「加賀百万石」の前田家。外様大大名の地位を確固たるものにした石高と内政手腕
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。令和七年は大河どらま『べらぼう』にて江戸時代の日ノ本が描かれておるわな。故にきっと皆々も江戸時代について興味が出てきておるのではなかろうか。というわけで今年は江戸時代についての話を多く記そうと思うておる! 前回の戦国がたりでは戦国時代の終わりと江戸時代の始まりについて話したわな。此度は儂(わし)らにとっての江戸時代の始まり、すなわち「前田家が百万石の大大名になるまで」について話して参ろうではないか!これは語らねばならないことが実に多い!故にいつもの戦国がたりよりも、ちいとばかり話が長いが最後までしかと読み、前田家をよく知るが良い!加えて、儂の息子たちの名前が多く出てくるでな。こんがらがらないように心してついてまいれ!
前田家の領地が「百万石」になるまで
皆が知っての通り、我が前田家は「加賀百万石」と呼ばれるほどの非常に大きな勢力であり、多くの石高を有する藩として幕末まで続いておる。
幕府を除けば日ノ本最大勢力を誇る我ら前田家だが、改易や転封の嵐が吹き荒れる江戸時代初期をどのように過ごしたのか。時代を追いながら紹介いたそう。
まず、戦国と呼ばれる時代。尾張の小領主に過ぎなかった前田家であるが、信長様や秀吉のもとで功をたて加賀と能登を中心に大きな版図(はんと)を築いた。
じゃが儂こと前田利家の代では、領地は100万石に至っておらぬのだ。
さらにいうなら前田家は、儂が加賀国、儂の嫡男・利長が越中国、次男・利政が能登国をそれぞれ治めておってな。儂が直接治めておったのはおよそ23万石に過ぎなかったのじゃ。
外様最大の藩として功を立てた嫡男・利長
前田家の石高が100万石を超えたのは関ヶ原の戦いの後。
儂の跡を継いでおった利長が東軍につき、その功を認められて加増された。それに加えて、次男・利政が“軍を動かさなかったこと”を徳川殿に咎められて改易となり、利政の領地も利長が治めることとなった。故に前田家は外様でありながら日ノ本一の大藩となった次第である。
じゃがこの時点では、利長の領地は100万石にわずか届いておらんかったそうでな。この後に行われた検地にて石高が改められたことで120万石を超える大藩になったのじゃ。
前田家は、のちに加賀藩から富山藩と大聖寺藩を支藩として分け、加賀藩102万石、富山藩・大聖寺藩は共に10万石となった。
加賀藩単体でも100万石を保とうという意図を感じる分け方であるな!
さらに儂の五男・利孝は、大坂の陣ののちに幕府より1万石を与えられ七日市藩(現世でいう群馬県富岡市の一部)を開いておる。
北陸の122万石と幕府から新たに与えられた1万石、前田家は合わせて123万石の領地を治めておったと言えるのじゃ。
余談が長くなったが、関ヶ原の戦いの後に前田家は徳川家に従い続け、天下普請では外様筆頭の藩として多くの城の築城に携わるなど、さらに功を立てる。
しかし、やはり徳川家からの監視の目は厳しかったようでなぁ。
人質として江戸に下っておった母・まつとの再会を、利長は願っておった。
一度、利長が越中一部を幕府に返上しようと要請したことがあるようなのじゃが、これにはまつとの再会や、自身の養生のために領地の加賀を離れることを求めた対価としての申し出であったようじゃ。
じゃが、最後までこれは叶わず、利長は慶長19年(1614)にこの世を去っておる。
利長が死んだのは大坂の陣が始まる前年で、徳川と豊臣の対立が避けられなくなっていったことも心労となったのであろうな。
前田家の地位を確立した我が四男坊・利常
して、この後を継いだのは前田利常、我が四男坊じゃ!
