毛沢東と関係を持った女性たち ~映画女優の謎の死と最期の愛人秘書
毛沢東の奔放な私生活
中華人民共和国の建国の父として知られる毛沢東。
その革命的な偉業は世界的に評価される一方で、彼の私生活、特に女性関係は多くの波紋を呼んできた。
毛沢東の評価については現在でも分かれており、彼を英雄視する声もあれば、その独裁的な統治や私生活を批判する声も少なくない。
毎年、毛沢東の生誕祭は大々的に祝われ、中国各地で記念行事が開催されている。しかし一方で、彼の銅像が何者かによって撤去される事件も発生しており、毛沢東に対する評価が一様ではないことを示している。
特に注目されるのは、毛沢東の奔放な女性関係である。
彼の女性関係は、服や髪型を変えるかのごとく頻繁で、多くの女性と関係を持ったとされる。こうした行為は一部で「革命家としての自由」と美化されることもあるが、関係を持った女性たちにとって、その後の人生は決して平穏なものではなかった。
今回は、前回紹介した馮風鳴(ふう めいめい)と孫維世(そん いせい)に続いて
毛沢東と関係を持った女性たち ~美人女優たちがたどった悲劇的な最期
https://kusanomido.com/study/history/chinese/jinmin/98741/
さらに、2人の人物に焦点を当ててみたい。
上官雲珠(じょうかん うんじゅ)
上官雲珠(じょうかん うんじゅ)は、1940年代から1960年代にかけて中国映画界で活躍した女優である。
彼女はその美貌と演技力で注目され、「新中国二十二大映画スター」の一人にも選ばれた。
本名を韋均犖(い きんらく)といい、江蘇省無錫市で生まれた。1937年、抗日戦争の勃発により家族とともに上海に避難した。
当初、写真館の受付係として働いていた彼女は、その美貌が注目されてモデルとして活動を始め、次第に映画界への道を歩むようになった。
1940年に監督の卜万蒼に見出され、芸名「上官雲珠」を授けられた彼女は、映画『一江春水向東流』や『太太万歳』で、華やかな役柄を巧みに演じ、一躍スターとなった。
1956年頃に、上官雲珠は毛沢東と初めて接触した。これは、上海市長であった陳毅が仲介したもので、毛が上官雲珠に関心を寄せたことがきっかけとされる。
彼女は毛沢東に招かれ、複数回にわたる密会に応じたと伝えられている。その際、毛沢東が彼女に詩を贈ったという逸話もある。
また、1957年の「反右派運動」では、上官雲珠は当初、右派のリストに含まれていたが、毛の意向でリストから外され保護されたという。
文化大革命中の悲劇的な結末
しかし、彼女も毛沢東との関係が原因で、人生が暗転した。
1966年に文化大革命が勃発すると、彼女が出演した映画は「※大毒草」として批判され、彼女自身も「不品行」や「反革命分子」のレッテルを貼られ、激しい批判の対象となった。
※「大毒草」とは、文化大革命期に「革命思想に反する」として有害とされた文学や映画、音楽作品を指す批判用語。
さらには毛沢東の妻・江青による嫉妬と報復が彼女を追い詰めた。
江青が主導する一連の迫害により、彼女は連日の暴行と厳しい尋問に耐えることを強いられたのだ。
1968年11月23日、上官雲珠はマンションの4階から飛び降り命を絶った。享年48。
彼女の死については、いくつかの説が存在する。一般的には自殺とされるが、尋問時の拷問により死亡し、その後に自殺として偽装されたという説もある。
真実は闇の中である。
張玉鳳(ちょう ぎょくほう)
張玉鳳(ちょう ぎょくほう)は、毛沢東の晩年における機密秘書兼、生活秘書を務めた女性である。
彼女は1945年、黒龍江省牡丹江市の貧しい家庭に生まれ、1963年頃、鉄道局で食堂車のサービス員として働いていた時期に、毛沢東と出会った。
当時、張玉鳳は18歳で、毛沢東は72歳であった。
1970年以降、彼女は毛沢東の機密秘書として抜擢され、生活面から業務全般まで多岐にわたって支えた。
張は非常に細やかな仕事ぶりと強気な性格で知られ、毛も彼女を「張飛の子孫」と評し、その仕事ぶりに一目置いていたという。
毛沢東の死後、彼女は毛の金庫の鍵を管理していた。
毛の妻・江青は、この鍵の引き渡しを要求したが、張はこれを拒否し、直ちに当時の指導者である華国鋒に状況を報告したという。
この出来事は、張があの江青からの要求にも屈せず、毛の遺産管理で重要な役割を果たしていたことを示す逸話として知られている。
張の地位は非常に高く、毛に面会するには彼女の許可が必要とされるほどであった。
また、彼女は機密秘書の任期中に妊娠していたともいう。
しかし、この子供が毛の子供であったのか、事実を知るのは彼女自身だけである。
晩年の活動と現在
文化大革命の終結後、張玉鳳は中南海を離れ、中国第一歴史档案館に配属された。
その後、個人的な希望で鉄道部に戻り、退職まで鉄道部の老幹部に関する業務に従事した。
2004年に退職後、毛沢東の蔵書に関する研究に注力し、『毛沢東蔵書』全24巻の編纂を主導するなど、学術的な活動を展開している。
また、一部の報道によると、彼女は2004年に毛沢東の晩年に関する詳細を中央機関に提供したとされるが、具体的な内容については公開されていない。
その後、一部の毛との噂に対して否定的な姿勢を示したとされ、例えば「毛沢東の死後に床に伏して泣いた」「墓参りを頼まれた」といった逸話について事実ではないと表明したという。
現在79歳の張玉鳳は、毛沢東と深く関わった人物の中で、平穏な晩年を迎えた数少ない一人といえる。
彼女の証言や研究は、毛沢東の晩年や中国近代史を理解する上で、重要な資料となっている。
参考 : 『毛沢東私人医生回忆录』他
文 / 草の実堂編集部