細野晴臣が日本の音楽シーンに与えた影響 ① まずは55年の活動を簡単に振り返ってみよう
細野晴臣が日本の音楽シーンに与えた影響 ①
いち早く海外の音楽ファンから注目を浴びていた細野晴臣
2020年前後に世界的なブームとなったシティポップ。ヴェイパーウェイヴやフューチャーファンクといった新たな音楽ジャンルの影響から、欧米圏やアジア圏の音楽マニアの間では、シティポップが人気となっていた。
それが決定的になったのは、2017年ごろにYouTubeのリコメンデーション・アルゴリズムにより、竹内まりや「プラスティック・ラヴ」が世界中のユーザーに推薦されたことだった。音楽マニアだけではなく一般的な視聴者にも人気となり、その後に山下達郎、松原みき、杏里、八神純子、亜蘭知子、濱田金吾などが、海外の音楽ファンに再評価された。
そんな中、細野晴臣はいち早く海外の音楽ファンから注目を浴びており、2018年には、マット・サリバンとジョシュ・ライトによって設立された米国の独立系レコードレーベルの “ライト・イン・ジ・アティック” から、『HOSONO HOUSE』(1973年)、『コチンの月』(1978年)、『はらいそ』(1978年)、『フィルハーモニー』(1982年)、『オムニ・サイト・シーイング』(1989年)の5タイトルがCDとアナログレコードでリイシュー。世界的な音楽ファンの間で再評価を得ていた。
アルバムのラインナップを見ると、エレクトロミュージック、アンビエントミュージック、テクノポップ、トロピカルミュージック、ミニマルミュージック、ワールドミュージックなどの側面が強い作品群で、ポピュラー音楽として高い評価を得ていたことが伺える。シティポップ・ブームと細野晴臣の海外での再評価の時期が近かったため、ブームの流れに入れられがちだが、実際にはその前から高い評価を得ていた。
はっぴいえんどの影響下にある多数のバンドが1990年代にデビュー
1969年にエイプリル・フールのベーシストとしてデビューした細野晴臣は、大滝詠一(vo、g)、鈴木茂(g)、松本隆(ds)とバンドを結成。バンドは、1970年に “はっぴいえんど” の名称でデビューした。細野晴臣が強く影響を受けたバッファロー・スプリングフィールド、モビー・グレイプ、ザ・バンドなどのサウンドを指標としながらも、“ロックに日本語の歌詞を付けるという” という松本隆が提言したコンセプトを導入して、独自の音楽性が生まれた。その後にデビューした、乱魔堂、センチメンタル・シティ・ロマンス、荒木和作&やまだあきら、銀河鉄道など、多くの後継者を生んだ。
その影響力は1980年代にいったん落ち着いたが、1990年代に入ると、渋谷系、レア・グルーヴ、サバービアなどの新たな音楽ジャンルやムーヴメントの誕生から再び影響力を増す。それを裏付けるかのように、1990年代から2000年代にかけて、サニーデイ・サービス、フリーボ、コークベリー、benzo、キンモクセイ、ママレイド・ラグ、ラリーパパ&カーネギーママなど、はっぴいえんどの影響下にある多数のバンドがデビューした。
ニューミュージックと歌謡曲の垣根を飛び越え、スタジオワークやライブでも活躍
はっぴいえんどの解散後の1973年、細野はキャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)を結成。バンドというよりも、スタジオプレイヤーチームとか音楽プロデュースチームとかの色合いが強い、それまでには無かったスタイルのプロジェクトだった。同時期には海外でも、ザ・セクション、スタッフ、ゴンザレスなど、同指向のバンドが自然発生的に誕生していたが、日本国内では先駆者的な存在となった。その後、日本でもトランザム、惣領泰則&ジム・ロック・スーパー・セッション(惣領泰則&ジム・ロックス)、パラシュートなど、同指向のバンドが誕生している。
また、アグネス・チャン、荒井由実、小坂忠、吉田美奈子、雪村いづみ、いしだあゆみなどの諸作品のベースを担当。ニューミュージックと歌謡曲の垣根を飛び越え、スタジオワークやライブでも活躍。ベーシストとしても高い評価を得ており、ウエノコウジ(the HIATUS)、千ヶ崎学、HISAYO(tokyo pinsalocks、a flood of circle)、ハマ・オカモト(OKAMOTO'S)など、後年のベーシストたちにも影響を与えている。
テクノポップ・ブームを巻き起こし社会現象となったYMO
1979年に、高橋ユキヒロ(高橋幸宏 / ds、vo)と坂本龍一(key)と結成したイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)は、国内にテクノポップ・ブームを巻き起こし、社会現象に。アメリカでもレコードがリリースされ、世界的にも著名なバンドとなった。その影響は歌謡曲界隈にまで及び、テクノポップ風のアレンジを施したテクノ歌謡も多数生み出された。
また、それまでも多くの楽曲の作曲を手掛けていたが、イエロー・マジック・オーケストラの大ブレイクにより、細野は歌謡曲でも多数の名曲を提供。イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」(1981年)、松田聖子「天国のキッス」(1983年)「ガラスの林檎」(1983年)、中森明菜「禁句」(1983年)、安田成美「風の谷のナウシカ」(1984年)など、大ヒットを多数放った。
同時にソロワークでは、『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年)をプロデュース。ゲームミュージックがジャンルのひとつとして確立するきっかけを作ったほか、エレクトロミュージック、ワールドミュージック、アンビエントミュージックなどにもアプローチ。それぞれのジャンルの普及に大きな貢献をした。ほか、 ¥EN、ノン・スタンダード、モナドといったレーベルを立ち上げ、ゲルニカ、インテリア、Shi-Shonen、PIZZICATO V、WORLD STANDARDなど、新たなミュージシャンの発掘も行った。
国内のみならず、海外の音楽家にも影響を与え続けている細野晴臣
イエロー・マジック・オーケストラ以降は、フレンズ・オブ・アース、HIS、スウィング・スロー、スケッチ・ショウ、ヒューマン・オーディオ・スポンジなど、短期間の活動のユニットが多くなるが、幅広い音楽性で、国内のみならず、海外の音楽家にも影響を与え続けている。
近年のソロ作はカバー曲が多く、1950年代のブルース、リズム&ブルース、ジャズ、ポップスが中心だ。ライブではバンドセットによる、ほぼアコースティックなカントリー風のサウンドを展開。その反面、『HOCHONO HOUSE』 (2019年)では、全ての演奏を自ら担当した宅録作品をリリース。ひとつの音楽性に留まらず、現在進行形で変化している音楽性を体現しており、国内のポピュラー音楽界の最重要人物のひとりであることは揺るぎない。
半年に渡る連載で細野晴臣の魅力を検証
このように、国内のみならず、海外のアーティストにも大きな影響を与え続ける細野晴臣55年のミュージシャンとしての軌跡は1回のコラムで語られるものではない。なので、これから半年に渡る連載で細野晴臣の音楽について、様々な切り口で検証していきたいと思う。細野が1969年に参加したエイプリル・フールからイエロー・マジック・オーケストラを経た現在までの活動について、ミュージシャンとして、作曲家としてなど、その魅力を多面的に紐解いていきたい。お楽しみに!