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熊本・三角『サイハテ』12年の軌跡と終焉 坂井勇貴が挑む新たな実験『浮遊街』とは?

Qualities

熊本県宇城市三角町の山間、八代海を見下ろす高台にある「SAIHATE(サイハテ)」。既存の資本主義の枠組みにとらわれず、協力し合いながら自給自足的な暮らしを営んできた人々が住むエコビレッジだ。

そう聞いて、あなたはどんなイメージを思い浮かべるだろうか。

都会の喧騒から逃れた人々のスローライフを実現する場?

資本主義に背を向けた夢想家たちの閉ざされたコミューン?

それはあながち外れてはいないのかもしれない。
ただ、その見方で終わってしまうのはもったいない。
今回の取材を通じて、私はそう思うのだ。

〈▲ サイハテから見える風景。ここには、より良い社会のルールを実験し、形にしようとした人間の物語がある写真提供:坂井勇貴〉

3.11以降、新しい暮らしのあり方を模索するムーブメントの中で生まれたこの“村”に、2015年に入植し、共同体の中心人物となっていったのが、本稿で紹介するコミュニティ研究家・坂井勇貴氏である。

今年41歳。妻と3人の子どもとともにサイハテで暮らして10年。オルタナティブな社会のあり方を模索しながら、理想的なコミュニティの形成を試みてきた。

運営上の困難、経済的困窮、価値観の違いによる住民同士の衝突…数多のトラブルを乗り越え、試行錯誤を繰り返しながら、坂井氏はこの共同体を「理想郷」でも「現実社会からの逃避」でもなく、実践の場にすることを目指してきたのだ。

しかし、2023年11月11日、開村から12年目を迎えた日に、その幕を下ろすこととなる。

なにがあったのか。坂井氏は「これは終焉ではなく、はじまりです」と語る。そう彼は今、その広大な土地と基盤を活かしながら、新たな試みを始めようとしている。

穏やかな変革者・坂井勇貴。彼の歩みを振り返ることで、サイハテが果たした役割、そしてこれから始まる新たな挑戦を、見つめてみたい。

PROFILE

坂井勇貴

さかい・ゆうき/1984年3月生まれ、長野県出身。コミュニティ研究家。法律系の専門学校を卒業後、就職先の沖縄・小浜島でヒッピーと出会う。その後、国内外を旅しながら、多様なコミュニティに触れる。各地で出会ったヒッピー文化やエコビレッジの概念に影響を受け、「持続可能で本当に豊かな暮らし」を実現する方法を探求するようになり、2015に熊本のエコビレッジ「SAIHATE(サイハテ)」に入植。コミュニティマネージャーに就任し、運営・ブランディング・メディア戦略などを担当。「誰もが自由に、やりたいことで生きられる社会」を目指し、挑戦を続けている。

価値観の形成に影響を与えた両親からの教え


長野県内で過ごした幼少期は、彼が後に“理想とする世界”に近い環境であった。

「小学生の頃は、世界は正しいものだと思っていたし、親の教えをそのまま信じていれば、すべてがうまくいくと思っていました」

サラリーマンの父親と専業主婦の母親、そして2つ下の妹。団地で暮らす4人の家族は、坂井氏曰く「ごく標準的なもの」だったが、父の教育方針は独特だった。

「父は『子供の仕事は遊ぶこと』と言って、勉強よりも遊ぶことを優先させる方針でした。家で宿題をしていると怒られるほどで、とにかく友だちとたっぷり遊びなさい、と。友だちは“財産”だから大切にしろ、と父はよく言っていましたね」

〈▲ 近所の友だちと遊ぶ坂井少年(写真左)  提供:坂井勇貴〉

一方、母は父とは違った形で坂井氏に影響を与えた。

「母はクリスチャンでした。すごく気遣いのできる人で、“愛に生きなさい”と教えてくれた。だから僕自身、小さい頃から、困っている人がいたら放っておかなかったし、誰に対しても平等に接していました」

そうした両親の影響を受け、彼は小学校で自然とリーダーのような立ち振る舞いをするようになっていた。周囲と協力し、助け合いながら生きることが、坂井少年にとっての“当たり前の価値観”となっていた。しかし、その常識が根底から覆される出来事が、中学時代に待ち受けていた。

