放送開始40周年!おニャン子クラブを生んだ「夕やけニャンニャン」が画期的だったワケ
今から40年前の1985年4月1日、日本の女性アイドル史に大きな影響を残すことになるテレビ番組、『夕やけニャンニャン』がスタートした。後の世で同番組が語られる場合、話題はおニャン子クラブの人気爆発後に限定されがちで、放送スタート直後のことが見逃される。しかし、人気爆発前の短い期間こそがおニャン子クラブ人気の礎だったのである。本稿では、あまり語られることのない “夕ニャン創成期" にフォーカスし、ネットではあまり知ることのできない情報を織り交ぜながら振り返ってみたい。
「夕やけニャンニャン」以前に「オールナイトフジ」があった
フジテレビが1983年より土曜深夜に放送していた情報バラエティ番組『オールナイトフジ』には、一般公募の女子大生集団・オールナイターズが参加していた。オールナイターズはスタジオのひな壇に座り、コーナーMCやレポーターを務め、番組内ゲームにも参加した。メンバーの入れ替えが激しい流動的なグループで、公式に脱退する際は “卒業" と称してイベント化されることもあった。
また、お笑いタレントとの絡みを通じて個々のキャラクターを引き出し、人気メンバーをフロントに立たせるスターシステムも確立させた。レコードや写真集のリリース、コンサートの開催、さらにはドラマ出演などの “アイドル的活動” を展開していた。モーニング娘。などハロー!プロジェクト、AKB48グループ、乃木坂46ほか坂道シリーズなど、のちの多人数女性アイドルグループの嚆矢がそこにあった。
そして、『オールナイトフジ』の成功を受け、同じスタッフが中高生向けの夕方帯番組として始めたのが『夕やけニャンニャン』(以下:夕ニャン)だった。『オールナイトフジ』のフォーマットを踏襲しつつ、オールナイターズに相当する存在として、女子高生を中心としたおニャン子クラブ(以下:おニャン子)が結成された。『オールナイトフジ』を盛り上げた片岡鶴太郎やとんねるずも引き続き出演していた。
パイロット版は斉藤由貴が司会だった
『夕ニャン』の放送開始前、その前哨番組として1985年2月23日と3月16日の夕方、『オールナイトフジ女子高生スペシャル』という特番が放送された。これは文字通り『オールナイトフジ』の女子高生版であり、公募された女子高生たちがオールナイターズのポジションで出演した。
司会は「卒業」でデビューしたばかりの斉藤由貴。そして、とんねるずと同じ事務所に属し、翌年に歌手デビューする真璃子が務めた。後のおニャン子の路線とは異なり、繊細で知的なイメージで売り出された両者の起用は、ある意味でミスマッチだった。とはいえ、CMや雑誌の露出により、すでに高い人気を得ていた斉藤由貴は、番組の注目度を高めるブースターの役割を果たすことになる。
おニャン子は、この『オールナイトフジ女子高生スペシャル』に出演していた女子高校生の中から選抜された11名によって結成された。ただし、年度が変わったため、すでに高校を卒業した者も複数含まれていた。クラブという体裁のためか、全員に会員番号(初期は “会員ナンバー” とも)が振り当てられた。番組では名前とともに番号をテロップで表示することで、視聴者が各メンバーを識別しやすくなった。なお、斉藤由貴と真璃子は、『夕ニャン』に継続出演することはなかった。
とんねるずをはじめとする多彩な出演陣
1985年春、その『オールナイトフジ』で人気を高め、歌手活動を本格化させたとんねるずは、大ブレイクの瞬間を迎えていた。若者の兄貴分的存在として支持され、アイドル的な人気を拡大していたのだ。『夕ニャン』は、勢いのあるとんねるずの2人が連日出演することも大きなセールスポイントとなっていた。
スタート当初の『夕ニャン』では、とんねるずはスタジオで自由に暴れるポジションにいて、司会は別のタレントが務めていた。片岡鶴太郎と松本小雪である。『オレたちひょうきん族』で全国区の知名度を得た片岡鶴太郎は、まだヨガの人ではなく、ものまねやリアクション芸、さらには下ネタを交えたトークで人気を得ていた。 一方の松本小雪は1983年にアイドルとしてデビューしたが、この時点ではアート志向の高いキャラクターへと変化。『夕ニャン』では醒めた態度とボソッと放つ不思議発言が特徴的だった。
その他、初期には三宅裕司、浜村淳、南州太郎、岡本かおり、伊藤克信、坂本新兵といった面々がレギュラー出演していた。吉田照美の加入は番組開始翌月の5月から。オープニング曲として、チェッカーズのシングル「あの娘とスキャンダル」が流れていた。なお、番組開始当初、関東圏以外でのネット局は限られていた。近畿圏での放送が始まったのは6月のことだ。
