「戦争は狂気です」やなせたかし氏の過酷すぎる戦争体験 〜1000キロ行軍、飢餓とマラリア
NHK朝の連ドラ「あんぱん」では、補給が途絶えた戦場で栄養失調に苦しむ柳井嵩の姿が描かれました。
力なく、たんぽぽの根を口にする場面は、やなせたかし(本名・柳瀬嵩)氏がかつて体験した過酷な軍隊生活をもとにしています。
極限状態の中で味わった飢餓や絶望は、やなせ氏の中に「本当の正義とは何か」という問いを芽生えさせました。
そしてその自問自答は、自分の顔を差し出してでも誰かの空腹を満たすという「アンパンマン」誕生へと結びついていきます。
今回は、やなせ氏が歩んだ戦争の足跡をたどりながら、日本の兵士たちがなぜ飢えと戦わなければならなかったのかをひも解いていきます。(以下敬称略)
上海への行軍 重圧と葛藤の1000キロ
昭和20年5月、中国・福建省福州で宣撫活動に従事していた嵩のもとに、上海への移動命令が下ります。
日本軍は福州・厦門(あもい)・温州に展開していたすべての部隊を集結させ、上海決戦に備える構えを見せていたのです。
砲兵部隊の大砲は船で輸送され、嵩の所属する師団約1,000人は、陸路を歩いて1,000キロ先の上海をめざすことになりました。
兵士たちは重たい装備を背負い、一日40キロを黙々と歩き続けました。
その重さに耐えきれず、途中、嵩は蚊帳(かや)を捨て、ついには自決用の手榴弾さえ手放します。
行軍中、何度か中国軍の攻撃にさらされました。
銃声が響き渡り、迫撃砲が大地を揺らすなか、後方にいる暗号班の嵩の前で、仲間が銃撃に倒れていきます。
撃たれた若い将校の傍らに、ひざまずく部下の姿がありました。しかし、隊は立ち止まることを許されません。
歩をゆるめれば、背後に迫る敵の手にかかるのです。
息絶えた者も、まだ微かに息のある者も、すべてそのままにして嵩は前に進むしかありませんでした。
一日2食のうすいおかゆで戦意喪失した嵩
およそ1か月にわたる行軍の果てに、嵩たちはようやく上海近郊の農村・泗渓鎮(しけいちん)にたどり着きました。ここを拠点に、部隊は決戦に向けた準備に入ります。
しかし嵩は、泗渓鎮に着くなりマラリアを発症してしまいました。
マラリアは、蚊(ハマダラカ)によって媒介される感染症です。
行軍中に捨てた蚊帳があれば防げたかもしれないという後悔が、熱にうなされながらも頭をよぎったそうです。
毛布を何枚かけてもガタガタと震えるような寒気と高熱に耐え、ただ横たわるしかなかった嵩でしたが、軍医から与えられた特効薬・キニーネの効果で、2週間後にはようやく立ち上がれるようになりました。
発症が行軍中だったなら命はなかったかもしれず、まさに紙一重だったのです。
しかし、回復した嵩を待っていたのは予期せぬ事態でした。
船で届くはずだった大砲が敵の攻撃によってすべて海の底へと沈んでしまい、兵器を失った砲兵隊は、役割を果たす術を失ってしまったのです。
それでも嵩は腐ることなく、手書きの壁新聞を制作しはじめます。
所属する暗号班の力を発揮して内地のニュースや部隊の情報を収集。自作の四コマ漫画も掲載し、嵩の新聞は兵士たちに好評だったそうです。
限られた資源ではありましたが、「仲間を喜ばせたい」という一心だったのでした。
そんな静かな村での創作活動のかたわら、嵩をもっとも苦しめたのは容赦ない空腹でした。
長期化が見込まれる上海決戦に備え、軍は食料を節約・備蓄する方針を打ち出し、食事は一日2食、しかも麦飯を薄めたようなおかゆだけです。
空腹をどうにかしのぐため、嵩は野草を口にし始めます。たんぽぽにも手を出しましたが、あまりの苦さに喉を通りません。
最終的には、「茶がら」まで食べたそうです。
耐えがたい空腹に、嵩は気力を失っていきました。
「決戦に備えよ」と言われても立ち上がる元気すらない……そんな極限の境地に、彼は追い込まれていたのです。
敗戦 理不尽な軍隊
こうして空腹に耐えながら「上海決戦」を今か今かと待っていた嵩たちでしたが、昭和20年8月15日、戦争が終わりました。
幸運なことに、捕虜になることも地元の人々との諍いもなく、半年をかけて兵士たちは帰国の順番を待つことになりました。
しかし、ここで一つ問題が発生します。備蓄していた大量の食糧です。
長期戦を見込んで倉庫いっぱいに保管された手つかずの食糧は、なんと3年。