初めて触れた理不尽な暴力、そして世界への絶望


〈▲ 父の教えを守り遊び尽くした少年は地元の中学校へと進学。母には優しさを教えてもらった 提供:坂井勇貴〉

小学校時代は「理想とする世界」に生きていた坂井少年だったが、4つの公立小学校が集まる地元の中学に進学すると、世界は大きく変わった。彼の正しい行いを良しとしない一群がいたのだ。

「のけ者にされてる子がいたら、当然手を差し伸べるじゃないですか。小学校の頃はそうしてきたし、なにも疑問を持っていなかった。でも、中学でそれをやっていたら『余計なことをするな』と、ヤンキーたちに目をつけられ、理不尽な暴力を受けるようになったんです」

なぜ、困っている子がいたり、悲しんでいる子に手を差し伸べることが否定されるのか。しかも暴力によって、それが咎められるのか。まったく理解しがたいことだった。しかし、彼がなにより衝撃を受けたのは、大人たちの〈無関心〉だった。

〈▲ 中学時代の坂井少年 提供:坂井勇貴〉

「先生も、周りの大人も、見て見ぬふりをしているんです。誰かが助けてくれるものだと思っていたけど、そうじゃなかった。『なんで誰も助けてくれないんだ?』って、本当に信じられなかった。そこで僕、初めてこの世界に絶望したんですよね」

それまでは「親の教えを守れば、すべてがうまくいく」と信じていた。しかし、中学で初めて、彼は世界に裏切られた気持ちになった。

「次第にどうすれば、この世界と折り合いをつけて生きていけるのかを考えるようになっていました。中高時代の6年間は、サッカーに打ち込むことになったんですけど、理不尽な現実を打破できない自分の惨めさを忘れるために、部活に集中していったように思います」

中学・高校の6年間、彼はこの理不尽な世界の中で、誰とも悩みを共有することなく、ひとりもがき続けた。学校やクラスを支配する者たちが君臨する世界で「現実なんてこんなものだ」「今は耐えるしかない」といった諦めの空気が、じわじわと彼を飲み込んでいった。たしかに、それを受け入れることが唯一の生存戦略のようにも思えた。“支配層”以外の少年、少女であれば誰もが直面する現実かもしれないが、この絶望と葛藤が、その後の彼を突き動かし、やがて彼の人生を大きく変えていくことになる。

社会の理不尽さに立ち向かうため、仕組みを知るために法律を学ぶ

高校3年の進路相談——その瞬間もまた、彼にとって大きな転機となった。

「進路相談のときに、先生から『卒業後はどうする? 働くのか?』って聞かれたんですよね。そのとき、初めて『あれっ、俺、どうするんだろう』と意識したんです。今まで、あまりに将来のことを考えてこなかったというか、大人になる準備をしてこなかった。大人の仕事はお金を稼ぐこと。数カ月後には、その世界に放り込まれる。でも、お前はどうするんだ、と。高校卒業を目前にして、いきなり現実を突きつけられたような感覚に陥いりました」

通学時の電車で目に映る大人たちは、みんな眉間にしわを寄せ、つらそうに揺られていた。全然楽しそうに生きていない。稼ぐために、仕方なくそのつらさを受け容れているのだろうか? これが「現実社会の当たり前」なのか? この世界に自分も仲間入りしなきゃいけないのだろうか?

〈▲ イメージ画像 提供:PIXTA〉

そうした疑問が次々と湧いてくると同時に、「社会はなぜ、こんな仕組みになっているんだろう」と漠然と考えるようになった。

「そのとき、社会の仕組みを知れたら、“そうじゃない生き方”が見つかるかもしれないと思ったんですよ。当時、たまたま観ていたドラマ『カバチタレ!』が、行政書士がヤクザを成敗するような設定で。めちゃくちゃ安易ですけど、あれに影響されたというか、法律を知れば、暴力に対しても有効だし、この世界を生き抜いていける。そう思ったんですよね」

法律を学び、社会のルールを知れば、「つまらなそうな大人の世界」に縛られずに生きていけるはずだ。そう信じて、法律系専門学校へと進学する。

ヒッピー文化との出会い、そしてエコビレッジへ


つまらなそうな大人の生き方以外の選択肢を見つける——そんな期待を抱いて入学した専門学校だったが、ストレスからか入学して3日目には、授業中に過呼吸になって倒れてしまった。それでも、朝から夕方までの2年間、法律を学び続けた。

