『古代中国』8万の兵で100万以上の敵軍を破るも、妃の年齢をからかって殺された皇帝
圧倒的劣勢を覆す、古代中国の戦い
歴史上、少数の軍勢が圧倒的多数の敵軍を打ち破った戦いは、数多く存在する。
特に古代中国では、そのような奇跡的な勝利がいくつか記録されている。(※以下紹介する兵数については諸説あり)
たとえば、紀元前11世紀の「牧野の戦い」では、周の武王が約40万の軍勢を率い、殷の紂王が指揮する約70万の大軍を撃破した。この戦いでは、殷軍の士気の低下と内部崩壊が周軍の勝利を後押しし、殷王朝の滅亡を決定づけた。
紀元前3世紀の「鉅鹿の戦い」では、楚の項羽が約5万の軍勢で、秦の約40万の大軍を迎え撃ち、大勝利を収めた。
項羽は「破釜沈舟」の策を講じ、兵士たちの退路を断つことで、死を覚悟した全軍の士気を一気に高めた。
三国時代の「赤壁の戦い」では、孫権・劉備の連合軍が約5万の兵で曹操の約20万の大軍を破った。この戦いでは火攻めを駆使した戦術が戦況を覆し、連合軍に勝利をもたらした。
しかし、これらの戦いをも超える兵力差を覆した勝利が、東晋時代の淝水の戦い(ひすいのたたかい)である。
この戦いでは、東晋の孝武帝のもと、謝安(しゃあん)や謝玄(しゃげん)の指揮により、わずか8万5千ほどの兵で、前秦の苻堅(ふけん)率いる117万以上の大軍を打ち破ったとされている。
東晋とは
東晋は、西晋の滅亡後、317年に司馬睿(しばえい)によって江南地域に建てられた王朝である。
三国時代(魏・蜀・呉)のうち、最も強大だった魏では、司馬懿(しばい)が実権を握り、その孫の司馬炎(しばえん)が魏を滅ぼして西晋を建国した。
しかし、西晋は「八王の乱」と呼ばれる皇族間の権力争いと、北方遊牧民族の侵攻(永嘉の乱)によってわずか50年余りで滅亡する。こうした混乱の中で、中原から多くの人々が南方の江南地域へと逃れた。
司馬睿は、西晋の皇族として名義上擁立されつつ、317年に江南で新たな政権を樹立した。
これが東晋である。
孝武帝とは
孝武帝(司馬曜)は、東晋第9代皇帝である。
太元元年(376年)、父である簡文帝が崩御した後、わずか12歳で即位した。
幼い皇帝の即位は、宦官や外戚、地方豪族の勢力争いを激化させ、朝廷内外に混乱をもたらした。
さらに北方では、前秦の苻堅(ふけん)が南下の機会をうかがっていた。
こうした状況の中、国家を支えたのが名宰相・謝安(しゃあん)である。
謝安は、先代の簡文帝時代から重臣として活躍し、孝武帝の治世でも朝廷の主導権を握って東晋の安定化を図った。
孝武帝が成長し、次第に実権を掌握すると、朝廷の統治体制はさらに強化されていった。
この時期、謝安の甥にあたる謝玄(しゃげん)が軍事的な才能を発揮し、東晋の防衛体制を整えた。
こうした背景の中で起こったのが「淝水の戦い」である。
わずか8万5千ほどの東晋軍が、100万以上もの前秦軍を打ち破ったこの戦いは、東晋の名を後世に刻む一大事件となった。
淝水の戦いとは
淝水(ひすい)の戦いは、383年に行われた東晋と前秦の間の戦闘である。
前秦は当時、北方を支配し、強大な軍事力を持っていた。苻堅率いる前秦は南下して東晋を征服しようとしたが、東晋軍はその侵攻を約10分の1の寡兵で食い止めた。
東晋軍の指揮を執った謝玄は、地形を巧みに利用した。
戦場となったのは淝水沿いの平地であり、東晋軍は川を背にして防御を固め、前秦軍の大軍を分断する形で戦った。
また、敵の進軍ルートを巧妙に利用し、前秦軍が進撃してくる場所を読み、その後ろや側面を突くことで反撃を加えた。
前秦軍は大きな損害を受け、兵士の70〜80%が死傷。苻堅は弟の苻融(ふゆう)を失い、東晋軍の勝利が決定的となった。
女性の床で迎えた孝武帝の最期
孝武帝は、東晋を支えるべく奮闘した名君であったが、晩年には酒色に溺れ、支配力を失っていった。
太元21年9月庚申(396年11月6日)、孝武帝は後宮の女性たちと酒宴を開いて楽しんでいた。
この席で、孝武帝は長らく寵愛していた張貴人に向かって、冗談交じりにこう言った。
「お前も年齢的にそろそろお払い箱だな。朕はもう少し若い者が欲しい」
孝武帝にとっては酔っ払っての冗談だったが、張貴人は30歳近い年齢であり、当時の女性としては年齢的に微妙な時期に差し掛かっていた。
そのため、張貴人はこの冗談を真に受け「自分が廃されるのではないか」と恐れた。
その夜、孝武帝は酔いが回り、深い眠りに落ちた。酒宴を終えた後、張貴人は買収した宦官に命じ、孝武帝の寝所に忍び込ませた。
そこで孝武帝は眠っている最中に、厚い布団で息を塞がれ、蒸し殺されてしまったとされる。わずか35歳であった。
原文 :
帝戲之曰:「汝以年當廢矣。」貴人潛怒,向夕,帝醉,遂暴崩意訳 : 「帝は冗談で『お前も年齢的に廃される頃だ』と言った。張貴人は内心で激しく怒りを抱いた。夕方、帝が酔って眠りにつくと、そのまま暴崩した」
『晋書』「帝紀第九」より引用
孝武帝の死後、張貴人は何事もなかったかのように冷静に臣下を呼び集め、「天子様はお休みのところ、にわかにうなされまして、只今息をお引取りになりました」と報告した。
驚愕する者もあったが、孝武帝の死はそのまま受け入れられることとなった。
その後、孝武帝の後を継いだのは長男の司馬徳宗(安帝)であった。
しかし、安帝は極度の精神障害を患っており、実質的な政権はその補佐役であった司馬道子の手に渡ることとなった。東晋の皇族は権力を失い、政治の腐敗と混乱が進行し、ついには滅亡への道を歩み始めた。
孝武帝の死は、晩年の堕落と酒色への溺れが引き金となった結果だったと言えるだろう。その最期は、東晋の衰退の象徴となり、後世の歴史に深い影響を与えることとなった。
参考 : 『晋書』他
文 / 草の実堂編集部