うまく話すよりも、大事なことがある。手話を言葉として生きる写真家・齋藤陽道さんと考える、コミュニケーションの「そもそも」【学びのきほん つながりのことば学 #1】
齋藤陽道さんによる「コミュニケーションのそもそも論」#1
手話を言葉として生きる写真家として知られる、齋藤陽道さん。
手話を禁じられ心から言葉が離れていった幼少期や、手話に出会い、初めて会話の楽しさを知った高校時代、心の底から他者とつながるために写真を撮り続けた日々など、齋藤さんが「つながり方」を発見していった過程を、他者との関係性に悩む人への道しるべとして読み解く『NHK出版 学びのきほん つながりのことば学』が発売となりました。
今回は、齋藤さんによる本書「はじめに」を特別公開します。(全3回の第1回)
言葉とことば
今、この文章を書いているとき、ぼくのそばには赤ん坊がいます。この世に生まれてまだ一年も経っていない、生後七か月です。最近、ハイハイらしき動きができてきましたが、まだ歩けませんし、むろん立つこともできません。そんな儚い年齢です。
では会話もできないかといえば、そうではありません。
赤ん坊と目を合わせながら、握りこぶしを作った両手を交差させて、胸をトントンと二回叩きます。すると赤ん坊は、目を輝かせて手を上へ差し出します。
これは「だっこ」の手話です。赤ん坊は、だっこをしてもらう準備として手をあげてくれているんですね。どれほど離れていても、目を合わせて「だっこ」と言うと、ぴかりと微笑みながら手をあげてくれます。さらに赤ん坊からも手を胸に当てて「だっこ」と返してくることもあります。こうしてぼくは、〇歳の赤ん坊と会話をしています。
ぼくは、耳が聞こえません。二歳になるころ、そのことがわかりました。
ぼくの聴力は、すぐそばでクラクションが鳴ったり、頭の上で飛行機が飛んでいても「どこかで何かが鳴っているような気がする」と思う程度です。耳元での大声がかろうじて聞き取れるくらいで、それも明瞭な音ではなく、ひずんだノイズとして入ってきます。
そもそもそんな状況はほとんどないので、普段の生活の中で音を認識することは皆無です。
……と、こう書くと、「大変だね」「かわいそうに」という思いを持たれるかもしれませんが、ぼくとしてはそれほど大変だと感じていません。
日本語とは異なる独自の文法を持つ日本手話を、ぼくはふだんの会話の手段にしています。音声を使わなくても、手と表情でしっかりと思いを伝えられるので、言葉がまだはっきりと形にはなっていない赤ん坊とも自然にやりとりができるのです。
ただ、赤ん坊にとっては、何もかもが初めて見るものばかりです。「だっこ」の手話も、いきなり通じたわけではありません。最初は「手が胸に当たっている」という動きにすぎません。ぽかんと見上げるばかりです。お互いに意味を共有していないあいだは、「交差させた手で胸を叩く」という動きはただの身ぶりです。だから、その反応は正しいのです。
意味を共有するために大事なことが、呼びかけのあとにおこなう「だっこ」を心地よいものとして感じてもらえるかどうかです。目をしっかりと合わせながら全身を包むように抱き上げて、赤ん坊の心臓の鼓動が伝わってくるように手を胸にのせ、呼吸のタイミングを合わせる……。そんなやりとりを、繰り返し、ぼくと同じくろう者である妻のまなみと一緒に続けてきました。
二人でだっこを一日に五〇回するとして、七か月(約二一〇日)のうちに、一万回以上の「だっこ」という手話を語りかけてきたわけです。
すると、生後四か月を過ぎたころから、「だっこ」に対する反応が著しく敏感になりました。「交差させた手で胸を叩く」という動きが、自らを空へ誘って、心地よくさせてくれる特別な動きであると理解したようです。