勉強は苦痛だった。もっと辛かったのは、どんなに法律を学んでも、大人がなぜつまらなそうに生きているのか、なぜ争いが起こるのか、なぜ弱い者いじめがなくならないのか。自身が求める“答え”にはたどり着けなかったことだ。

「法律の勉強では答えが見つからず、もっと違う生き方を探すことにしたんです」

特技があるわけでも、特にやりたい仕事があるわけでもなかった。仕事をするなら、住みたい場所でやってみたい。ただそれだけの理由で、卒業後は石垣島と西表島の間にある小浜島のリゾートホテルで働くことを決める。

〈▲ イメージ画像 提供:PIXTA〉

この南の島で、彼はまったく対照的な二つの大人の世界を目の当たりにすることになる。

一つは、富裕層の世界にいる大人の生き方。ホテルにやってくるゲストは経済的に余裕があり、優雅な時間を過ごしていた。かといって鼻につくところもなく、誰もがスタッフに優しく、自由を楽しんでいるように見えた。

しかし、その対極にあるもう一つの世界を知ったとき、彼の価値観は大きく揺さぶられた。

「島内に、ボロボロの古民家を借りて生活していた人たちがいたんですよ。髪もボサボサで、ひげもじゃもじゃで。定職も持たず、アクセサリーを作って売ったり、太鼓を叩いたり、火のついた棒を振り回して踊るパフォーマンスで日銭を稼いでいたり。この人たちはいったい何者なんだろうかと気になって、ある日、勇気を出して話しかけたんです。それが、僕とヒッピーのはじめての出会いでした」

彼らは、一般社会の常識とされる価値観とはまったく違う尺度で生きる、自由な世界の住人だった。

「こんな生き方をしている大人がいるなんて、想像すらしていなかった。どうやって生きてきたのか、今までなにをしてきたのか。僕の質問に彼らは正直に答えてくれました。お金があることで自由を得ている大人と、お金がないにも関わらず自由に生きている大人。まったく違う価値観で人生を楽しんでいる大人たちがいる。でも、僕は後者の生き方に惹かれていきました。そして退職して旅に出ることにしたんです」

22歳の夏。2年半勤めた快適な職場を捨て、彼は〈ヒッピーになる旅〉へと踏み出す。

本に書いてある“死んだ言葉”では、なにも学べない。だから会いに行く


〈▲ 〈ヒッピーになる旅〉の直前、小浜島のビーチで拾った鉄の棒でつくったというお手製の“ファイアースタッフ”。「両端に火をつけてこうやって回すんですよ」と教えてくれる坂井氏〉

旅の目的はただ一つ。国内に点在するヒッピーに出会い、その世界の景色を見ること。

「ヒッピーカルチャーなんて、書籍からでも学べる? いやいや、本に書いてあるのは、“死んだ言葉”じゃないですか。この時代はこんなカルチャーがあったってのは知る事ができるけど、本質的なことはそこからはなにも学べない。いまこの瞬間起こっているエネルギーに触れて、その時代を作る側に回らなければ、本当の意味で理解は出来ない。だから僕は自分の足を使って、リアルに会いに行ったんです。ただ、当時はSNSもなかったし、検索しても情報もない。旅に出てから気づいたんですけど、ヒッピーがどこにいるかまったくわからなかったんですよ」

そこで彼は「見つけてもらうため」に髪を伸ばし、ヒゲを生やして、汚い格好をしてヒッチハイクするためストリートに立った。止まってくれる車には、決まってヒッピーが乗っていた(むしろヒッピー以外は、まったく止まってはくれなかった)。

〈▲ 提供:坂井勇貴〉

「住む場所を提供してくれそうなヒッピーに出会えたら、働かせてくれるように頼みました。薪割りをしたり、子どもの面倒を見たり、何でもやるんです。すると、だんだん“お前、使えるな”って認められていく。で、夜になると、お酒を飲みながら深い話が聞けるんですよ。『世界はこうなっている』とか、『本当の自由とは何か』とか。今ではネットでさまざまな陰謀論が飛び交っているけど、当時はヒッピーの中でしか聞けない話も少なくなかった。今は違いますけど、若い頃の自分はそういった“知られざる真実”に熱狂していました」

彼が国内のヒッピー巡りをしていた2000年代、「日本には数万単位のヒッピーがいた」(坂井氏)という。しかし、彼らは基本的に共同体という形態を取らず、各世帯が個別に点在していた。その昔、日本にも “アシュラム”と呼ばれるヒッピー共同体が存在していたが、あの事件をきっかけとして、共同体カルチャーがすでに下火となっていたためだ。

