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『罪と罰』に隠し込まれた本音──亀山郁夫さんと読む『ドストエフスキー』#1【NHK別冊100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

『罪と罰』に隠し込まれた本音──亀山郁夫さんと読む『ドストエフスキー』#1【NHK別冊100分de名著】

亀山郁夫さんによるドストエフスキー『罪と罰』読み解き #1

19世紀、急激な近代化が進んだ過渡期のロシアで、人間の内面に深く迫った大作家ドストエフスキー。その作品は、時代を超えて私たちの心を強く揺さぶります。

『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』は、「100分de名著」で取り上げた『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』に『悪霊』『白痴』『未成年』の三作品の書き下ろし解説を加えた一冊。この五大長編を解説するのは、ドストエフスキー作品の新訳も手掛けたロシア文学者・亀山郁夫さんです。

重層的でミステリアスな作品に込められた作者の意図を、クリアに解読していく本書より、第1講「『罪と罰』──なぜ、人を殺めてはいけないのか?」全文を、特別公開します。(第1回/全8回)

Ⅰ 傲慢という名の罪

「ペテルブルグ、空なるべし」

 全六部とエピローグからなる長篇小説『罪と罰』は、作家ドストエフスキー(一八二一~八一)自身にとって、もはや「創造的啓示」としか呼びようのない奇跡的な想像力の高まりから生まれ落ちた作品です。一八六五年に執筆が開始され、翌六六年、雑誌「ロシア報知」の一月号からはじまった連載は、読者の大きな反響を呼び起こしつつ、十二月号(六七年二月刊)をもって完結することになります。

 本稿では、たんに物語のあらすじを追うだけではなく、物語がはらむ自伝的な部分、歴史的事実、さらには象徴的な側面について、できる限りくわしく見ていきます。物語を流れる時間は、小説では明確に記されていないので諸説ありますが、エピローグをのぞき正味二週間(おそらく七月七日から二十日までの十四日間)とするのが定説です。

 主人公は、大学の法学部を学費未納で放校になった学生、ロジオーン・ラスコーリニコフ。

 「深く自分の殻に閉じこもり、世間の人たちからも孤立してしまった」彼は、アパートの屋根裏部屋に鬱々とひきこもる毎日を送っています。家庭教師のアルバイトもやめ、下宿代も滞納したまま、食事すらろくにとらずに、なにやら奇怪な空想にふけっているのです。

 その空想とは、歴史上の英雄や天才のような少数の「非凡人」は、多数の「凡人」とは異なり、人類にとって有益な目的のためならば、ある一線を「踏み越える」、すなわち罪を犯す権利をもつというものです(この思想が読者の前に明らかにされるのは、第3部の後半以降です)。そしていま彼の頭の中を占めているのは、ある具体的な殺人計画でした。

 第1部では、そんなラスコーリニコフが、逡巡を重ねながら計画の実行へといたるまでの三日間が、きわめてスリリングな筆致で描かれています。

 舞台となるのは、帝政ロシアの首都サンクトペテルブルグ。

 ドストエフスキーが「地球上でもっとも現実離れした都市」「もっとも抽象的で架空の街」と呼んだペテルブルグは、十八世紀のはじめ、ネヴァ川の河口、フィンランド湾の沼沢地にピョートル大帝が建設した人工都市です。石で堅牢に造られているにもかかわらず、その下に大地はなく、むしろ深淵が広がっているという漠たる感覚に支配され、都市全体が、いわば箱舟のような浮遊感覚の中で息をしていました。

 「ペテルブルグ、空(くう)なるべし」という呪いの言葉が、この街の未来に不吉な影を落としていました。この呪いは、ペテルブルグ建設に多大な人的犠牲を伴ったこと、しかも、労働に狩り出された民衆の中に、ロシア正教会から離反させられた、いわゆる「分離派」の教徒が数多くいたことに由来しています。いつしか彼らの呪いが成就し、この街は水の中に沈んでしまうだろうという、終末論的な予言を人々は真剣に信じていました。

 おそらくドストエフスキーの頭の中では、大地にしっかりと根ざした「大きな村」であるモスクワとは対照的に、どこか現実離れした近代都市ペテルブルグと、屋根裏部屋で現実離れした空想にふけるラスコーリニコフの存在が二重写しになっていたにちがいありません。

 小説の冒頭を見てみましょう。物語の第一日目です。

 七月の初め、異常に暑いさかりの夕方近く、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている小さな部屋から通りに出ると、なにか心に決めかねているという様子で、ゆっくりとK橋のほうに歩きだした。
 階段口で彼は、下宿のおかみとぶじ顔を合わさずにすんだ。彼が借りている小部屋は、五階建ての高い建物の屋根の真下にあって、部屋というよりもどこか戸棚を思わせるところがあった。

