沖縄にテレビが来た!65年前、テレビマンたちの奮闘の歴史を描いたものがたり 脚本・ゴリさんインタビュー
65年前の1959年11日1日、沖縄テレビは沖縄で初めてのテレビ局として開局した。当時の沖縄は本土復帰前のアメリカ統治下で、まだ沖縄県民全体がテレビを見ることなどできない時代。そんな中、番組の制作経験もろくに無い当時のテレビマンたちが、激動の政治・社会的状況に翻弄されながらテレビが新たなメディアとして確立していく過程を、実際のアーカイブ映像もまじえながらコミカルな奮闘劇として描くドラマ「おきなわテレビはじまりものがたり」を沖縄テレビが制作した。
主演の新人ディレクターを演じるのは豊見城市出身で女優・モデルの池間夏海さん。そのほかの出演者には沖縄ではお馴染みの顔ぶれが出揃う。 そして、脚本を手掛けたのはガレッジセール・ゴリこと照屋年之さん。「僕に脚本を託すということは、真実もありながら、見る人が楽しめるようにっていう“エンタメ”の部分も期待されてると思いました」と語るゴリさんに、たっぷり話を聞いた。
テレビマンの奮闘をコメディで
—今回のドラマについて教えてください。
65年前、当時最大のエンターテイメントだったテレビが、日本には上陸しているのに沖縄にはまだ来ていないという格差がありました。めっちゃ悔しいじゃないですか(笑)。 実は米軍基地の中にはもうテレビはあったんですけど、沖縄県民は見ることができなかった。そこで沖縄の先人たちが、沖縄県民にもテレビを見せてあげたいということで米軍やGHQとの交渉をしたり、テレビを作ったこともないスタッフを集めてどうやったらテレビを作れるのかと奮闘したり…そんな内容になっています。
—脚本を執筆しながら、どんなことを感じていましたか。
当時は放送時間の全ての枠を埋められないから、毎日東京から空輸でフィルム持ってきて、何とか生放送で東京のニュースを流してギリギリで間に合わせる、といった奮闘劇が僕はすごく好きでしたね。 その一方で、GHQから許可をもらっている立場ということもあって、あまりことを荒立てたくない。かといって、米軍の事件やもめごとを隠すのか、果たしてそれは報道と言えるのか…と葛藤しながら勇敢に戦うテレビ局の社員たちの話に胸打たれました。そういうエピソードの部分はもう本当にサァーっと脚本書けたんですよね。ただ、それだけだと堅苦しいドラマになってしまうので、そうはしたくなかったんですよ。 やっぱりOTVさんが僕に脚本を託すということは、真実もありながら、見る人が楽しめるようにっていう「エンタメ」の部分も期待されていると思いました。だから、その点では存在しなかった役も作って、コメディ要素を入れつつ、真実から離れ過ぎないような形で色々と笑いどころを入れるように意識して作りましたね。
ちゃんと”ゴリ”らしくする
—そんな中で、特にインパクトがあった当時の面白エピソードなどあれば教えてください。
今だとテレビ局の社員は花形で給料は悪くない方なのに、あの頃ってそもそもテレビを持っている家庭がほとんどない。お金を持ってる人しかテレビを買えないから、スポンサー料が入らない。つまりテレビ局は儲からなくて、テレビ局の社員は安月給なんですよね。 だから社員はみんな借金をしてて、給料日当日は局の玄関前に借金取りが群がってたそうで、「今日は取り立てるぞ!」と勇んでる借金とりたちを避けて、みんな裏口から逃げてたんですって。それで何とか逃げて、借金は返さないくせにその日の夜は居酒屋に集まってみんなで酒飲みながら「頑張るぞ!」って言ってたりして、すごく人間っぽいんですよ(笑)。
—なんだか凄く絵が浮かびますね…(笑)。そういった事実ベースのエピソードもありつつ、フィクションを織り交ぜて物語を作っていく中で、大変だったことや意識したことはどんなことでしょうか。