目玉コーナーは「ザ・スカウト アイドルを探せ」
番組は約1時間の枠の中で、様々なゲームや視聴者参加型企画、クイズ、外からの中継、情報、コント、人生相談、そしてオーディションなど、いくつもの細かいコーナーで構成され、内容は随時変わっていった。 そして、1980年代のテレビ番組らしく、今の倫理観では到底許容されないような企画が、ごく当たり前に放送されていた。
例えば「とんねるずのタイマンテレフォン」というコーナーは、とんねるずが視聴者と電話で罵詈雑言をぶつけ合う内容だったが、ヒートアップした石橋貴明が、タイマン相手の個人情報をテレビで晒すような場面すらあった。また、随所で下ネタが平然と飛び交い、人の容姿を笑いのネタにするようなコーナーも存在した。ただし、人生相談のような良心的なコーナーも用意された。
番組の大きな目玉は、「ザ・スカウト アイドルを探せ」というオーディションのコーナーだった。おニャン子は11名でスタートしたが、以後は原則として、このコーナーの合格者が新メンバーとして加入するシステムが採用された。 毎週月曜に5名の候補者が紹介され、連日の審査を経て、その週の金曜に合格者が決定されるという流れだ。規定の点数に達することなく、候補者全員が不合格になる週もあったが、スタート当初はハイペースで合格者が出ていた。
審査の過程を見せることで、視聴者はお気に入りの候補者が合格するダイナミズムを体験できた。さらに、加入直後の不慣れな様子から、次第に番組に馴染み、個性を発揮し、やがてソロデビューに至るという “成長のドラマ” を楽しむことができた。ある意味でこれは、リアリティーショーだった。今日の『PRODUCE 101』や『Nizi Project』などに比べれば、ずっと牧歌的ではあったが、当時は斬新に感じられた。
場当たり的要素と戦略の絶妙なバランス
このように、おニャン子は一般公募によりメンバーを集める体裁だったが、レコード会社や芸能プロダクションがデビュー予備軍として確保していた人材もいた。
初期のメンバーでいえば事前に『ミス・セブンティーンコンテスト』で上位入賞していた国生さゆり(会員番号8番)がこの例にあたる。また、ピアノが得意な河合その子は『ティーンズ・ポップ』という楽器演奏が条件のオーディションを経てソニーにスカウトされた人物だった。逆に新田恵利(会員番号4番)や中島美春(会員番号5番)のように、バイト感覚で参加していたメンバーもいた。オーディション時に “出ろって言われたの” とバラした立見里歌(会員番号15番)はオールナイターズからの流れで合流した大学生だった。
国生さゆりが広島から上京して芸能界での成功を夢見ていたのに対し、埼玉在住の新田恵利はおいしい小遣い稼ぎの手段と考えていた。その寄せ集め感こそがおニャン子クラブの独自性だった。そこには場当たり的要素とスタッフの戦略とが絶妙なバランスで共存していたのだ。
おニャン子は手を伸ばせば届くような存在だった
『夕ニャン』放送開始2週間でメンバー5名(会員番号1番、2番、3番、7番、10番)が不祥事から番組を去るピンチがあったものの、おニャン子の人気は、短期間で広く深く浸透した。ソロアイドルが主流だった1980年代において、初めての本格的多人数アイドルであり、今の言い方でいえば “推し” は誰か?と仲間と語り合うという新しい楽しみ方を生み出した。
教室の片隅で “4番の新田恵利がいい” “いや12番の河合その子でしょ” といった会話が交わされるようになるのだ。また、首都圏では、新メンバーが続々と加入する過程で、“○○は近くの高校に通っている” とか “友達が○○と同じ中学の出身だった” といった話題が広がった。おニャン子は、手を伸ばせば届くようなリアルな存在だった。
おニャン子全員がセーラーズ等の衣装を着るスタイルが定着したのは、6月24日の放送回から。それ以前は一人ひとりがバラバラの私服姿で出演することがほとんどだった。それもまた、“身近さ” や “リアルさ” を感じさせる一因だったかもしれない。
おニャン子人気が可視化された「セーラー服を脱がさないで」
1985年5月下旬、おニャン子クラブのレコードデビューが発表される。そして、デビューシングル「セーラー服を脱がさないで」の発売日前日である7月4日、池袋サンシャインシティ・アルパ噴水広場でのイベントは、関係者の予想を大きく上回る観客が殺到したためやむなく中止に。結成から3ヶ月、初めておニャン子人気の異常な盛り上がりが可視化された。
一般的に語られるおニャン子クラブのサクセスストーリーが始まるのはここからだ。「セーラー服を脱がさないで」のジャケットに写っているもっとも新しいメンバーは、会員番号18番の永田ルリ子だった。