「オウム事件を契機に、日本のヒッピー共同体は警戒され、かつてのような大規模なコミューンを形成しづらくなっていたんです。その結果、多くのヒッピーはバラバラに暮らすようになり、経済的に困窮しやすくなった。そして金がないこと、貧乏であることが、ヒッピー同士のカップルや家族の絆を壊していました。それが、僕が日本国内でヒッピー行脚をしていたときのリアルでした」

〈▲ 提供:坂井勇貴〉

「ヒッピーは誰もが“社会の奴隷になりたくない”って言うけど、結局お金がないと何もできない。世捨て人みたいな生き方しかできなくなっていく現実を見ると、この国のヒッピーって、本当に自由に生きられてるのかって疑問に思うようにもなりました。

それに、日本のヒッピー社会には厳格な上下関係もあったんです。意識高いマウントというか、虚構に気付いてない奴はダメな奴だ、みたいな選民思考があって。それもなんか変だし、果たして自由なのかって疑問もありました」

では、本当に自由に生きるためにはどうすればいいのか——その答えを海外に求め、彼はオーストラリアの“エコビレッジ”を訪れることにした。

「一人ひとり、各世帯がほぼ孤立していた日本のヒッピーとは違い、オーストラリアのヒッピーは“エコビレッジ”という共同体をつくり、それぞれが役割を持ち、分業制をとっていました。それにより持続可能な小さな社会を作っていたんですね。分業することで時間的にも経済的にも余裕があり、自由に暮らせていたんです。このとき日本のヒッピーが生き延びる道は、エコビレッジしかないんじゃないかって、心から思ったんですよ。もっともこのときの僕は、日本のヒッピーシーンの過去≒ “アシュラム失敗”の歴史をまだ知らなかったのですが」

〈▲ 提供:坂井勇貴〉

オーストラリアから帰国後、あらゆる形のヒッピー共同体のモデルを学ぶため、彼は世界各地のヒッピーコミュニティを視察する。それぞれ良い面、悪い面を検証しながら、自分なりの理想モデルを日本で実装するために、坂井氏は次なる行動に出ることとなる。

宝島での挫折と学び 理想のために汗を流すということ

日本でエコビレッジを作りたい。そう考えていた彼は、25歳のとき、鹿児島県十島村が募集していた地域振興プロジェクトに応募する。地域振興のために「島を丸ごとエコビレッジ化する」という構想をまとめ、見事採用された。

この時、パートナーのお腹には新しい命が宿っていた。新天地で、夢を共有できる家族と暮らす――期待に胸を膨らませて十島村・宝島に降り立った坂井氏だったが、彼を待ち受けていたのは、予想とはまったく異なる現実=島民からの猛反発だった。

「なにがエコビレッジだ、ふざけるな!」

島民の暮らし、事情、価値観を鑑みることなく、自分の理想を語るだけでは、誰もついてきてくれない。当然といえば当然のことだ。当初、彼ら家族は完全に孤立し、“島八分”の状態となる。

信頼を築くには、言葉ではなく行動しかない。そう考えた彼は、荒れ果てた土地の開墾を自ら申し出た。ユンボの免許を取得し、来る日も来る日もジャングルを耕す。愛する妻や、生まれてくる子どものためにも、働かないわけにはいかなかった。

〈▲ 十島村・宝島では必死になって働き、妻とともに子どもを育てた 提供:坂井勇貴〉

「開墾しているだけだと『あいつはまだ村を作ろうとしているのでは』と怪しまれるので、そこにバナナを植えることにしたんです。もちろん、いつかこの土地をエコビレッジにできたらいいなと思いながら開墾していましたけど、そこは信頼を得てから、一緒に進められたらと思っていたんです。開墾してはバナナを植え、また次の土地を開墾する。バナナは農薬も一切使わずの有機栽培だったんですが、思いのほか、豊かに実って。気づいたら日本のオーガニックバナナのトップ農家になっていました」

農業未経験にも関わらず、たった2〜3年で日本屈指のオーガニックバナナ農家となり、大手お菓子メーカーから専属契約の相談、さらにはドバイへの輸出の話まで浮上するほど、彼は経済的にも“成功”を掴みかけた。そして島民からも信頼されるようになっていた。

