貧しさと豊かさと、その真ん中あたりにある田舎暮らし/自給自足を夢見て脱サラ農家40年(76)【千葉県八街市】
生活が苦しい、そう言う人が多いという
コメ5キロ4200円は高すぎる
だから、ごはんはやめてパンにする
そんな人もいるという
目を転じて株高
最高値を更新したとテレビが伝える
野菜のカブならわかるけど
あっちの株のことはトンとわからない
物価高で生活が苦しい
そう言う人が多い一方での株高
何が良いのか、何が悪いのか
この国は豊かになっているのか貧しいのか
ニッポンという国の姿がよくわからない
そうつぶやきながら百姓は普段通りに働く
日の暮れが早くなった
真夏は午後7時20分まで作業ができた
それが記憶細胞に刻まれている
暗くなったからとて5時アガリは早すぎるぜ
記憶細胞がそう言う、だから照明を灯して働く
好きなのだな、トコトン働くことが
株のことはわからない、大根・カブならわかる
【写真を見る】貧しさと豊かさと、その真ん中あたりにある田舎暮らし/自給自足を夢見て脱サラ農家40年(76)【千葉県八街市】
※今回は、10月末に執筆したものを公開しております。
せっかくの手料理が家族に不評という父の悲しみ
田舎暮らしの「ごはん・暮らし・労働」
どうにも困ったものである。11月までまだ10日もあるというのに日中の最高が14度、朝の最低は12度。早すぎるじゃないの、この寒さ。まさか、あの8月の猛暑と、足して2で割ればそこそこの数字になるでしょ・・・そう天気の神様がおっしゃっているわけでもあるまい。
気温は低くとも晴れているのならば白菜、大根、キャベツ、ニンジンは喜ぶ。しかしなんとも日照時間が短い。一方で、雨多く、気温低しとなると、収穫延長を目論み、あれこれ防寒に手を尽くしたピーマン、ナス、キュウリには芳しくない。
読売新聞の人生相談で面白い悩みを目にした。相談者は10代の女子大学生。「私は父のことが好きではありません。原因は父の手料理のまずさです・・・」。母親が料理不得手ゆえ、料理が趣味という父親が作るらしい。メニューは決まって魚と野菜。肉はない。そして薄味。彼女は「まずい」と言いたいが、父は怒るだろうから、不機嫌な顔で食べたり、ため息をついたりしながら食べている・・・。
料理が趣味。薄味。魚と野菜が主体。この男性はもしかしたら立派。家族の健康を常に考えながら台所に立っているのではないか。だから僕の気持ちは父親支持に傾く。
僕は料理が趣味でもなく上手でもない。ただ、健康と肉体労働のためのスタミナ維持だけを意識しながら毎日作る。この下の写真、材料は赤ピーマン、カボチャ、ゴーヤ、シイタケ、ナス、間引いた大根の葉。それを豚肉とともにじっくり煮込む。この煮込みに、日替わりで、サケ、サバ、ブリ、キンメダイなどの魚が1皿と枝豆。それで毎日晩酌する。あの父親の料理は娘だけでなく家族全員に不評なんだそうだ。自分から台所に立つ男はまだ少ない。ゆえに可哀そうだなという気もする。
貧しくなったと感じますか
本当に貧しいとは何か。田舎暮らしで見えた価値観
Windows10のサポートが終了するというので新しいパソコンを買った。新しいといっても、じつは中古で5万2000円。20万円近くもする新品なんて買えない。僕はパソコンにからっきし弱い、無知。用語の意味がほとんどわからない。でもって、古いパソコンから新しい方に目下、データ移行をやっているのだが、日々、難儀しつつ少しずつ作業を進めている。
「貧しくなったと感じますかという」というアケート調査をしたのは朝日新聞土曜版。国連の「貧困撲滅のための国際デー」にちなんだものだそうだ。回答者2399人。貧しくなったと答えた人61%、いいえと答えた人39%。貧しくなったと答えた人で圧倒的に多いのが「食費が増えた」、これに「年金がさほど増えない」、「医療費が増えた」が続く。
僕の総収入は年金と労働の合わせて月額26万円。たしかに物価はどれも上がってはいるが。さして貧しくなったとは感じない。前にも書いたが家賃がいらない、水道光熱費は一般家庭のたぶん4分の1。今は旅行せず外食せず、幸い無病で医療費もゼロだ。ただしそれによるツケはある。家はボロボロ、着るものもボロ。家のボロは常に自力で補修せねばならず、着るもののボロは他人の目を気にせぬ度胸(あるいは鈍感?)で切り抜けている。