(第1部第1章)

 屋根裏部屋という言葉に、私たちは極貧の生活を想像しがちですが、当時のロシアの学生の大半は貧しく、ラスコーリニコフだけがとりわけ貧相な下宿に住んでいたというわけではありません。彼の悲惨な生活は、むしろ彼自身に原因がありました。たしかに部屋は狭く、みすぼらしいのですが、彼は、故意に現実との絆を断ち、自分自身をぎりぎりの状況に追い込んでいるように見えます。建物の頂点にある屋根裏部屋というトポス(場所)のもっている意味は、この小説の読解にとってきわめて重要な意味を帯びています。「頂点と悲惨が同居する空間」によって、現実離れした観念に狂わされ、足が地に着かない、いわば天と地に引き裂かれた存在としてのラスコーリニコフが象徴されていると思うのです。屋根裏部屋とは、まさに彼の精神性のシンボルです。

 この屋根裏部屋については、「戸棚を思わせる」という印象的な比喩も出てきます。作者はその後、「戸棚かトランクか」とも記し、さらに「船室」に三度なぞらえ、上京した母親に「まるで、棺桶ですよ」と言わせることにもなるのです。とくに「船室」という比喩には、作者の実感がこもっています。というのも、作者はこのくだりを、コペンハーゲンからペテルブルグへ向かう船の中で書いていた可能性があるからです。しかし「戸棚」や「棺桶」のイメージは、新約聖書の「ラザロの復活」や、ハンス・ホルバインの絵画『墓の中の死せるキリスト』を喚起させる、より重要な象徴性を帯びた表現かもしれません(このことについては後で詳しく触れます)。

 このような読解は、あくまで象徴的次元での「解釈」になりますが、ドストエフスキーという作家は、物語のリアリティを追求する一方、トルストイなど他の作家とは異なり、読者による「謎とき」もしくはクリエイティヴな読解を誘発する、重層的かつミステリアスな書き方をする作家でした。

「二枚舌」の方法

 なぜ、ドストエフスキーはそのような書き方をするのか。

 それは文学の「方法」として議論すべき問題なのですが、ドストエフスキーの場合は、いささか特殊です。なぜなら、彼は、かつて死刑判決を下されたことのある元国事犯であり、彼の書くものはすべて、常に検閲の目に厳しく晒されていたからです。つまり、『罪と罰』の作者自身が、過去に犯罪者の烙印を押された経緯があるのです。

 一八四八年、当時二十七歳のドストエフスキーは、ユートピア的な空想的社会主義のひとつ、フーリエ主義を奉じる「ペトラシェフスキーの会」に参加しました。はじめは穏健な立場にあったドストエフスキーですが、パリから帰還した革命家スペシネフの影響もあり、徐々に極左的な立場をとるようになります。そして翌年、秘密警察により逮捕され(ペトラシェフスキー事件)、銃殺刑の判決を受けます。ところが、これは仕組まれた芝居でした。死刑執行の直前に突然、皇帝ニコライ一世による恩赦が下り、シベリアへの流刑となるのです。

 八年間におよぶ刑期と兵役をつとめあげ、ペテルブルグの文壇に復帰してからも、ドストエフスキーは本音と建前に引き裂かれ、いわば「二枚舌」の表現を余儀なくされていきます。たとえば、『罪と罰』では、検閲官に気どられないよう細心の注意を払いながら、アナーキストたちの言葉を登場人物のセリフに忍ばせたりもしていますが(第3部でのラスコーリニコフのセリフ「永遠の戦争、万歳」も、アナーキズムの思想家プルードンからの引用です)、かりに反体制的な人物に肩入れするような表現を用いれば、彼の立場は危うくなり、発禁処分にされてしまう恐れがありました。ですから、意図してディテールをぼかしたり、象徴や伏線の手法を用いたり、複数の人物を対等に対話させる「多声性(ポリフォニー)」(バフチン)の方法を採用したのではないか、という見方もできるわけです。

 その方法はまた、作者の独特の想像力のあり方にも由来しています。すなわち、作者自身の統一的な人格が、ある瞬間に二つに割れて二人の人物となり、その後さらに細分化を重ねることで、無数の分身が誕生していく、そして作者は、それら個々の登場人物に憑依していくという、マルチな想像力のあり方です。このような細分化のプロセスを経る中で、作者の本音は周到に隠し込まれていきます。善と悪、愛と憎しみといった二項対立の境界は曖昧になり、作品全体が両義的な解釈を許容するような成り立ちをもつようになるわけです。作者の立場に立った場合、それこそが「二枚舌」の手法であり、読者にとっては、限りない「謎とき」の面白さがあるとも言えるでしょう(皮肉な見方をすれば、作者の本音を探ろうとする検閲官こそが、ドストエフスキーの最高の読者だったのかもしれません……)。