「米軍や中国軍に奪われるくらいなら、全部食べてしまえ」と軍の上層部は言うのです。
その時の様子を、嵩は著書『ぼくは戦争は大きらい』の中で次のように書いています。
「急に食べろと言われて食べられるものじゃないですよ。みんなでそのへんを走って一所懸命にお腹を空かせて、また食べたりしていました。
バカみたいですね。
戦争が終わっても、軍隊というところは融通が利かない、というか理不尽なところです。結局、アメリカ軍も中国軍も食糧を取り上げには来ませんでした。」やなせたかし著『ぼくは戦争は大きらい』より引用
本当にバカみたいな話ですが、軍隊という組織では、私的な制裁による暴力をはじめ、平時であれば到底許されないような理不尽な行為が、まかり通っていたのでした。
日本軍の異常に高い餓死率
数え切れないほどの日本兵が飢餓や病気によって命を落としていった現実を思えば、嵩たちの部隊はまだ「運がよかった」と言えるのかもしれません。
日中戦争の勃発から敗戦まで、日本軍の戦死者はおよそ230万人。
そのうち、およそ140万人、実に6割近くが餓死、または栄養失調が原因の病気で亡くなっているのです。
これほどまでに多くの兵士が飢えに倒れた理由は、制海権・制空権を失ったことで補給路が寸断され、深刻な食糧危機に陥ったためです。
そもそも帝国陸海軍は武器や装備の充実を最優先とし、本来軍の生命線であるべき兵站(物資や人員の補給・輸送)や給養(食事や衣類の供給)、衛生・医療体制、そして情報といった領域を軽んじる傾向がありました。
なかでも陸軍は、兵士たちに必要な物資を現地での「徴発」、つまり現地民からの強制的な調達を基本方針としていたのです。
嵩の手記には、徴発の様子が次のように記されています。
「食糧が乏しくなると、その辺の村を徴発しながら行軍するんだけど、村人はすでに逃げていて誰もいない。空き家に入って、貯蔵してあるピータンや肉をかき集めて食べるわけです。いま考えてみれば、盗賊まがいでした。」
やなせたかし著『絶望の隣は希望です』より引用
それは、持久戦を支えるにはあまりに脆く、危うい作戦でした。
兵士たちが対価も支払わず現地で物資を奪う「徴発」は実質的な略奪でしたが、その略奪ですら確実に食料を得られる保障はなかったのです。
中国戦線では、先遣隊が通過した集落では食べられるものがすでに全て持ち去られ、後続の部隊は飢えに耐えながら、さらに奥地へと食料を求めてさまよわなければなりませんでした。
その様は、まるで野良犬や落ちぶれた盗賊のような哀れな姿だったといいます。
さらに、長引く食糧不足と過酷な任務に疲弊した兵たちは、栄養失調によって免疫が低下し、感染症に次々と倒れていきます。
補給が完全に絶たれた状況下では、薬も食料もなく、病に伏した者が回復する望みはほとんどありません。
病やけがによって自力で歩けなくなった者に残されたのは、「餓死」か「自決」の二つだけでした。
また、人家も畑もない太平洋の島々のジャングルで飢えに苦しんだ兵士たちは、ついには味方同士で食料を奪い合う悲惨な状況に陥っていました。
そして、こうした無慈悲な戦争の犠牲になったのは、いつだって末端にいる名もなき兵士たちでした。
情報の隠蔽、徴発という名の略奪、餓死、玉砕、特攻……どこまでも理不尽を貫き通した軍組織の深層に潜んでいたのは、兵士を駒としか見ない、人を人とも思わぬ人命軽視という深い闇だったのかもしれません。
やなせたかし氏は、戦争についてこのように語っています。
「戦争は狂気です。なんでもない普通の温厚な人物が狂ってしまう。隠れていた獣性が剥きだしになる。誰でもジギルとハイドの二重人格を持っており、平素はそれが抑制されているだけです。
日本人を悪魔のように罵倒する反日運動があります。しかし立場を変えれば同じになる。憎悪を極端に煽動すれば、また戦争になって流血は避けられない。真に憎悪すべきは戦争です。」やなせたかし著『人生なんて夢だけど』より引用
参考文献
やなせたかし『ぼくは戦争は大きらい』小学館
吉田裕『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』中央公論新社
やなせたかし『絶望の隣は希望です』小学館
やなせたかし『人生なんて夢だけど』フレーベル館
河野仁『〈玉砕〉の軍隊、〈生還〉の軍隊 日米兵士が見た太平洋戦争』講談社
文 / 草の実堂編集部