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『リア王の悲劇』藤田俊太郎(演出)×木場勝己(リア王役)×水夏希(ゴネリル役)インタビュー

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左から)水夏希、木場勝己、藤田俊太郎

KAAT神奈川芸術劇場の2024年メインシーズンの幕開けを飾るのは、『リア王の悲劇』(2024年9月16日~10月3日)だ。シェイクスピアの「リア王」には、クォート版『リア王の物語』とフォーリオ版(シェイクスピアによる改訂版)『リア王の悲劇』があり、この折衷版が『リア王』として上演され続けてきた。今回はこれまでの折衷版『リア王』とは異なる、河合祥一郎による新訳のフォーリオ版を、日本で初めて舞台上演する。今回、演出の藤田俊太郎、そして、リア王を演じる木場勝己、その長女ゴネリルを演じる水夏希の三人が、作品への意気込みを語ってくれた。

――今回の上演バージョンの特色についてお聞かせください。

藤田 「リア王」には、クォート版『リア王の物語』とフォーリオ版(シェイクスピアによる改訂版)『リア王の悲劇』があり、二つの折衷版が『リア王』として日本でも上演されてきましたが、今回は河合祥一郎さんの新訳によるフォーリオ版を上演します。KAAT神奈川芸術劇場の2024~2025年シーズン、長塚圭史芸術監督が掲げたシーズンタイトルが「某」(なにがし)で、その幕開けを担わせていただけるというお話をいただき、テーマも含めて色々考え、劇場の皆さんと話し合いを重ね、長年演出したいと強く思っていた『リア王の悲劇』を選びました。

シェイクスピアが、3世紀から5世紀あたりのブリテンという物語の時代設定にこだわって書いた作品ですが、河合さんもその設定の意図を明確にしながら翻訳されており、登場人物の生き様がとても個性的に躍動しているのが特色です。やはり、物語が、悲劇が面白いんです。この戯曲を読んだ世界中の皆さんがそう考えていると思いますが、文学としても世界最高峰の作品だと感じています。いつ触れても新しい気づきを与えてくれて、リア王の生き方や成長、死に様から得るものは多いと思います。

リア王の役は、木場勝己さんに演じていただきたいと心の中で思っていました。仕事柄、どういう方がこの役を演じると素敵だろうかと思って書物を読むわけですが、リアの木場さん、ゴネリルの水夏希さんを想像していました。演劇人として尊敬している木場さんとまた仕事ができることを幸せに思い、水さんとの初めてのお仕事を心から嬉しく思っています。

――その木場さんがこの役を引き受けられた理由は?

木場 僕は“シェイクスピア俳優”じゃありません。でも、どういうわけだか、シェイクスピアの作品、量はけっこうやってるんです。『リア王』も1990年代に一度、道化の役で出演した経験があります。もっと言えば、中学の一年生のとき、ペンフレンドクラブの余興の出し物でリア王を演じることになりそうだったんです。結局はやらなかったのですが。つまり13歳の時に出会って、一度だけ道化の役で出演経験があって、今回、リア王役がきて、せっかくジジイになったことだし、ジジイの役もいいなと思って引き受けました。

――「“シェイクスピア俳優”じゃありません」の心は?

木場 観客としてシェイクスピアの芝居を観ている時に、何か、シェイクスピア俳優らしい人がやっているシェイクスピア作品を、一度たりとも面白いと思ったことがありません。何か想像を超えない、“らしい”というだけではグッと来ない舞台にこれまで出会ってきていて。それで、私は“シェイクスピア俳優”じゃないと、いつも言っているのです。僕はそうじゃないものを作りたいな、と。誰も観たことのないリア王をやりたいと思っています。

――今回、エドガー役(リア王の家臣グロスター伯爵の嫡子ながら、策略により追いやられる)を女性の土井ケイトさんが演じ、道化とコーディーリア(リア王の三女)を原田真絢さんが一人二役で演じられます。

藤田 もう20年以上前になりますが、かつて僕は役者を目指していました。ニナガワ・スタジオのオーディションを受け、蜷川幸雄さんやカンパニーの皆さんに演技を観ていただける機会があり、いくつかあったテキストの中から選んだのが『リア王』で今回の座組では章平さんが演じているエドマンド役(グロスター伯爵の私生児でエドガーを陥れる)のモノローグでした。大自然に言及する一幕二場のセリフ、この大自然は彼の中の大自然であり、この場所を支配していきたいという強い気持ちの表れだと思うのですが、その言葉に惹かれてオーディションを受けたというのが自分の演劇のスタートでした。それから時間が経ち、元々男性の役を女性によって演じられる、もしくは男女の役を逆転させるなど、様々なアプローチのシェイクスピア作品に接してきました。