「自由」の幻想

 ここで作品の時代背景について、簡単に説明しておきましょう。

 西欧にくらべて近代化の遅れた十九世紀前半のロシアは、農奴制が存続し、ひとにぎりの貴族階級と圧倒的な数の農奴から成り立っていました。今日風の言い方をすると、まさに二極化です。今日の二極化と異なる点は、彼ら農奴たちは、貧しいながら、キリスト教の教えに忠実に、ある意味では調和的とも言える生活になじんでいた点です。ところが十九世紀に入るとまもなく、その二極的な構造に徐々にきしみが生じはじめ、社会全体に不穏な空気がみなぎってきます(一八二五年のデカブリスト事件、四九年のペトラシェフスキー事件もそうです)。

 一八六一年、急速に近代化を進めようとする、時の皇帝アレクサンドル二世によって、「農奴解放」が行われました。しかし残念なことに、この改革は社会にさらなる混乱を生み出す結果となりました。ナロードニキの思想家ゲルツェンは、この改革を「飢えと放浪への解放」と呼びましたが、現実に、解放された農奴たちは土地すら与えられず、多くは流浪の民となって都市に押しよせていきました。夢と希望、幻滅と失望が交錯する時代のはじまりでした。

 仕事を、お金を、快楽を、そして自由を求めて、多くの人が首都ペテルブルグに流れ着きました。しかし都市の底辺に巣食う産業予備軍とでも言うべき彼らは、充分な仕事も与えられずに、結局少しでもお金が手に入ればアルコールや売春宿に快楽を求め、箍(たが)がはずれたかのように悪の道へと走りました。こうして、ペテルブルグの町では、盗みや殺しなどの犯罪が爆発的に増加し、火災も頻発しはじめます。と同時に「自殺」が、一種のパンデミックに似た現象を生み、老若男女を問わず人々の心を蝕んでいきました。その状況にはどこか世界の終末を思わせるところがありました。無際限な「自由」の幻想はカオスと化して、都市の底辺にひしめく人々の心の中に渦をなしていたからです。

 「農奴解放」は、新しい神を生み出しました。「自由」という神、いや、与えられた自由を快楽に変え、欲望を実現してくれるお金という万能の神です。「お金」という神もまた、徐々にグロテスクな力をはぐくんでいたのです。

 一方、知識人たちは、自己犠牲的な観念にかられつつも、社会の変革という大義のために無神論をとなえ、その実現のためには犠牲を厭わないといった考えに傾いていきます。ドストエフスキーの目には、彼らは限りない傲慢さの泥沼にはまり込んでいる、と映ったはずです。その典型の一人が、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフでした。

 さらにもう一つ、重要なディテールを付け加えなくてはなりません。すなわち、『罪と罰』の連載が始まった一八六六年は、ロシア正教会の歴史にとって、いや、ロシアの精神史にとってきわめて重要な「分裂」の年であったという事実です。一八六六年は、「分離派」が誕生してから二百年という象徴的な年にあたり、ドストエフスキーは、確実にそのことの意味を把握していました。そして同年四月には、元大学生ドミートリー・カラコーゾフによる、皇帝アレクサンドル二世の暗殺未遂事件が起きるのです。

「お金」の魔力──小説の誕生

 真夏の熱気と雑踏、土ぼこりと悪臭に満ちた通りへと出たラスコーリニコフは、数えて七百三十歩先の目的地に向かいます。そこはアリョーナという金貸しの老女が住むアパートでした。アパートの薄暗い階段を四階まで昇りつめると、老女の部屋です。老女はその部屋に、リザヴェータという腹違いの妹と住んでいました。彼は、この老女を殺害し、金品を奪うという計画を実行に移すべく、その下見とリハーサルを兼ねてやってきたのです。

 ラスコーリニコフがここに来たのは二度目で、前回は妹にプレゼントしてもらった指輪を質入れしたのでした。今回、彼は、父の形見である銀の懐中時計を質入れしてお金を借ります。「四ルーブルぐらいつけてもらえませんか」という青年に、「利子天引きで、一ルーブル五十コペイカでどうかね?」という老女は、前回分の利子まで引いて、結局一ルーブル十五コペイカしか貸してくれません(一ルーブル=千円くらいと考えてください。百コペイカで一ルーブルです)。老女は月一〇パーセントもの法外な利子を取る高利貸しでした。