利常は名古屋城の普請や大坂の陣でも活躍し、前田家の立場を確固たるものにする。
子がいなかった利長の養子となっておった利常は儂の若い頃に似て傾(かぶ)き者でな。
江戸幕府三代将軍・家光殿の代に謀反の嫌疑をかけられるも、のらりくらりとかわして無事に生き残っておる。
二代・徳川秀忠殿と家光殿の代には、江戸幕府の土台を築くためか多くの藩が改易されておった。この辺りの話もいずれできたら良いのう。
因みに利常は秀忠殿の次女・珠姫を妻に迎えておるし、我が五男・利孝は秀忠殿の側近として働き、大坂の陣でも活躍したことを秀忠殿に評価されて先に申した七日市藩を開いておるで、徳川家から嫌われておったわけではなく、立場上、前田家を警戒せざるを得なかったというのが誠のところであろう。
この頃の難局を見事乗り切った前田家は、江戸時代を通じて徳川家に継ぐ立場を与えられ重く丁寧に扱われた。
徳川御三家に並ぶ官位を与えられ、江戸城内に与えられる部屋も大名家の中で最も格が高かったそうじゃ!
さらには一国一城令で城の数が制限されておる中で、前田家は加賀に金沢城に加えて小松城の築城も許されておって特別な扱いを受けておることがわかるわな!
他にも葵の紋や松平姓を与えられ、代々の加賀藩主も将軍より偏諱(へんき)をされておる。
幾度も婚姻を結んでおることもあって準親藩とも言える立場で外様大名としては別格の立場にあったのじゃ。
現世において金沢が芸術の街として知られるのは、徳川家からの厚遇で財政に余裕があったことが大いに関係しておるであろうな!
前田家が徳川家に取り込まれたようにも思えるが、家康殿に天下を譲った儂へ徳川家が恩を返してくれたのじゃと思えば悪くない心持ちである。
加賀藩はもちろんのことじゃが、三つの支藩も無事に明治維新を迎えた。これは快挙とも呼べる珍かなことじゃ。
前田家の内政手腕、要の越中国
して、この江戸幕府との良好な関係に加えて、内政がうまくいっておったことも江戸時代を通して大藩でいられた理由の一つじゃろう。
十村制と呼ばれる農政改革(平たく言えば有力農民に他の農民の統制をしてもらうことじゃな)、そして治水工事にて豊かな国作りに成功し「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどであったし、先に申した芸術に加えて、重要な書を集め保護したことからも「加賀は天下の書府」とも呼ばれたのじゃ。
特に四代目藩主・綱紀の政が評価されておって、江戸時代有数の名君として水戸黄門こと水戸光圀殿と並んで名が挙げられるほどじゃ!
加賀藩の内政がうまくいったことは我が子孫ゆえに鼻が高いのじゃが、前田家が治めていた土地は海が多く、水運業が発達したことに加えて作物の育ちが良いことも大きな要因であろう。
特に越中国は米づくりに適しておって、戦国時代には進んでおらんかった新田開発が、江戸時代に発展した技術によって大いに進み、石高以上の旨みがあった。
加賀百万石の名で隠れがちであるが越中は前田家の肝であったといえよう!
時代が進むにつれて幕府や他の藩と同じく財政に苦労するようにはなるのじゃが、江戸時代において政(まつりごと)が成功した藩の一つといえる。
このまま幕末の動乱においての前田家の話をしようと思うたのじゃが、この先必ず幕末の日ノ本についての話も書くで、その時に合わせて伝えることに致す!
終いに
此度の戦国がたりでは前田家が地位を確固たるものにするまでの話をいたしたが、いかがであったか!!
江戸時代の主役はやはり江戸の街だでな、他の藩がいかなる暮らしをしておったのかは中々注目が集まらぬが目を向けてみれば面白いであろう!
本年の大河どらまでも我が前田家の名前がどこかで出ればええなあと思っておるけれども、江戸時代を通して前田家はおとなしくしておったでな、皆も期待半分で注目してほしいところじゃ!
次回の戦国がたりでは江戸時代と言えばの一つである参勤交代について記そうと考えておるで楽しみに待っておれ!
して、来年の大河どらま『豊臣兄弟』に参陣する者たちが発表されたのう。
信長様を小栗旬殿が、儂を大東駿介殿が演じるそうじゃ!
儂も矢張り中心人物として描かれる予感がして気分が良い、三年ぶりの戦国大河も楽しみであるな。
それでは此度はこれにて終いといたそう。
さらばじゃ!!
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)
前田利家
名古屋おもてなし武将隊
名古屋おもてなし武将隊が一雄。
名古屋の良き所と戦国文化を世界に広めるため日々活動中。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』をきっかけに、戦国時代の小話や、戦国ゆかりの史跡を紹介している。