この物語の中心はリア王なんですけれども、長女ゴネリルや森尾舞さん演じる次女リーガン役、三女コーディーリアは強い意志を持っている女性たちです。

この国を守る武人であるグロスター伯の嫡子であるエドガーが女性だったらと考えてみると、ジェンダーレスの観点が際立ち、様々なテーマに自然と風穴が空きました。エドマンドの嫉妬、男性であるリア王の次の支配者は男の自分であるべきだと思っているという気持ちが強固になりました。土井ケイトさんがエドガー役を演じることで戯曲の中に元々ある構造や感情、特にそれぞれの女性がこの世界を生きている理由、主張、がより明白になりました。

道化とコーディーリアの一人二役はシェイクスピアの時代から行われていたことで、以前、松本幸四郎(当時。現・松本白鸚)さん主演の『リア王』に道化役で出演された木場さんから、舞台上で道化はコーディーリアと一回も会わないんだというお言葉をいただき、二役の演じ分けに確信を持ちました。リアに音楽を聞かせていた存在を際立たせ、原田真絢さん演じる道化というリアとの関係性が見えました。

――水さんはリア王の長女ゴネリルを演じられます。

水 キリスト教が入る前の3世紀から5世紀のブリテンが舞台ということで、すごく難しく感じています。キリスト教のある時代に生きていて、西洋のお芝居をやる時もキリスト教の思想が当たり前のようにベースにある作品が多いので、それがない時代ってどういう思想なんだろうと。それと、男性中心社会ではない時代、とはいえ国は男性が支配者として継いでいき、ゴネリルは国内の公爵家へ嫁がされている、男がいないリア王のブリテンの国で、長女である私が継いでも別によかったのに、嫁がされている。きっと私が男、王子でなかったばかりに、父から愛されなくなったんだろうなと。自分が父から愛されず、国を得ることもできないというところに、それこそエドマンドと通じるものがあって、だから同じ思想のエドマンドに惹かれて、エドマンドと共に野心を実現していきたい、この人とならできるんじゃないかっていう風に思うのかなって。そこの強さを出せたらいいなと思っています。合ってます?

藤田 合ってます、合ってます。

水 私、シェイクスピアの作品に本格的に出演するのは初めてなんですよ。宝塚時代に『ロミオとジュリエット』でロミオを演じたことはあり、シェイクスピアのセリフをあまり変えずにやったのですが、でも、それはあくまで宝塚歌劇だったので……。シェイクスピア作品を本格的に何度もやられたことのある方々とは本当に全然違う世界からのスタートだったので、今回すごくドキドキしています。

藤田 とはいえ、先ほどの木場さんのお話じゃないですけれども、「これぞシェイクスピア」という方は今回の座組には一人もいないのですから。「これぞシェイクスピア」の想像力を超えた方々がここに集っています。

木場 大丈夫です。

水 ありがとうございます! ただ、言葉が難しいじゃないですか。言葉の持つ力を最大限に表現するのは、やはりすごく難しいなと思っています。

――木場さんはリア王役にどんな魅力を感じていらっしゃいますか。

木場 リアはけっこう間違いを犯すんですね。ジジイになると物忘れもしますし、つい、してはいけないことをしてしまいますから。おかげでとんでもない目、悲惨な目に遭うんです。僕の周囲にも、リアが犯す過ちのミニチュア版のような者が割かしゴロゴロ転がってるんですよ。そのリアリティをもって僕はホンを読んでいますから、理解はしやすかったりする。

それともう一つは、財産を渡した途端に国を追い出されるって、そんな不条理ってないじゃないですか。世界の不条理を全部引き受けちゃったみたいな。でも、実を言うと、世界はほとんどこの不条理で出来上がっているから、その原点の物語だと思うんです。そういうこともあって、国、風土を全部超えたところで、僕みたいな日本人が西洋のシェイクスピアをやっても可能かなって、自分では思っているんです。