この背景には、田舎暮らしという生活様式が基本的に奏功している。食べ物の半分が自給できること。電車に乗って外に出かける必要がないゆえ、家のボロ、着るもののボロは、中村さんはああいう人なんだからと、近所の人からいったん承認してもらいさえすればすんでしまう。一般の人にはかなりハードであろう日々の労働も、いったん基礎体力が仕上がるとキツくはなくて、逆にさらなる体力増強につながる。医療費ゼロはその結果。田舎暮らしを本気でやれば「生活が苦しくなったと感じますか」の返答は僕に限らずみんなNOなのである。
魔の悪い自分にイライラ
失敗も不便も暮らしの財産になる
寒さは募る。これでほんとに10月かよ・・・舌打ちする。ふだん舌打ちなんかしないけれど、朝は毛糸の帽子やマフラーまで必要なくらい冷えると、ちょっと舌打ちする。
ピーマンとナスに防寒を施す。すでに一度やってある。しとかしまだ足りない。ビニールを追加するのだ。ピーマンもナスもちゃんと整列した状態では植えられていない。かつ道路側ゆえハミ出すのはまずい。デコボコ。なんともひどい見てくれ。でも防寒の役目は果たすだろう。
面白い人生相談を目にした。本人は真剣に悩んでいるのだろうが、笑いを取ろうとしているのかと思うくらい面白かった。70代のパート男性は経済的な心配はなく、家族、友人にも恵まれている。その彼はこう言う。
エレベーターにはタイミングよく乗れません。買おうと思っていたパンは最後の1個を目の前で他の人が取ってしまいます。ハトの糞が頭に落ちたり、誰もいないと思って歩きながらオナラをしたらすぐ後ろに若い女性がいたりしたことも。若い頃、たまたま無断で5分ほど早く退社しようとしたら、めったに合わない社長と玄関で鉢合わせしたこともありました・・・・
僕もしょっちゅう歩きながらオナラをするが後ろに若い女性はいない。ハトの糞が頭に落ちることはないが、泥だらけのビニールをヤブから力任せに引っ張りだそうとしたら土のかたまりが目に飛び込んだことはある。しかし最も間の抜けた話はこれだ。以前から調子の悪い太陽光発電のインバーター。ひどい雨模様だし、今日はこいつの点検修理をやろう。
固まってしまったボルトを外すのにまず苦労する。やっと開いたカバー。配線はとんでもない数。それを丹念にチェックし、ついでに内部のほこりも取る。さてこれでどうだ。プラグを差し込み、部屋の電気がつくようにセット。でもつかない。プラグの差込口は4つあるのでそのたび部屋と現場を往復するがダメ。
このインバーターはアウトということか。倉庫に入り長く使わなかった別のインバーターに交換してみる。通電するがOUTPUTのランプがつかない。うーん、困ったなあ。バッテリーとインバーターをつなぐケーブルを外したり、つないだり。このへんで我が頭と意識はだいぶ疲れてきた。
最初のインバーターは入電もOUTPUTのランプも正常に点灯する。もう一度トライしてみるか・・・ここで大きなミスをやらかす。現場にはあれこれのモノがあって見通しが悪い。天気のせいで暗い。バッテリーからのケーブルをつないだ瞬間、異音とともに煙が出た。なんと、めったにやらないミス。僕はプラスとマイナスを逆につないでしまったのだ。
今日はもうダメか。電話が鳴ったのを機に作業を中止。ランチの支度に取り掛かった瞬間・・・あれっと思う。さっき、現場と部屋を何度も往復したケーブルだが、なんだよ、オレは違うやつにつないでいた、電気がつくわけないじゃないか。パソコンの部屋には5本のケーブルがある。数が多いとはいえ、アホな単純ミス。やっと点灯した部屋の明かりを喜びながら、人生相談のあの男性の間の悪さは笑えないなあと苦笑いした。
自然とともに暮らす知恵と循環
未来を見据えた植樹の考え方
木を植えるときは1本だけでなく3本植えなさい。日よけのためと、果物のためと、美観のために
朝日新聞「折々のことば」から。アフリカのことわざであるらしい。鷲田清一氏はこう解説する。
事を起こす時には、目下の関心に囚われず、広く世界のこと、はるか先のことまで考えるようにとの謂。思考と想像の地平を拡げてゆく力がひとを大人にする。