やがて六か月目ぐらいから、赤ん坊も「だっこ」の手話をまねるようになりました。これを「ミラーリング」といいます。赤ん坊が大人の表情や動きをまねるミラーリングは、心の発達に重要な役割をはたし、共感力やコミュニケーション能力、脳の発達にも影響を与えるといいます。
でも、赤ん坊の動きはまだあいまいで、はっきりと「だっこ」の手話をしているとは言いきれません。もしかすると、手を振り回した拍子にたまたま胸に当たっただけなのかもしれません。それでも、ぼくとまなみはそうした赤ん坊の動きを「ただの動き」とは見なさず、「ああ、だっこだね」と「ことば」として掬いあげてきました。
そうして「だっこだね」と応じられる体験を重ねる中で、赤ん坊は、自分のこの動きが目の前の人の行動を引き出す力を持っているのだと気づいていったようでした。やがて、おぼつかなかった手の動きは、一つの意思を帯びた、はっきりとした「だっこ」のサインへと育っていきました。
赤ん坊や子どもにとって自らの欲求を伝えることは、文字通り、生きのびるための命綱です。「おーい、私はお腹がすきましたよ」とか、きれいな発音と文法による「言葉」で言わなければわからない、なんてことがあったら赤ん坊は生きていけません。だからこそ、大人の側も、赤ん坊の「ことば」をできるかぎり幅広く解釈していかねばなりません。
ぼくは意識して「言葉」と「ことば」を使い分けています。
初めて著書を出版するにあたって、ろうの写真家として生きてきた経験を文章で表すには、漢字の「言葉」では触れられない何かがあると感じていました。
人間が扱うような「言葉」を持たないはずの動物と見つめ合うとき、まなざしを通して伝わってくる確かなるもの。赤ん坊が空を見つめているときの得も言われぬ時間。会話もないのに隣り合うだけで沁 みわたってくる親密なもの、あるいは冷淡なもの。そんな沈黙の裡に流れているものを「言葉」と言うには、あまりにも広がりがありました。
辞書で「言葉」を調べてみると、こう書いてあります。
1人の発する音声のまとまりで、その社会に認められた意味を持っているもの。感情や思想が、音声または文字によって表現されたもの。言語。
2ものの言い方。ことばづかい。
3言語を文字に書き残したもの。文字。
(スマホアプリ「大辞林 第三版」)
意味を表すための音や文字であり、社会で共通に用いられる体系という定義のようですが、出だしから「人の発する音声のまとまり」ときました。この時点で、日常的に手話を使用しているぼくが発しているものは「言葉」の定義から外れることになります。
「言葉」というものを疑わざるを得ない地点から、ぼくはスタートするしかなかったのです。
二〇一四年、ぼくとまなみは最初の子どもが生まれたその日から、いえ、授かったとわかったその瞬間から、大きな壁に直面しました。
図書館や本屋に行くと、無数の育児書が並んでいます。しかしそのどれもが、音声を使うことを前提としたものでした。赤ん坊への声かけ、語りかけ、絵本の読み聞かせ。どれも音声の育児法が当たり前のものとしてあります。
そもそも、手話による育児の知恵をまるごと載せた本が、一冊もありませんでした。ろうの親たちがどのように赤ん坊に語りかけたのか、どんなことに悩んだのか、手話でどのように子どもと向き合ってきたのか。長い人類の歴史の中には、聞こえない親もまた確かに存在し、子を育て、日々のやりとりの中で独自の知恵を育はぐくんできたはずです。けれども、そのかけがえのない実践の記録が、本という形で残されていなかったのです。
もちろん手話は三次元の視覚言語であり、書き文字で残すことが困難だということはわかります。また、ろう者が正当な言語獲得の機会を長く奪われてきた歴史とも無関係ではありません。それでも、古今東西ただの一冊も見つけることができないというのは衝撃でした。
