『毛利家存続の鍵を握った名将』小早川隆景の智略とは 〜秀吉からの圧力を巧みにかわす
豊臣秀吉の天下統一を陰で支えた名将、黒田官兵衛。
その智謀は類まれで、秀吉が「官兵衛がその気になれば天下を取れる」と評したほどである。
そんな官兵衛が、「賢人」として特に高く評価したのが、小早川隆景である。
毛利元就の三男として生まれ、毛利家の一門衆として家を支え続けた隆景は、戦場だけでなく政務や外交でも非凡な手腕を発揮した。隆景はただの武将ではなく、冷静な判断力と深慮を備えた人物として、同時代の名将たちからも一目置かれる存在だった。
では、官兵衛が隆景を「賢人」と称えた理由とは何だったのか。その背景には、隆景が示した数々の知略や人間性があった。
今回は、その逸話や功績を通じて、彼がどのような人物であったのかを探っていきたい。
冷静沈着な指揮
天文24年(1555年)、毛利元就と陶晴賢(すえ はるたか)が激突した「厳島の戦い」は、毛利家にとって運命を分ける一戦であった。
兵力では劣勢の毛利軍に対し、陶軍は約1万の大軍を擁し、圧倒的に優勢だったとされる。(※両軍の兵数については諸説あり)
戦闘前、元就は来島村上水軍の援軍を期待していたが、到着は遅れ、焦燥を募らせていた。
元就が「来島が来なければ、毛利・小早川水軍のみで戦う」と覚悟を固める一方で、隆景は最後まで村上水軍の来援を信じ、部隊の士気を維持し続けた。
毛利軍は夜間の暴風雨の中での渡海作戦で敵の虚を突き、奇襲攻撃を成功させる。
『万代記』によれば、第2軍の小早川隊は午後9時頃に厳島神社沖に到着し、風と闇に紛れて岸へ近づいた。そして、「筑前から援軍として参上した。陶殿にご挨拶したい」と偽りの理由を述べて上陸したいう。
その後、隆景率いる小早川隊は、宮尾城の籠城兵と連携し、塔の岡に陣取る陶軍の本陣を急襲。さらに、第3軍の来島村上水軍が陶軍の退路を断つことで、戦況は一気に毛利軍有利に傾いた。
追い詰められた陶晴賢は逃亡を図るも果たせず、自害を選んだ。
この勝利により、毛利家は陶軍を壊滅させ、瀬戸内海での勢力を強固なものとした。
隆景の冷静さと指揮力は毛利軍に欠かせないものであり、勝利に大いに貢献したことだろう。
秀吉の「中国大返し」への対応
天正年間(16世紀後半)、織田信長が勢力を拡大して中国地方にまで影響を及ぼす中、毛利家は当初、軍事同盟という形で平和を保っていた。
この同盟において、毛利家の交渉役を務めたのが小早川隆景であり、織田家側では羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が窓口となった。
しかし、織田家と毛利家の利害対立が表面化するにつれ関係は悪化し、ついに秀吉率いる織田軍が備中高松城を攻める事態に発展する。
この時、信長が京都の本能寺で家臣の明智光秀に討たれるという歴史的事件が発生した。(※本能寺の変)
光秀を討つために急いで畿内へ戻る必要があった秀吉は、毛利家との停戦条約を結び、戦線を離脱した。(※中国大返し)
信長の死を知った毛利家では、吉川元春をはじめとする家臣たちが「今こそ追撃の好機」と進言した。
しかし、隆景は「一度結んだ停戦協定を破ることは武士の恥」と反対し、追撃を断念させたという。
この時隆景は、秀吉が信長亡き後の天下人となる可能性を見据えていたとされる。また、兵力的にも追撃は困難な状況であり、現実的な判断だったといえよう。
結果として、この決断が秀吉の信頼を得る契機となり、後に隆景は秀吉政権において重要な役割を担うことになる。
武士としての矜持を守りながらも、未来を見据えた隆景の判断は、毛利家の存続においても大きな意味を持つものとなった。
秀吉からの「養子」押し付けの対応
羽柴秀俊(後の小早川秀秋)は、秀吉の養子として育てられ、秀吉の後継者候補として期待されていた。
しかし、秀吉に実子である秀頼が誕生すると、後継問題が浮上する。