植樹という具体的行動とともに、もっと深い精神の働きについての導きの言葉であるらしい。そして、読んだ僕はまず、40年余り前の自分の行動を恥じた。これで百姓になれる・・・その喜びでもってひたすら果樹の苗木を買い、植えまくった。結果、我が庭も畑も迷路みたいになっている。ここまで大きくなるとは知らずに植えたヤマモモなんか、今や家の屋根をあっさりふさぐ、高さ10メートル近くにまでなった。
アフリカの諺にはきっと笑われる。目下の関心にとらわれた40年余り前の僕は広く世界のこと、はるか先のことを考えていなかったのだ。でも今、プラスとマイナス、相殺すれば、いくらかおつりがくる。毎年4月から5月、新芽が芽吹き、若葉が広がる。春の光が降り注ぐ。目の前は楽園になる。冬枯れの寂しさ侘しさが募っていたぶん、新緑の季節は心が空を舞うほどに美しい。そして、柿、アンズ、キウイ、ミカン、イチジク、梅、ヤマモモ、フェイジョア、デコポン、プラム、栗、ポポー、ブルーベリー。好きなだけ果物が食べられるのである。
畑の肥料に人間が排泄したもの、すなわち屎尿を利用していた時代
屎尿が肥料だった時代の農業から学ぶこと
玉ネギ、ニンニク、ソラマメを植える準備に追われている。今日はそのうちの玉ネギだ。左右を秋ジャガとミョウガに挟まれた場所。6月から8月にかけて、大汗かいて抜いたり引きちぎったりした夏草を積み上げた。それがほぼ腐食を完了し黒々とした良質の土になっている。
問題は地下を這う篠竹。細いものは腰を下ろした姿勢でスコップで掘り取れる。しかし太いもの、長く横に這ったものはスコップでは不可だ。4本刃の鍬をフルパワーで打ち込む。この作業を頑張りすぎると夜、寝返りを打つ時に背筋がビリビリすることがある。
八割がた土に同化した夏草を手でさらいながらふと思い出したこと。パンツを土に埋めて土壌の微生物の働きを知るというスイスでの話。科学者の呼びかけで1000人が参加したらしい。埋めるパンツは100%の綿製品。数週間後に掘り出して腐食の程度を観察・・・。なるほど、僕もいつかやってみようと思う。
「朝日新聞写真館since1904」をいつも楽しみに読む。自分が生まれたころから中学生時代くらいまで、日本という国のさまが数枚の写真を通して目の前に現れる。今回注目したのは1946年(昭和21年)、東京郊外に到着した「汚穢専用列車」、そこに集まった農家の人たちの姿。
戦後の肥料不足で屎尿の需要が高まった。人間の排泄物を木製のタンクに詰めて専用列車で運んだのだ。都内の処理施設には郊外から馬車や牛車、リヤカーが押し寄せたという。
汚いことが平気な僕だが、ひとつ想像する。見知らぬ人が出したウンチやオシッコをタンクに詰めて持ち帰る、当時の農家の人たちはどんな気持ちだっただろうか。くさい、汚いなんて気持ちはなく、うちの野菜たちが喜ぶ、それだけだったのだろうか。
時代の進歩がここにもある。戦後80年の今、ホームセンターにはきれいな袋に入れて積み上げられたさまざまな肥料がある。大量購入者には業者が農家の畑まで運搬してくれる。人間が排泄したもの、ウンチやオシッコは栄養豊富だが、問題はその保管であり衛生管理だ。化学肥料万能という今、人糞で野菜が栽培されていたなんて知る人はいずれいなくなるに違いない。
買うってことは、自分を高める機会と縁を切ることでもあると思うんです
買う・持つ・作るの価値基準を問い直す
天気予報では晴れだった。しかし大ハズレ。気温も低く、終日雨であった。なんと、北の方では農家への霜注意報も出ているらしい。この先どうなるのか予測不能。しかしまあ、愚痴をこぼすだけではしょうがない。雨多く、光なく、気温も低い。そんな悪条件の中でどうすれば野菜たちを成長させてやれるか。この思案と苦心をどこかで僕は楽しんでもいる。
今月初めに植えた白菜は支障なく育っている。先月植えた白菜は暑さに苦しめられた挙句、徹底的に虫に食われて無残。そうそう、ひとつ気が付いたことがある。このすぐ上の写真の奥の方、ビニールハウスのパイプが見える、そこに植わっている白菜は写真手前のグループよりも成長が一段早いのがおわかりか。
植える直前までこのハウスはビニールで完全に覆われていた。風通しをよくするために両サイドをまくり上げ、天井部分に固定した。つまり、残った天井部分のビニールが防寒の役目を果たした。同じ日に植えたのに、丸出しの白菜より日数で言うと20日ぶんくらい成長が進んだ。植物は、ほんのわずかな環境条件の違いに対応するのだということを僕は知る。