 ドストエフスキーは、古今東西の文豪の中でもとくに、お金のもっている運命的な力について根源的な思索を重ねた作家です。

 デビュー作『貧しき人々』にも細かいお金のやり取りが出てきますが、まだそこでは、お金は、人間の精神の支配下にありました。ところが『罪と罰』になると、もはや状況がまったく異なっています。お金がはらむ凄まじい魔力を人間が支配できなくなり、逆にお金が残酷なまでに人間を支配しているという、きわめて現実的な構図が描かれています。それまでのロシア文学において、お金のテーマがこれほどにも前景化して描かれた小説はありません。まさにそこに『罪と罰』の真のリアリティが潜んでいると言っても過言ではないのです。

 先に触れたように、この時代のロシアでは、「自由」と「お金」とが双面のヤヌス神のように一体化し、人々の心を荒々しく呑み込んでいました。その意味でも、ドストエフスキーの小説はきわめて現代的なテーマをはらんでいたと言えます。そして人間を振り回す力としてのお金に着目したドストエフスキーは、彼自身がお金に翻弄され、身をもってお金の威力を知った人物でした。

 一八三九年、彼が十八歳のとき、抑圧的な存在だった父が領地で謎の死をとげ、それをきっかけに彼の内面の深化がはじまります。その後二十代に入ってからは、羽目を外した浪費癖もはじまり、領地からの仕送りを食事や賭博に蕩尽しては、借金を繰り返します。兄弟や友人知人のみならず、『罪と罰』のように高利貸しに質入れして借金もしています。そんな常軌を逸した生活ぶりと、一方で彼が抱きつづけるヒューマンな理想との間に生じた葛藤は、その後の彼の作家としての人生に大きな影響をもたらすことになります。

 一八六五年、妻マリアや兄ミハイルの死という私生活上の危機とともに、巨額の借金を抱えたドストエフスキーは、過去の作品の著作権譲渡もふくむ自殺的な契約で出版業者に前借りした三千ルーブルで、その一部を返済し、外国旅行に旅立ちます。そして、ドイツの温泉地ヴィスバーデンでまたしてもルーレットに溺れ、なけなしのお金を使い果たして一文無しになったあげく、ホテルの支配人から食事はおろか、蠟燭(ろうそく)まで拒絶されるという大ピンチに陥りました。

 世界文学の歴史に残る傑作『罪と罰』は、そうした極限的な状況の中で生まれました。同年八月、同じホテルで小説は書きはじめられます。その後、無事、ホテルから解放されたドストエフスキーは、コペンハーゲン経由で十月にペテルブルグに戻り、翌年にかけて『罪と罰』の執筆を本格的につづけていきます。小説のモデルとなったのは、新聞に裁判の速記録が載った、六五年一月モスクワの宝石商殺害事件でした。さらに同年九月ペテルブルグで起きた高利貸し商殺害事件の新聞記事も、作家の想像力を刺激し、小説にさらなる肉付けがされていきました。

 『罪と罰』は、はじめ「ある犯罪の心理報告書」として、一人称の告白体で書き進められましたが、その後、以前から構想していた『酔いどれ』という物語と合体して「創造的爆発」を起こし、告白体による一人称形式ではもはや書ききれなくなった作品世界の奥行きが、三人称の語りによる新たな形式で書き直されていきました。

本書『別冊 NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』では、・第1講 『罪と罰』──なぜ、人を殺あやめてはいけないのか?
・第2講 『白痴』『悪霊』『未成年』──ロシアの闇、復活の祈り
・第3講 『カラマーゾフの兄弟』──父殺し、または人間という解きがたい謎

という全3回の講義を通して、重層的な作品の意図を明瞭かつ大胆に解読していきます。

■『別冊NHK100分de名著 集中講義 ドストエフスキー』(亀山郁夫 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書におけるドストエフスキー作品の引用は、著者訳の光文社古典新訳文庫版に拠りますが、一部著者が訳し直している箇所があります。

著者

亀山郁夫(かめやま・いくお)
ロシア文学者、名古屋外国語大学学長
1949年栃木県生まれ。東京外国語大学外国語学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。天理大学、同志社大学を経て1990年より東京外国語大学外国語学部助教授、教授、同大学学長を歴任。2013年より現職。専門はロシア文学、ロシア文化論。著書に、『ドストエフスキー父殺しの文学』(NHKブックス)、『新カラマーゾフの兄弟』(河出書房新社)『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』、『ドストエフスキー黒い言葉』(集英社新書)などが、訳書にドストエフスキー『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』(刊行中)、『カラマーゾフの兄弟』(いずれも光文社古典新訳文庫)などがある。2021年より世田谷文学館館長。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。

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