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【狂気と情熱の画家ゴッホ】死後に有名画家となった理由とは

草の実堂

画像:『自画像』(1887年)シカゴ美術館蔵 public domain

ゴッホは、アートに詳しくない人でも『ひまわり』の画家として知られているだろう。

生前は1枚しか絵が売れず、死後ようやく評価された画家としても有名である。

死後100年以上が経過した現在、ゴッホの作品はオークションで何十億円の値がつくほどの高い評価を受けている。

しかし、なぜ生前はほとんど評価されなかったゴッホの絵が、これほどまでに称賛されるようになったのだろうか。

今回はゴッホの人生を辿りながら、彼を支え、その作品を世に広めた影の立役者にも焦点を当てていきたい。

転職を繰り返して画家へ

画像:『自画像』(1887年)シカゴ美術館蔵 public domain

フィンセント・ファン・ゴッホ(以下、ゴッホ)は1853年、オランダのズンデルトに生まれた。

父テオドルスはオランダ改革派教会の牧師であり、ゴッホは6人兄弟の長男として育った。

子どもの頃のゴッホは癇癪もちで、兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。
16歳になると、老舗の画廊・グーピル商会に就職し、その後は教師や伝道師などの仕事にも就いた。
しかし、どの仕事もうまくいかなかった。

繊細で気難しい性格のゴッホは、家族とも度々衝突し、父親によって精神病院へ入れられそうになったこともあったという。

さらにゴッホは、未亡人になった7歳年上の従姉に恋心を抱いて、プロポーズするも断られ、ストーカーまがいの行動を取ったこともあった。

そんなゴッホだったが、20代後半だったこの頃に、本格的に画家を志すようになる。

ゴーギャンとの共同生活と耳切り事件

画像:『ひまわり』(1888年8月)ノイエ・ピナコテーク蔵 public domain

1888年、彼は南フランス・アルルでの画家仲間との共同生活を計画し、尊敬するポール・ゴーギャンを招待した。
ゴッホの最も有名な作品である『ひまわり』は、ゴーギャンの到着を待ちながら、その部屋に飾るために描かれたものである。

しかし、「憧れのゴーギャンが来てくれた!」と喜んだのも束の間、芸術観の相違から関係が悪化し、ゴッホとゴーギャンはおよそ2か月で決別してしまった。

有名なゴッホの「耳切り事件」はこの時期に起きた。

あるときゴーギャンと口論になり、ゴッホは自らの耳を切り落とし、さらにその肉片を馴染みの娼婦に届けて警察沙汰になってしまったのだ。

この事件が原因でゴッホは精神病を疑われ、アルル市立病院の監禁室に隔離されることとなる。

兄を献身的に支えた弟の存在

画像:テオドルス・ファン・ゴッホ public domain

そんなゴッホをただ一人、ずっと応援してくれたのは弟のテオドルス(通称テオ)であった。

テオはうだつの上がらない芸術家の兄を、10年間にわたって支援し続けたのだ。
経済的にも精神的にも兄を支え、手紙のやり取りも頻繁におこなった。

1889年にヨハンナ・ボンゲル(通称ヨー)と結婚しても、翌年に子供が生まれても、兄に仕送りを続けた。

それだけではない。
テオは一人息子に、兄ゴッホと同じ「フィンセント」という名前を付けたのである。

ゴッホはさぞ嬉しかったことだろう。
ゴッホは甥を可愛がったが、それと同時に、テオに家族ができたことで自分は見捨てられるのではないか、自分は邪魔な存在なのだ、と自責の念に苛まれた。

ゴッホ兄弟の死

画像:ゴッホが最後の2か月を過ごした屋根裏部屋 public domain

すっかり精神を病んでしまったゴッホは、入退院を繰り返し、度重なる発作の合間を縫うように絵を描き続けた。

体調が回復した1890年5月、オーヴェル=シュル=オワーズにある食堂の屋根裏部屋を借りて生活を始める。

しかし、それから約2か月後の7月27日、ゴッホはピストルで自分の左胸付近を打ち抜いた。
銃弾は心臓から外れていたため、まだかろうじて息はあった。ゴッホの主治医だったガシェからの電報により、テオはすぐにオーヴェルに駆け付けた。このとき、ゴッホはまだ意識があり会話もできたが、29日午前1時半に37歳で他界した。

このピストル自殺については、現場を目撃した者がいないことから他殺説もある(地元の少年たちとの小競り合いの中で銃が暴発したなど)。

テオは、たった一人で葬儀の一切を取り仕切った。
当時のカトリックの教えでは、自殺者は天国に行けず、教会で葬式をあげることが許されなかった。
棺桶を運ぶ馬車すら出してもらえず、隣村でわざわざ借りてきて墓地まで運んだという。

その後テオは、亡き兄のために展覧会をやろうと奔走する。

しかし、もともと病弱だったテオは、兄の死をきっかけに衰弱し、その半年後の1891年1月25日、ゴッホの後を追うように33歳で亡くなった。

ゴッホを人気画家にした影の功労者

画像:テオの妻ヨーと、息子フィンセント・ヴィレム public domain

テオの死後、ゴッホの知名度向上に一役買ったのは、テオの妻・ヨーであった。

彼女は幼子を女手一つで育てながら、テオの意思を引き継ぎ、ゴッホの展覧会を実現させたのだ。

テオが残していたゴッホからの手紙をまとめて書簡集を出版し、ゴッホの回顧展を開催するなど、彼らの偉業を世に知らしめた。
その結果、ゴッホの絵の知名度はみるみるうちに向上し、芸術評論家からも賞賛されるようになった。

そして1990年には、『医師ガシェの肖像』が日本のある実業家によって、日本円にして約125億円で落札されるまでになったのだ。

画像:オーヴェルにあるファン・ゴッホ(左)とテオの墓 CC GFreihalter

現在、オーヴェルにはゴッホとテオ、2人の墓が並んでいる。

テオが亡くなった際、オランダのユトレヒトに埋葬されたが、その後、テオの墓はヨーによってゴッホの墓の隣に改葬された。

隣り合った2つの墓は、蔦で覆われている。

木蔦の花言葉は「分かちがたい魂」だという。

参考 :
『ゴッホのあしあと』著/原田マハ
『ゴッホの手紙』著/小林英雄
文 / 小森涼子 校正 / 草の実堂編集部

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