――藤田さんの演出についてはいかがですか。

木場 これまでの経験から言うと、俺は不真面目だけど、彼は生真面目で、そこが有難いです。こちらの間違いを見つけてくれるだろうと思っています。

水 私は藤田さんの演出は初めてなんです。翻訳の河合さんもいらして、お二人から台本の解説をしていただいた日があったのですけれど、役者をすごくリスペクトしてくださる方ですね。演出がやりたいことを、上からばーっと提示して「これやってください」じゃなくて、役者の皆さんが持ってきたアイディアとかやりたいことを上手に汲み取って仕上げてくださるのだろうな、という雰囲気を感じました。ですので、恐れず色々ディスカッションさせていただければと思っています。

――木場さんと水さんは今回父と娘を演じられます。

水 父親との関係性を描くような役が割と多いんです。私、実際の父親とはあまり言い合ったりしないので、そう言う意味では父親とはできないことを舞台上で思い切りやらせていただきたいなと思っています。

木場 水さんとお芝居をするのは二回目なのですが、前回はあまり絡みがなかったので、今回は思い切りやってくださいと僕からもお願いをしています。自分にも娘がいますが、時々、ゴネリルじゃないかって思うような怒られ方をしまして(笑)。

水 これ、言っていいですかね。前回ご一緒した時、木場さんがお一人で喋る長ゼリフ、ちょっと飛んじゃったことがあったんです(笑)。

木場 そうだったっけ?

水 私、毎日(木場さんのセリフを)袖で聞いていたのですが、「あれ、今日はちょっと違うぞ」と。でもそこから、セリフとは違う言葉で、全く同じ内容のことを、同じくらいの尺でババババッとお話しなさったんです。そのことにもう、私は本当に震えました。すばらしい! と思って。

木場 すばらしい?

水 だって、セリフは記号じゃないですか。

木場 ハハハハハ。

水 内容を、その役として相手に伝える記号。それの意味さえ合っていれば別にセリフなんて……って言ったらシェイクスピアに怒られちゃいますけれど、でも木場さんがそれをなさったのを目の当たりにして、本当に、そうであらねば! と思って。

木場 もう老いが始まっていたんですよ(笑)。

水 いやいや。だから今回も木場さんとご一緒できるのが本当に楽しみで。しかも、父親役で、セリフを受けて、返すことができる。そこでは嘘は効かないな、と。ただセリフを覚えて並べ立てた、薄っぺらな記号では到底何を言っているんだか意味がわからない感じになってしまいますから、そこはしっかり、言葉の裏にあるメッセージをちゃんと自分で解釈して咀嚼しながらやっていきたいですね。

藤田 お二人とも、全然違う出自で、これまでの役者としての経験も全然違う。価値観の融合と言いますか、この舞台で生まれる関係性がとても楽しみです。

木場さんは、僕が演出助手という立場で接した時に一番印象に残っているのが、稽古場での居方、眼差しなんです。すごく優しかった。僕は稽古場で一番の下っ端というか、入りたてのスタッフだったのですが、その時から木場さんはすごく優しくて、入りたてのスタッフも目線に入れてくださってました、そんな懐の広さと眼差しを持っていらっしゃる方と、演出助手として、演出家として、稽古場でご一緒できたことはすごく大きかったなと。

稽古場は、自由に遊べる、自由に作れる場所だと考えます。台本を読んで色々想像していく。演出家は自分の演出プランや指針をもとに、創造する。ところが木場さんのアプローチは稽古場でその場にいる全員の想像力を超えてくる。

今回の芝居の中で大事にしている視点の一つが、石母田史朗さん演じるケント(リアに諫言したために追放され、以降は変装してリアに仕える忠臣)なんです。ケントという、もはや新世代じゃない、中間世代の眼差しを持つ人間が、リアを最後まで信頼し続ける。だから、僕は演出家としてケントと同世代としての眼差しを持って創作する時期に入ったと思っています。自分自身の成長した僕の姿を木場さんに見せたいなと思っています。

水さんのお芝居は沢山観させていただいて来ましたが、特に近年、振れ幅がすごく大きいなと。10代の娘を持ったお母さん役から天使の役まで、観る芝居で役が全然変わっていて、すごく挑戦なさっているなと。どの役も全然違って魅力的で、それだけ役の想像力を獲得するというのは役者にとって大変ですから、おそらく自覚的に挑戦なさっているんでしょう。誰も想像できなかったゴネリル像を一緒に作っていきたいと思います。

