「ラジオってすごいな、と思いました」堀内正美、阪神・淡路大震災当時を振り返る
ニュースキャスターの長野智子がパーソナリティを務める「長野智子アップデート」(文化放送・月曜日~金曜日15時30分~17時)、12月19日の放送に俳優の堀内正美が出演。1995年の阪神・淡路大震災後当時のこと、当時のラジオ出演で実感したことなどを語った。
鈴木敏夫(文化放送解説委員)「堀内さんは震災(阪神・淡路大震災)後、ボランティアとしてずっと被災者に寄り添う活動を続けてこられました。この度、30年間を振り返った著書『喪失、悲嘆、希望 阪神淡路大震災 その先に』が出版されたばかりです」
長野智子「東京出身とのことですが、神戸に移られてどれぐらいで被災されましたか?」
堀内正美「神戸に移って11年目でした」
長野「1995年1月17日、どういった感じでしたか?」
堀内「僕の家は山の上にあったので、激震地より震度1ぐらい緩やかだったといわれます。けれど真下からドーン、と突き上げられて、体がドサッと落ちる感じで。隣で寝ていた子供に覆いかぶさるのが精いっぱいだったというぐらい。そういう経験は初めてでした」
長野「そのあとどうされたんですか?」
堀内「長田、兵庫、東灘などに友人たちがいて。煙が上がっていたので『とてつもないことだな』と思って。下りていって、友人の家にたどり着く前にビルが壊れていたり、道路で毛布にくるまっている方がいたり。まだ消防もレスキューも来ていませんから、救助をしている近隣の方々のお手伝いをし始めたんです」
長野「そうだったんですね。当時はラジオ関西(AM KOBE)のパーソナリティとしてマイクの前にも座っていらしたと」
堀内「そうなんです。神戸に10年も住んだんだから、地元の番組をやれとプロデューサーに言われて(笑)。週1回だけね、ということで早朝5時半からという。引き受ける代わりに好き勝手やらして、という条件をつけて。でもそれが災害時にラジオをどう使えばいいか、というトレーニングのようになりました」
長野「震災の前から始められて」
堀内「10ヶ月目に震災が来ました」
長野「そのときラジオで何をすべきか、というのが」
堀内「すぐわかって。携帯も持っていたので、局から出て『がんばろうKOBE』という活動を始めた。でも道が渋滞するなどして。レスキューのクルマが来たらすぐスタジオに電話して『今、西からこういうレスキューが来ているから道を開けてください』と言うと、みんなラジオ、カーラジオを聴いているから道があいていくんです」
鈴木「おお~っ」
堀内「電車を乗り継いできた人たちがどういうルートで来た、というと『福知山から山側をまわって……』と聞いたら、またそれをメモしてスタジオにダイレクトに電話して。そんなふうにして、ラジオってすごいな、と思いました」
長野「災害のときのラジオの力を……」
堀内「身をもって経験しました。あのときリクエスト電話というのがあったんです。どんどんかかってきて、安否の情報も来るけれど『電車はこう行ったらいい』『あそこに水がある』『おにぎりをつくった。ガード下に置いておいた』。そういう情報の電話が来るので、それを前に話すという感じで。本当に日常生活の中にラジオが存在していた、という感じですね」