当時関わった人がもうお亡くなりになってしまっていて、より詳しいことが生の声で聞けないというのは、苦しみとしてありました。それを踏まえると、真実を変えるということはもちろんやってはいけないので、真実を伝えながら、要所要所で誇張をまぜていくことで物語の厚みを増やしていくっていうんですかね。そういう部分が僕の腕の見せどころになってくるのかなと思いました。 せっかくオファーをいただいた以上は「良い脚本書けましたね」って言わせたかったので、諦めずに何度も何度も粘りました。オチをどう落とし込むかをすごく考えましたし、テレビが頑張って作り上げてきたもの、沖縄県民に真実の報道とエンターテイメントの安らぎを与えたこと、そして沖縄復帰を迎えるまでの歴史的意味も込めて、こうした要素が楽しく伝わるようにした上で、“ゴリらしく”するために最後はちゃんとお笑いで終わるような内容にしました。
エンターテインメントは調味料
—今回の物語を作っていく中で、沖縄の今まで知らなかったことに出会ったり、あらためて沖縄に向き直したような感覚はありましたか。
沖縄まで毎日飛行機でフィルムを運び込むというのは、やっぱり物理的な限界があるんですよ。飛行機が遅れたら放送が遅れるわけですよね。でもその中で、ただテレビ局だけが頑張っているだけじゃなくて、色んな企業の皆さんも含めて自分たちの利益だけじゃなくって、沖縄のために立ち上がるんですよ。政治に訴えかけ、日本政府に訴えかけ、九州から海底ケーブルを引っ張って広大な工事も成功させることにわけです。 僕は「復帰っ子」ですけれども、僕らの世代からはもうテレビ見えるのが当たり前。これまでの奮闘の経緯やありがたみに気付かずに育ってきてるんですよね。だからこうして過去の出来事を勉強させてもらったことによって、今のこの状況が当たり前じゃない時代があったんだっていうことを教えてもらえた。そんな良い機会を与えてもらったなと思います。
—ドラマを作っていく上での“ゴリらしさ”についてお話されていましたが、社会とエンタメ、あるいは社会と笑いの関係性について、ゴリさんはどんな風に捉えていますか?
社会って、良いことだけではないじゃないですか。悪い部分も当然あるんですけども、そういう社会の悪い面に真剣に向き合う人もいれば、嫌な思いをしたくないから見たくない人もいるはずなんですよ。 でも、そこに「笑い」という要素を入れると、見たくない聞きたくない人も興味を持ってくれるんです。その意味で、やっぱりエンターテインメントは“調味料”としてとても大事だと思うんですよね。例えば、ゴーヤーチャンプルーは嫌いだけれども、「ほんだし」かけたら食べられるみたいな(笑)。
—なるほど(笑)。卵でとじたらさらに食べやすくなりますもんね。
そうそう。そうやって苦味を和らげて食べられるようにする、という部分がやっぱりお笑いとかエンタメの役割でもあると思っています。だから、どうしても堅苦しいイメージになってしまう社会問題にエンタメを混ぜ込むことによって、食べられない・食べたくないという人の口元まで持っていける。 そう考えると、やっぱり良い関係じゃないですかね。もちろんエンタメはエンタメだけでもいいし、社会問題を伝えたり考えたりする報道も必要だけれども、それらを混ぜることによって、色んな人たちの“口に入っていく”ものなのかなと。
「当たり前」ができるまでの奮闘の歴史
—最後に、読者にむけてメッセージをお願いします!
朝起きたら当たり前のようにつけるテレビですが、先人たちの汗と涙の闘いによって、今の「当たり前」があるんだということを感じてもらいたいですし、このドラマを観ることでテレビ各社の社員さんに少し優しく接することができるんじゃないでしょうか(笑)。テレビマンが好きになるというか。 奮闘の歴史についても、OTVの番組ですけど、大きなことを成し遂げられたのはもちろんOTVだけじゃなくて他の県内のテレビ局の頑張りもあったんです!…ということを制作チームの人に何度も言われて(笑)、沖縄ってやっぱり横のつながりも大事にするんだな、と温かいものをもらいました。そんなことも感じてもらえればと思います。