手話による育児の喜びや知恵を教えてくれる本がない。情報の孤島にぼくらは置かれていました。生まれたばかりの子どもを前にしながら、ぼくとまなみはよく話し合っていました。
「『子ども』とか『赤ちゃん』って呼ぶと、どうしても自分より未熟な存在っていうフィルターがかかってしまうよね」
「『何も知らない子どもを教え導かなきゃいけない』って思っていると、すでにその子が発していることばを見過ごしてしまうかもしれない」
話し合いを重ねていく中で、ぼくたちは、「赤ちゃん」や「○○ちゃん」「○○くん」といった呼びかけをやめて、一個の人格を持つ存在として、「(名前)さん」と呼ぶことに決めました。
そうして「〇〇さん」と呼ぶようになってから、お互いを尊重する境界線が生まれたように感じました。「さん」というたった二文字だけで、目の前の赤ん坊が一人の人間として立ち上がって見えるようになってきたのです。「今はまだ赤ん坊であるだけの人間」、そう捉えるだけで、行動や仕草の一つひとつが、見逃せない「ことば」としてぼくの目に映るようになりました。
言葉には、強い力があるなとつくづく思います。「赤ちゃん」「〇〇ちゃん(くん)」と呼ぶときは、親子だからこその親密さがあります。しかし、その親密さには容易に相手の領域へ土足で踏み込みかねない、危ういなれなれしさもついてまわっていました。
もし「赤ん坊(子ども)は何もわからない。だから、まだ話せない」「言葉は音声で発せられるもの」と決めつけていたら、「ことば」がぼくの目に映ることはなかったでしょう。赤ん坊にとっても、ろう者の両親に自分の気持ちを伝える手段を失うことになってしまいます。
普段、ぼくたちは「言葉」を何気なく使っています。自分の気持ちを伝えたり、スマホに入力して検索したり、談笑したり、仕事の内容を説明したり、プログラミング言語のコードを入力したり、日記を書いたり……。社会は「言葉」でできていると言っても過言ではありません。そのため、誰もが「言葉」を使えて当たり前だと思っています。
しかし、樹木がないところからは葉が生まれないように、「言葉」は「言葉」だけで生まれてくるものではありません。「ことば」で満ちた母体があればこそ、数々の「言葉」が生まれてくるのです。
目の前で現れている動きや現象は、「言葉」の母体となる「ことば」として存在しています。このことを改めて意識することは「言葉」に偏重する今、とても大切だと考えます。それがどういうことなのか、本書を通して考えていきたいと思います。
『NHK出版 学びのきほん つながりのことば学』では、言葉が伝わらないことを身にしみて知っているからこそ見出した、「言葉の共有地」「言葉の解像度」「消感動と宿感動」「存在を聴く」などの視点から、安易なノウハウではない、コミュニケーションの「そもそも」を考えていきます。
著者紹介
齋藤陽道(さいとう・はるみち)
1983年、東京都生まれ。写真家。都立石神井ろう学校卒業。2020年から熊本県在住。2010年、写真新世紀優秀賞受賞。2013年、ワタリウム美術館にて新鋭写真家として異例の大型個展を開催。2014年、日本写真協会新人賞受賞。写真集に『感動』、続編の『感動、』(赤々舎) で木村伊兵衛写真賞最終候補。著書に『異なり記念日』(医学書院)、『声めぐり』(晶文社)、『ゆびのすうじ へーんしん』(アリス館)、『よっちぼっち 家族四人の四つの人生』(暮しの手帖社・熊日文学賞受賞)など。2022 年に『育児まんが日記 せかいはことば』( ナナロク社) を刊行、NHK Eテレ「しゅわわん!」としてアニメ化。同年、NHK Eテレ「おかあさんといっしょ」のエンディング曲「きんらきら ぽん」の作詞を担当。写真家、文筆家以外にも、活動の幅を広げている。
※刊行時の情報です
◆『NHK出版 学びのきほん つながりのことば学』「はじめに」より
◆ルビなどは割愛しています