〈▲ 将来的な“村づくり”のために、とりあえずはじめたバナナ栽培で大成功を収めてしまう 提供:坂井勇貴〉

宝島で生活した4年の間、あらゆる仕事をやりました。とにかく島民の皆さんから頼まれたことは全部やったかな。青年団、消防団、組合、キャンプ場の管理人、灯台守、温泉の番頭、水質管理、社会教育委員。島の重要ポジションを10個以上も兼任してましたね」

当初、よそ者扱いをされていた青年は“この島の未来を担ってほしい”と言われるまでになっていた。

ここで強調したいのは、坂井氏のフィジカル性である。彼は口だけの“夢想家”ではなく、行動する“実践者”。机上の理想を語るのではなく、どんな状況でも現場で文字通り汗を流してきたプレイヤーであるという事実だ。


“バナナ農家になりたかったわけじゃない”――決断の時

2014年。2人目の子供の出産を控え、家族とともに奄美大島でしばらくの間、過ごすことにした。奄美の穏やかな時間の中で、彼はふと立ち止まった。俺は何をしているんだ?

「バナナ農家になりたかったんだっけ? 本来の目的は“村”を作ることじゃないのか、って思い出したんですよ」

島民として、農業者として、目の前の仕事にのめり込むうちに、いつしかその目的から遠ざかっていた。この島で本当にやりたいことを実現しようとすれば、あと10年、いや20年はかかる。そんなに待てるわけがない。彼は4年半に及んだ宝島での生活に終止符を打つことを決めた。

その決断は、島民に衝撃を与えた。誰もが彼を引き止めようとした。彼自身も、島での暮らしに愛着を持っていた。迷いはあった。でも、決めた。ここではなく、もっと自分のやりたいことができる場所へ行こう——。

彼は、島の住民にバナナ農園を無償で譲渡し、島を去った。

「結局、僕はゼロから何かを生み出すのが好きなんですよ。誰もいないところで、新しく何かを作る。その挑戦をしないと、生きている感じがしないんです」

そして彼が次に向かったのが、熊本県三角町の山間にある「SAIHATE(サイハテ)」だった。

「ここなら、僕が本当にやりたかったことができるかもしれない」

3.11以降に再興したヒッピーコミュニティの“雄”=サイハテの現実


サイハテは、3.11を経て、社会に変化の兆しが生まれる中で誕生したコミュニティだった。資本主義に縛られず、自由な暮らしを求める人々が集まり、「リーダーもルールもない、みんなが好きに生きられる村」を目指していた。

しかし、坂井氏が2015年に移住したとき、サイハテはすでに黎明期の熱量を失いつつあったという。

「サイハテのコンセプトは、実際にはうまく機能していませんでした。リーダーがいないってことは、責任を取る人がいないってことでもあって。運営のシステムが曖昧なまま、人が増えて、コミュニティとして崩壊しかけていました。僕でさえ最初は、“ここ、大丈夫?”って思ったほど。でも、ここほど“理想の社会”を実験できる場はなかったんです」

程なくして彼は、サイハテの運営に深く関わるようになり、持続可能なコミュニティの形を模索していく。

〈▲ 3.11を契機に、共同体文化が新たな形で再び動き出す中、サイハテはその象徴的な場となった 提供:坂井勇貴〉

宝島での経験を経て培った“行動力を伴う高いフィジカル”により、彼は率先して荒れ果てた土地を開墾し、既存の古い小屋を修理したり、ゲスト用のアースバッグハウスをセルフビルドするなど汗を流した。

「僕が来た当初はよくない状態だったけど、それを立て直そうと頑張りました。だからあの時はすごく楽しかった。みんなが自主的に動いて、エコビレッジのモデルを作ろうとしていたんです。“開拓者精神”を持った人々が集まっていたし、何かを作り上げるエネルギーに満ちていました」

〈提供:坂井勇貴〉

しかし、環境が整ってくると、最初の苦労を知らない人たちが増え始めた。新しく入ってくる人たちは、「ここに住んでいれば何とかなる」という感覚でやってくる。しかし、自分たちの村は自分たちで守るという意識がなければ、コミュニティは持続しない。

そして、ここでも最大の問題となったのは「お金」だった。

「当初、家賃は大人1人あたり月2万円でしたが、運営維持のために2万5000円への値上げを提案したんです。でも約7割が反対した。たった5000円です。飲み会を一度我慢するか、もしくは月の労働時間を4〜5時間増やせばいいと思うんです。でも、それすら“無理”っていう人がほとんどだった。こんなモチベーションでは、世界を変えることなんて到底無理だよなって思いました」