水 美術プラン的にはどの時代にも偏らないニュートラルな感じになると聞いていますが、そんな中で、シェイクスピアの言葉をどこまで伝えられるかなと思っています。私はこれまで、シェイクスピアにあまり触れてこなかったのですが、やっぱり難しいんです。でも、こんなに身近な物語だったんだ、人間として理解、共感できるものがある作品なのだと、そんな面白さがお客様にも伝わる作品になるんじゃないかと思うので、私自身もこの『リア王の悲劇』の世界を楽しみたいと思っています。

――木場さんはこれまで沢山のシェイクスピア作品を経験してきて、その面白さはどんなところにあると考えていらっしゃいますか。

木場 それを語るほど演劇論を持っているわけではありませんが、沢山やってきた中で、自分としては『リア王』が一番縁があるなと思います。読み始めて、すごく面白いなと思いました。というのも、僕が芝居を始めたのは70年代に入る頃なのですが、日本のそれまでの新劇がちょっと下火になって、唐(十郎)さんが先頭に立ってのアングラのお芝居が盛り上がっていた時代でした。それで、例えばベケットのような不条理劇が輸入されてあっちこっちで上演されたり、日本の作家もそういうホンを書いて、自分が始めた劇団なんかでも、ベケットを根っこに持つようなお芝居を作っていたんです。そうやって読むと、『リア王』は、不条理劇の始祖なんじゃないかと思われるような世界観のある戯曲だと思います。そういう意味で、シェイクスピア劇というよりも、壮大なコント、不条理コントと捉えるとすごく面白いなと思っていますし、そんな舞台になればいいなと。リア王のセリフの中では、ペンフレンドクラブの余興の出し物として中学一年生で出会った時から今日まで一貫して、「人はこの世に泣きながら生まれてきた」「人は生まれると、この阿呆の大いなる舞台に出たと知って泣くのだ」、このセリフが一番残っています。

水 中学一年生のときからですか?!

木場 はい、そうです。

水 中学一年生でそのセリフに注目するっていうのがすごいです。

藤田 木場さんから「壮大なコント」という言葉がありましたけど、本当に面白い芝居ですよね。ただ面白可笑しくて笑うというよりも、この世に生まれたことっていうのはこんなに喜怒哀楽があって、人間って、人生って豊かで面白い、それを人間だけが体験できると『リア王の悲劇』は語っていると僕は思うんですね。もちろん学術的なことや演劇論的なことなど色々な切り口で語られたりもしますが、そういったことを超越した面白さ、いわば“人生そのもの”がこの作品にはあると思います。

今回のお話では触れられなかった、伊原剛志さん演じるグロスター役、新川將人さん演じるコーンウォール公爵、二反田雅澄さん演じるオールバ二役、塚本幸男さん演じるオズワルド役、そして色々な立場を演じ分ける民衆とも呼べる素晴らしいコロスの8人。今回、演出プランは全体にすごくシンプルですけれども、シンプルな中に、人間の色々な豊かさを描きたいと思っています。確かに難しい言葉もありますし、わかりにくいシチュエーションもありますが、素敵なプランナー、スタッフとも楽しく解釈しながらわかりやすく作っていきたいなと思っています。それができる、豊かな想像力を持ったカンパニーの皆さんとご一緒できるので、皆さんと共に面白いシーンを沢山作っていきたいなと思っていますし、それがお客様にも伝わったらいいなと。

先ほど木場さんが不条理劇の話をされましたが、1960年代に、それまでの演劇に対して異なるアプローチが生まれた時代を、僕自身は世代的にリアルタイムでは体験していません。けれども、不条理劇を礎とした戯曲は海外のものをはじめ沢山あって、それらを演出してきた世代ではあるのです。じゃあベケットって何をした人なんだということを辿って知るわけですけれども、そのベケットの向こうにシェイクスピアがいるという風に考えると、演劇は全部つながっているんだなと、『リア王の悲劇』を演出しながら思います。僕自身、『リア王の悲劇』に出会う前と後では人生が変わるくらい、リアや登場人物の成長を通して色々なことを知ることができたので、ぜひお客様にも、この作品ってこんなに面白いんだということを感じていただけたら。リアの遺言というか、その最後の言葉は、今を生きる私たちが必要としている言葉が沢山入っていると思うので、そこに小さな希望を込めたいですね。それを持って帰っていただけたら、少し日常の風景が違って見えるんじゃないか……そんな作品にしたいと思っています。

取材・文=藤本真由(舞台評論家)  写真撮影=池上夢貢

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