雨の中、庭のあちこちに散乱したキウイを拾い集める。今年の猛暑の影響なのか。例年になく途中落果するものが多い。そのまま生食するには糖度が低い。でももったいないね、このままでは。ハチミツをたっぷり入れる。水分の多い果物だから弱火で3時間も煮ればできあがる。
買うってことは、自分を高める機会と縁を切ることでもあると思うんです。(足立繁幸)
足立繁幸という方は、DIYによる場所づくりに取り組む人であるらしい。鷲田清一氏は「現代人は生活に必要なものを一から自分で作るより、既製品を購入したり作業を外注したりして、金銭で賄う。が、そのことで生きているというヒリヒリした感覚も、物から届く生々しい情報も見失ったのではないか・・・」そう解説する。
僕もカネを出してモノを買うことはある。しかし、会社勤めの人なんかに比べればDIYの機会は多いのではないか。前から書くように、家の修理は定期的にやっている。また太陽光発電のバッテリーを置く場所、寒さに弱い植物を置く場所、仕事で使う資材を置く場所、そんな小屋をこれまでに6つ作った。
どれも自慢できるような仕上がりではないが、鷲田清一氏が言うように「生きているというヒリヒリとした感覚」を常に伴う。3メートルの柱を立てて横木と組み合わせる・・・そんな作業では大なり小なりの傷を手に負う。そのヒリヒリ感であると同時に、自分の手で何かを作る、そこにはたしかに精神のヒリヒリ感がある。
野菜や果物の自給も一種のDIY だと言ってもよいか。先ほど書いたが、猛暑の後は雨ばかりの日々で低温。それになんとか立ち向かう。雨対策、低温対策はかなりの手間と時間を要するが、トライ10のうち、たとえ成果ありが3つだとしても、やったぜの手応えは得られる。田舎暮らしという生き方はまさにDIY。切り傷や蜂に刺されたヒリヒリ感とともに、自分の知恵と力で暮らすヒリヒリ感がなるほどそこにはある。
田舎暮らしとは、あえて孤独を選ぶことである
孤独は不便ではなく豊かさの形
10月も今日で終わる。雨続きに苦しめられたが、昨日までの4日間、太陽に巡り合えた。野菜も困るが、晴天なしで困るのは作業着も作業靴も濡れていないものがなくなることだ。よって、さあ晴れたとなると洗濯に邁進、物干し竿がいっぱいで、竿に乗り遅れたパンツやシャツは庭木の枝に引っ掛けたりする。しかし、晴れたからとて万々歳ではない。なんと朝の気温は8度まで下がる。
この上の写真の右は3日前に防寒を施したミカン。成木になれば零下の気温にも耐えるが、これはまだ植えて2年目の若木。この冷え込みは辛かろう。一方で、長期栽培を目論み、毎年12月になる頃までの収穫を目指してあれこれ手を尽くすナスとピーマン。残念ながらナスは元気を失った。しかしピーマンはナスより寒さに強く、元気。大収穫が続いている。
冒頭に掲げた話を再びここで。物価高で生活が貧しくなったと感じる、こう答えた人が61%・・・コメ5キロが4200円では高くて買えない、だから朝食はパンにしているという人もいるらしい。このエピソードで僕が感じたことを正直に。おそらくそういう人は、6枚切り180円とかの食パンを買って食べているかも。それなら、2枚食べるとしても月額1800円で済む。なるほどコメより安い。
そうした節約生活をしている人の心を傷つけてしまうかもしれないが、力を込めると握りこぶしの中に納まるような安い食パンを僕は食べない。他はケチっても、パン好きの僕は高いが美味しいパンを食べる。単に腹を満たすものなのではなく、うまいパンは珈琲とペアを組んで朝の幸福感を増し、働く意欲を高めてくれるのだ。
たしかにスーパーに行くと食料品が高くなったことがわかる。いちばん驚くのがおにぎり200円という値段だ。若い頃の100円という値段が頭にこびりついているせいか、そりゃあんまりだという気持ちでスーパーの棚の前を通り過ぎる。
暮らしが貧しくなったと感じる人が多い一方で、ボロ家暮らしの僕が腰を抜かしそうな話もある。首都圏の新築マンションが高騰しているという話は以前から耳にしているが、過日の新聞報道で、すごいと再認識した。場所は東京港区。4LDKで80平方メートルが1億6000万円。これを30代夫婦が40年のペアローンを組んで買った。夫婦の年収は合わせて2000万円だという。
