デビュー60周年の加藤登紀子が歌う「百万本のバラ」の原曲は、バルト三国の一国ラトビアで生まれた子守歌だったという数奇な物語
ロシアによるウクライナ軍事侵攻が勃発してからまもなく3年になる。平和だった街に突然戦車が疾走する。戦争映画でみた恐ろしい光景が現実であることに衝撃を受けた。自国を守ろうとするウクライナに多くの国が武器や資金を送り、ロシアへの経済制裁をかけた。ロシアは撤退するだろうという甘い期待は裏切られ、いまだ泥沼状態が続いている。
一刻も早い終結を願いながらも、遠い欧州の悲惨な出来事は、対岸の火事になりやすい。けれども、シンガーソングライターの加藤登紀子は、ウクライナ侵攻の翌年の2023年5月から「百万本のバラの物語」と題したツアーを全国で行っていたのである。そのドキュメンタリーや加藤の著書『百万本のバラ物語』に出合って、楽曲としての「百万本のバラ」のルーツを知った。画家が恋をした女優に真っ赤なバラを贈るロマンチックな恋の歌だと思っていたが、「百万本のバラ」には、様々な背景があったのだ。「歌は国を越えて心をつなぐ」という思いで日本や世界各地で「百万本のバラ」を歌い続ける加藤登紀子に胸が熱くなった。
「百万本のバラ」は、1980年代半ばのソ連で大ヒットした。しかしその原曲はバルト三国の真ん中にある、ラトビアの子守歌として生まれたものだったのだ。ラトビアは北海道と同じくらいの面積で、ソ連やドイツなど大国の侵略を受けてきた。苦難の末独立を果たしたのはソ連末期の1991年である。ラトビアで生まれた原曲は、昔から歌われてきた民謡をもとにしたのではなく、ラトビアの詩人が「マーラが与えた人生」というタイトルで作詞したものである。
「マーラ(神様)はかけがえのない命を与えてくれました。けれども幸せを平等に与えてくださらなかった」という意味が込められている。大国の侵略に翻弄されてきたラトビアの苦難を暗示したものだったのである。
「マーラが与えた人生」をロシア語にしたのが、ソ連の著名な詩人、アンドレイ・ボズネセンスキーだった。彼は60年代から反体制の詩作で知られ、一時逃れたグルジア(現・ジョージア)で、ニコ・ピロスマニという貧しい絵描きが女優に恋い焦がれるという恋物語に出会い、「百万本のバラ」というラブソングにしたのだ。そして1982年にモスクワ生まれの女性ロック歌手が歌うと、多くのテレビ番組やラジオ番組で取り上げられ大ヒット。長い間人気を博したのである。以前はウクライナでも親しまれ、結婚式などにも歌われていたという。
その後ロシア語版の「百万本のバラ」が日本にも入ってきた。あるとき日本語訳になった「百万本のバラ」を聴いた加藤はどこかしっくりこなかったため、自ら日本語訳にしてコンサートで歌うようになると反響が大きく、アルバム『MY STORY/時には昔の話を』の収録曲から87年4月25日にシングルリリースしたが、口コミで広がり、2年後にはミリオンセラーとなった。
加藤登紀子の歩みをたどってみると、旧満州のハルビン市で生まれ、2歳の時に敗戦、母の実家のある京都に引き揚げてきた。この戦争体験は被災者に寄り添う気持ちを人一倍強くしたのだろう。
東京大学在学中に第2回「日本アマチュアシャンソンコンクール」で優勝し、66年5月、なかにし礼作詞、中島安敏作・編曲の「誰も誰も知らない」で歌手デビューした。71年には2枚目のシングル「赤い風船」(作詞水木かおる、曲・編小林亜星)で「第8回日本レコード大賞」新人賞を受賞している。
森繁久彌の作詞作曲による「知床旅情」はミリオンセラーとなり、第13回レコード大賞歌唱賞を受賞したのは、71年。翌年学生運動指導者で服役中の藤本敏夫と結ばれ、獄中結婚と騒がれたが、長女を出産した。
ヤマハのポプコンでグランプリを受賞した中島みゆきが「時代」(75)を歌う姿をテレビでみた加藤は一瞬で中島の虜になり、中島に依頼してできた「この空を飛べたら」はロングヒットを記録している。また、アルバムの中の曲として自らが作詞作曲した「難破船」を「あなたが歌った方がいい」と22歳の中森明菜に提供しアルバム発表から3年後に大ヒットした。加藤はアルバム80枚以上を発表し、国内コンサートのみならず、カーネギホールをはじめ世界各地でコンサートを行っている。年末恒例の日本酒を飲みながら歌う「ほろ酔いコンサート」は22年に50年を迎えたという。
歌手ばかりではない。映画に出るとなれば、高倉健主演の『居酒屋兆治』(83)で健さんの妻を射止め、宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』(92)では、ヒロインのマダム・ジーナの声を担当し、演じるだけでなく主題歌「さくらんぼの実る頃」「時には昔の話を」を歌った。
石原裕次郎の人生最後の曲「わが人生に悔いなし」を作詞したのはなかにし礼だが、彼の指名で加藤が作曲をすることに。なかにし礼も旧満州からの引き揚げ者であり、加藤のデビュー曲も担当している縁もあったが、会ったこともない大スターの石原裕次郎の最後の曲を作曲するという面白いめぐり合わせだ。
昨年は、麗しのピアニストとして話題の五条院凌とのコラボで「百万本のバラ」を歌ったが、朝早い時間からの歌唱にも関わらず、張りのある低音で訥々と歌う加藤は、齢80とはとても思えない若々しさがあった。
今、ウクライナをはじめソ連の侵略を受けた国々では「百万本のバラ」を歌うことに抵抗を感じている。「百万本のバラ」の主人公になったジョージアの画家の故郷を訪ねた加藤は、日本語を勉強する大学生たちと一緒に「百万本のバラ」を合唱することを誘ったが、拒まれた。しかし、コンサート会場で加藤は一人、日本語とロシア語で「百万本のバラ」を歌った。いつしか観衆は手拍子をし笑みを浮かべながら聴いてくれていた。「歌は国を越えて心をつなぐ」ことを実感した加藤の笑顔も輝いていた。
今年はデビュー60周年を迎え、3月からツアー「加藤登紀子60th Anniversary concert 2025 for peace 80億の祈り」が始まる。ロシアや周辺の国々の人々が「百万本のバラ」を仲良く歌う日が来ることを願いながら、加藤登紀子は歌い続けることだろう。
文=黒澤百々子 イラスト山﨑杉夫