経済的にも持続不可能になり、サイハテの発起人であり、カリスマでもあった工藤シンク氏も去った。そして2023年11月11日、サイハテは12年の歴史に一区切りを迎える

今も残っているのは、坂井氏の家族と、シングルマザー3人、その子どもたち8人を含めた計16人だけ。坂井ファミリーも離れる選択はあったはずだが、彼らはそこに居続けることを決める。そして土地オーナーとの交渉の末、2024年に土地を買い取り、従来の定住型のエコビレッジ運営とは異なる、新しいコミュニティの形を模索し始めた。

新たな実験――“浮遊街”という挑戦


ヒッピーコミューンの歴史を振り返れば、理想を掲げたコミュニティは往々にして閉鎖的になり、カルト化してしまうことが多い。だからこそ、坂井氏は“内向き”ではなく、“外へ”と目を向け、一般社会とコミュニケーションを取りながら、理想的なコミュニティを作ろうとしてきた。

「結局、僕らがやりたいことは社会をよくすること。自分たちだけがよければいいというより、みんながハッピーになったらいいよなって思っていて。だから、ここが“入口”になったらいいと思ってたんですよ。シーンを全く知らないような人たちが来て、ここでいろんな価値観に触れて、自分の行きたい世界に旅立ってくれたらいい。だから、これまでのような閉じたコミューンではなく、もっと多くの人が気軽に関われる形にしたい」

そう考えた坂井氏が今挑もうとしているのが、新たな形のコミュニティ「浮遊街(ふゆうがい)」である。その土地に住むことを前提とした従来のエコビレッジとは異なり、関わることで発展する街という新しいコンセプトのもと設計されている。

「多くの人がいきなりライフスタイルを大きく変えることは難しいじゃないですか。なので、浮遊街は会員制のコミュニティのように、誰もが気軽に参加し、また帰ることができる仕組みにしたいと思っています。

たとえば1年のうち1週間だけ訪れてみたり、定期的に通ったり。少しずつ新しい暮らし方に触れることができる仕組みを想定しています。少しずつ、がポイントです。そうすることで、やりたいことで生きていくことが単なる理想で終わらず、現実的に可能になると思っているんです」

〈▲ 提供:坂井勇貴〉

現在、浮遊街では「貯蓄ができない通貨」の仕組みを導入する計画を進めている。このコインは貯めることができず、3ヶ月で消滅するという性質を持つ。貯蓄する意味がなくなり、循環し続ける通貨となることで、地域内経済の流動性を高めることを目指している。

「世界恐慌時代のオーストリア・ヴェルグルでは、経済を活性化させるため“腐るお金(エイジングマネー)”を導入。自然物のように時間とともに価値が減少=腐る通貨です。結果、地域通貨の流通量が14倍に増え、失業者がいなくなったという事例があるんです。浮遊街でもこのモデルを参考にし、ある大学の研究室と連携しながら共同研究も進めつつ、持続可能な新しい経済のモデルを構築しようと思っています」

新しい社会の形を作る――というと大仰に聞こえるかもしれないが、浮遊街はまず“違うルールを試す場”として機能させることを目的としている。うまくいかなければ次のトライをすればいいし、うまくいくなら社会の新たな選択肢となるかもしれない。

理想を声高に掲げるのだけではなく、あくまで実験として楽しむ坂井氏の姿勢は実に印象的だ。

「僕は、みんなが遊ぶ場を作りたいんですよね。みんなが楽しくて、明日も遊ぼうぜって言える場所。それが理想です」

人々が楽しく関わり、ゲームのように実験しながら、新しい経済やライフスタイルを試せる街。熊本の山間で始まったこの挑戦が、どんな未来へとつながっていくのか、今はまだ誰にもわからない。

坂井氏だってわからない。しかし、彼は前を向く。世界に初めて絶望したあの日から、現在に至るまで変わらず、ゆっくりと歩み続けてきた。既存の価値観を超えたところに、新たな社会の可能性があるんじゃないかと、ずっとずっと探してきた。そしてこれからも、その姿勢は変わらない。ずっと変わらず、いつまでもプレイヤーとして。未来を、模索していく。

↓「浮遊街」のクラウンドファンディングはこちらから
格差のない世界を「1万坪の山×発酵する通貨で「やりたいことで生きられる街」を1000人で実現する!」

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