリオンダラー・ホテル』で、大沢さんにはその後の活躍の刺激にはなったと思う。

▲エドワード・ヤンは1947年に上海で生まれた。2歳のとき、家族で台北に移住し、ロックと手塚治虫に影響されて育ったという。台湾の国立交通大学で電気工学を学び、フロリダ大学では計算機工学の修士号を取得している。台湾に帰国後、脚本を担当した『1905年の冬』で映画界入り。83年の初長編映画『海辺の一日』ではヒューストン映画祭グランプリを受賞している。『ヤンヤン 夏の想い出』のほかにも、東京国際映画祭審査員特別賞、国際映画批評家連盟賞を受賞した『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』、『台北ストーリー』、『エドワード・ヤンの恋愛時代』など、世界で認められた映画監督である。本年開催された2024年大阪アジアン映画祭のラインアップで、最も注目されたのは、エドワード・ヤンの記念すべき映画界入り初仕事作品『1905年の冬』の上映だった。2007年に59歳の若さで死去し、『ヤンヤン 夏の想い出』が遺作となった。『非情城市』や『冬々(トントン)の夏休み』(エドワード・ヤンは音楽を担当し、俳優として出演している)の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)とともに台湾ニューシネマを代表する一人であった。

▲台北のマンションに両親、姉、祖母と住む少年ヤンヤンと家族の物語。叔父の結婚式を境にして、さまざまな事件が家族に起こり始める。エドワード・ヤン監督は、現代の家族を取り巻く多彩なエピソードを同時進行させ、穏やかな空気感の中に異様な緊迫感を同居させた映像世界を創り上げた。2000年のカンヌ国際映画祭での監督賞受賞をはじめ、ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞外国語映画賞などの賞に輝き、世界の映画関係者から、エドワード・ヤンの死後も髙評価を受け続けている。

 肝心の岩井俊二監督作品は誕生しなかったが、『ヤンヤン 夏の想い出』の日本での公開時に、劇場予告編などは彼が創ってくれた。その時、彼が言ってくれた「河井さん、このエドワード・ヤン監督の映画が生まれたことは凄いことですよ」を聞いたとき、一瞬「君の新作は……」と心の中で呟いたが、笑顔で返したと思う。

 その年のアメリカの全米映画批評家協会賞で、全世界の作品から最優秀の「作品賞」に選出された。通常はこのままアカデミー賞の本命である。ただ、作品賞のノミネート条件はLAやNYで一定の商業上映を12月末までに行われていなければいけなかった。これは断念。そこで外国語映画賞狙いで慌てて渋谷で12月に上映を行った。しかし、アカデミー賞協会のこの映画の国籍は台湾に認定されていた(と思う)。台湾での公開は監督本人が(当時)望まなかったので見送っていた。ということでアカデミー賞からはノミネート段階で漏れてしまった。ルールを知らない僕のミスでもある。製作資金は日本、プロデューサーも日本だったが、やはりエドワード・ヤン監督の映画は台湾映画であるとのジャッジであろう。映画の国籍はますます判定が難しくなって来ている。

『ヤンヤン 夏の想い出』の後は、アメリカから誘われ、監督はLAに住んで、新作を開発していた。熱狂的な手塚治虫フリークでもある彼は初のアニメに挑んでいた。ところが2007年6月29日、LAの自宅で亡くなってしまう。まだ59歳だった。アメリカから戻ったら、最初の企画「シザース」は是非、やりたかった。今での彼の書いたシノプシスは僕の手元に残されたままだ。

 エドワード・ヤンは亡くなってしまったが、『ヤンヤン 夏の想い出』は生き続けている。

 英国映画協会史上最高の映画100(2022)にも選ばれた。

 BBC(世界中の映画評論家)が選ぶ21世紀最高の映画ベスト100ランキング(2016)では8位。日本映画は『千と千尋の神隠し』が唯一4位に選ばれている。2000年のカンヌ映画祭で一緒だったウォン・カーウァイ監督の『花様年華』が2位。僕もこの映画は大好きだが、最初、プロジェクトで一緒にやろうとしていた監督でもある。

 釜山国際映画祭が選ぶ史上最高のアジア映画トップ100(2015)では12位。1位はもちろん小津安二郎監督『東京物語』だ。ベスト10には『羅生門』『七人の侍』『悲情城市』『クーリンチェ少年殺人事件』など傑作が並ぶ。

 他にも色々あるが、極めつけはアメリカ「ハリウッド・リポータ―」の批評家が選ぶ21世紀のベスト50(2022)。この雑誌は好きでよく読んでいた。ついに1位に選出されている。6位に『千と千尋の神隠し』、7位に『ブロークバック・マウンテン』、8位に『花様年華』、12位にアカデミー賞作品賞の『ムーンライト』、18位にカンヌ国際映画祭パルムドール『万引き家族』、21位に『パラサイト 半地下の家族』などが入っている。

 エドワード! おめでとう! あなたの創った映画は永遠に愛され続けます。

▲2000年の5月10日から21日まで開催されたカンヌ国際映画祭でレッド・カーペットを歩く『ヤンヤン 夏の想い出』のチームたち。中央がエドワード・ヤン監督。筆者(左端)にとっては、カンヌ初参戦にして監督賞の受賞をもたらしたすばらしい体験だった。映画祭で配られるプレスにも筆者の名前が記されている(写真では左から3番目)。この年のカンヌのコンペティション部門には、日本から出品の大島渚『御法度』、青山真治『EUREKA ユリイカ』をはじめ、ウォン・カーウァイ『花様年華』、ジョエル・コーエン『オー・ブラザー!』、ジェームズ・アイボリー『金色の嘘』、リブ・ウルマン『不実の愛、かくも燃え』、ラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・ザ・ダーク』などなど多彩な才能の作品が並んだ。コンペティション部門の審査委員長は『グラン・ブルー』『ニキータ』『レオン』『フィフス・エレメント』のリュック・ベッソンが務めている。ちなみに女優賞に輝いたのは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークだった。

かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。

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