おにぎりの値段同様、昔のことが頭に残っている僕は普通の勤め人が港区に住むという時代の変遷に驚く。港区といえば、各国大使館や歴史的な建造物が多く、そこに住んでいるのは遠い先祖の代につながっている人たちだけだ。
例えば、僕が携わっていた医学雑誌の印刷は凸版印刷だったのだが、その下請けの印刷会社が港区にあり、出張校正などで頻繁に出入りした。現在ほどではないが45年くらい前にも高層建築がポツポツと出現。そんな環境の中で、僕が出入りする印刷会社は父、息子、娘など10人が働く家族経営で、かなり古い会社兼自宅の平屋には印刷機械と金属製の活字がズラッと並ぶ巨大な棚があった。
コンピューターの時代に生まれ育った人には理解しにくいだろうが、原稿を左の手に持ち、アイウエオ順に並ぶ活字の中から1字ずつ拾ってつなぎ合わせ、文章を完成させる。気の遠くなるような作業だったのだ。
少し話がそれたが、50年ほど前の港区を知っている僕には、そこに40階もの高層マンションが立ち並び、しかも一般の会社員が何倍もの競争率を勝ち残って購入し、住む。驚き以外の何ものでもない。30代夫婦で年収が2000万円だ
とは。5キロ4200円のコメに躊躇する人たちがいる一方でこの事実。株価も5万円を突破して・・・ニッポンという国は豊かなのか貧しいのか。よくわからない。
今の僕は旅行も外食も全くしない、先にそう書いた。いわばレジャー費用はゼロという暮し。ただし遊ばないわけではない。この下の写真がその遊びの1例。パソコンデスクのわきでブロッコリースプラウトや大根、緑豆などのモヤシを作る。器は二重構造になっており、下に水が張ってある。並べた器の下は電熱マット。保温のために蓋がしてある。
田舎暮らしは貧しさと豊かさのあいだ
自然と向き合う暮らしのご褒美
畑仕事を終え、熱い風呂に入り、晩酌する。そしてブログを書き、この、田舎暮らしの本の原稿を書いたりする。ちょっとくたびれたかなという頭を少しの時間、癒す。それがこのモヤシ相手の遊びなのである。垢がたまるので毎日台所に行って水を取り替え、垢を洗い流してやる。そして元の位置に戻す。
それで終わりではなく、しばし小さな緑を僕は眺める。BGMが欲しいな。静かな映画音楽、Once Upon a Time in America 、シンドラーのリスト、ひまわりなどのテーマ曲を流しながら小さな緑に目を寄せる。電熱マットは太陽光発電につないであるゆえ電気代はかからず、この遊びでの支出はタネ代だけ。しかし、夜のいっとき、これで得られるくつろぎと癒しはなかなかのものだ。
テレビでよく目にする有名観光地での大混雑。僕はもともと人混みが好きではないのだが、田舎暮らしをしてからはその性格がさらに加速したかも。観光地で川の流れのような人群れに加わってほんとに楽しいのかなあ・・・ヒネクレじいさんの独り言だ。
田舎暮らしとは、我が独断ながら、孤独に浸ることである。独りの世界に深く沈むことである。そうすることで見えてくるものがある。生き物たちの声、花の色、空の色、雨水をためる大きな水タンクの静かな揺らぎ・・・不思議なことに、孤独は心身の健康を害するとの説が世にあるけれど、我が体験を通せばむしろ逆だ。心身のサプリメントだ。
川の流れのような人混みの中で疲れを感じているアナタに、そっと・・・僕は言う。田舎暮らしは最良の「心と体の健康食」のようですと。億単位のマンション生活からは遥かに遠いよね。さりとて食べるものに困るような貧しい暮らしでもないよね。どこに行かずとも、カネかけずとも、日々の生活の中にレジャーだっていっぱいあるし。
真っ赤に染まる西の空を仰ぎながら、ああ今日もよく働いた、明日もがんばるぞ・・・畑仕事を終えた僕は腹筋とストレッチをやってから熱い風呂に向かう。ちっともドラマチックじゃなく地味この上ない日常。されど、静かな時間、ワイルドな時間、ほどよく交錯するところが僕は好き。ごはんが美味い、よく眠れる。加えて雑念生じず心に隙間なく不思議と満ちていること。ちょっと採点が甘いかもしれないが。でも人間の洪水の中でため息ついて暮らしているアナタに僕は言う。豊かさと貧しさ・・・田舎暮らしはその真ん中あたりに位置するのだと。