幼い秀頼を後継者とする意向を強めた秀吉は、成長した秀俊が後継者争いの中心となることを恐れ、秀俊を豊臣家から切り離す方策を模索する。
その一環として、秀吉は毛利家の後継問題に目をつけた。
毛利輝元には当時、実子がいなかったため、秀吉は秀俊を輝元の養子として送り込み、毛利家を間接的に支配下に置くことを考えたのである。しかし、この計画を知った隆景は「秀俊が毛利家の養子となれば家が崩壊しかねない」と判断する。
隆景は、秀吉からの公式な打診を待たず、元就の四男である元清の子・秀元を毛利家の養子にすると、早々に秀吉へ伝えた。
しかし、これだけでは秀吉の機嫌を損ねる恐れがあるため、隆景はさらに策を講じた。
「秀俊を、小早川家の養子として迎え入れる」と提案したのである。
この案によって、秀俊は毛利家ではなく小早川家を継ぐことになり、秀吉の意向をある程度満たす形として、毛利家の危機を回避したのである。
この隆景の迅速かつ巧妙な対応は、毛利家の独立性を守ると同時に、秀吉との関係を悪化させない絶妙な判断であった。
毛利家の存続を可能にした隆景の政治的手腕は、まさに英断と言えるだろう。
四国攻めと九州攻め
隆景は、秀吉から深い信頼を受け、天正13年(1585年)の四国平定や、天正14年(1586年)九州征伐にも参加し、多大な功績を挙げた。
四国攻めの後は秀吉の意向を受け、伊予(愛媛県)での統治に尽力した。
隆景の伊予の統治に関しては、宣教師のルイス・フロイスが「深い思慮をもって平穏に国を治めており、日本では珍しく、伊予国には騒動も叛乱も見られない」と評している。
九州征伐後は、筑前・筑後・肥前1郡、合わせて37万1,300石の領地を与えられる。しかし、隆景は毛利家全体の安定を第一に考え、自らが遠く九州に移ることで家中に混乱を招くことを懸念し、一度はこの申し出を辞退した。
代わりに、筑前や筑後の統治を他の領主や代官に任せ、自身は佐々成政と交代で九州の治安維持を行う案を提案したが、この案は秀吉に受け入れられなかった。
最終的に、隆景は九州を領有することを決断し、これが豊臣政権下で一大名として新たな役割を担う転機となった。
この九州への移封には、秀吉が隆景を毛利家本体から切り離し、直接的な影響下に置こうとする意図があったと考えられる。
一方、隆景が九州への移動準備を進めていた時期に、伊予の旧勢力である河野通直や西園寺公広が同時期に命を落としている。
これは秀吉の命令で殺害されたという説もあり、小早川家を含めた伊予の旧勢力を一掃するという、豊臣政権の方針があった可能性も指摘されている。
黒田官兵衛との逸話
隆景は、黒田官兵衛との間に深い親交を築いていた。その関係を象徴する逸話の一つに、隆景が官兵衛へ向けて行った次のような助言がある。
「貴殿は実に優れた人物だが、物事を即断即決してしまうことから、後に後悔することも多いだろう。一方で私は貴殿ほどの切れ者ではないため、じっくりと時間をかけて判断する。そうすれば、後悔も少なくなるものだ。」『名将言行録』
隆景の訃報に接した官兵衛は「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆いたという。
『名将言行録』は幕末の館林藩士・岡谷繁実によって編纂されたもので、信憑性には議論がある。とはいえ、こうした逸話が後世に広く語り継がれている背景には、隆景の人柄や知略が高く評価されていたことがあるのだろう。
おわりに
小早川隆景は、その決断力と知略で歴史の局面に大きな影響を与えた。
秀吉が天下統一を成し遂げる上で、隆景の協力は欠かせないものであった。また、毛利元就亡き後の毛利家が困難を乗り越え存続できたのも、隆景の冷静な判断と行動力によるところが大きいだろう。
秀吉の側近であった官兵衛が「賢人」と称えたのも当然と言えるのではないだろうか。
参考:
小早川隆景・秀秋 ミネルヴァ書房 2019年3月10日発行
最強戦国武将No1決定戦 西東社 2024年3月15日発行
『名将言行録』
文 / 草の実堂編集部