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トルコ海底トンネル:アジアとヨーロッパをつなぐ、世紀の難工事――試し読み【新プロジェクトX 挑戦者たち】

NHK出版デジタルマガジン

トルコ海底トンネル:アジアとヨーロッパをつなぐ、世紀の難工事――試し読み【新プロジェクトX 挑戦者たち】

 情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。『新プロジェクトX 挑戦者たち 5』より、第五章「未完150年 悲願の海底トンネルに挑む――トルコ 潮流との不屈の闘い」の冒頭を特別公開。

未完150年 悲願の海底トンネルに挑む――トルコ 潮流との不屈の闘い

トルコ150年の夢

ヨーロッパとアジアを海底でつなげ

 「東西文明の交差点」と呼ばれる、トルコ最大の都市イスタンブール。東半分がアジア、西半分がヨーロッパに位置しており、2500年の歴史を誇る。ローマ帝国時代はビザンティウム、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)時代にはコンスンタンティノープルと呼ばれ、オスマン帝国の支配後にイスタンブールと改称された。現在はトルコ総人口の約2割にあたる約1550万人が住んでおり、経済・文化・歴史の中心地となっている。
 町を東西に隔てているのが、南北に細長くのびるボスポラス海峡。「ボスポラス」は「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話に由来する。北は黒海、南はマルマラ海につながり、長さは約30 キロメートル。マルマラ海とエーゲ海をつなぐダーダネルス海峡とともに、黒海と地中海を結ぶ海上交通の要衝として知られる。
 アジアとヨーロッパは、これらの海峡を隔てて向かい合っている。民族と文化の往来をさらに活発にするため、2つの大陸を海底トンネルで結ぶ構想が1860年以降何度も持ち上がった。だが、ボスポラス海峡は潮の流れが複雑で、昔から船の難所として恐れられてきたこともあり、トンネル構想は何度も頓挫した。
 世界中のゼネコンが尻込みするなか、トルコ国民の悲願を叶えるべく、遠く日本で歴戦の技術者が立ち上がった。その中心にいたのは、「鋼鉄の男」と呼ばれた物静かな技術者だった。

トルコと日本の共同事業

 海底トンネルの開通前、ボスポラス海峡には2つの大きな橋が架かっていた。
 ボスポラス橋(現在は「7月15日殉教者の橋」と呼ばれる)は、トルコ共和国の建国50周年にあたる1973年に建設された。1988年には、その北側にファーティフ・スルタン・メフメト橋(第2ボスポラス橋)が完成する。オスマン帝国の皇帝メフメト2世にちなんだ名称で、日本の政府開発援助のもと、石川島播磨重工業(現在のIHI)や三菱重工業などによって建設された橋だ。
 海峡を隔てた旅客輸送や物流は、長年にわたり、この2本の自動車専用橋を頼みの綱としていた。しかし、イスタンブールの発展に伴って容量は逼迫し、2時間待ちの大渋滞が当たり前となっていた。大気汚染も深刻化の一途をたどり、イスタンブールの街は排気ガスに飲み込まれ、地元紙は一面で「注意! 毒に侵されています」と書き立てた。一方、住民たちが海峡を渡る手段としてはフェリーが中心で、鉄道の敷設が待ち望まれていた。
 そうした状況で、海峡トンネルを掘り抜き、そこに鉄道を通す構想がまたも持ち上がった。財務的な問題や法的制約、そして技術的な難しさから、それまで何度も浮上しては実現にまで至らなかった、「トルコ150年の夢」である。
 このトンネルを任せられるのはどこか。トルコが白羽の矢を立てたのが、日本だった。1998年、トルコ政府は技術や資金の供与を受けるため、ODA(政府開発援助)の事業として日本政府に協力を要請する。これを受けて、国際協力銀行JBIC(現在のJICA)はプロジェクトの必要性や技術的解決策、資金計画などをトルコ政府と協議し、事業策定を行った。そして1999年、ボスポラス海峡横断部とそのアプローチ部分の約13・6キロへの円借款資金供与が決定した。

白羽の矢が立った「鋼鉄の男」

 2003年7月、イスタンブールにやってきた日本人の一行が、熱心に海の様子を見つめていた。その中に、海底トンネルの現地調査のために大成建設から送り込まれた小山文男の姿があった。
 1957年、福岡県北九州市に生まれた小山は、小さい頃から大規模な土木構造物に興味を抱いていた。とくに小山を魅了したのは、製鉄所のある町と石炭の積出港として栄えた町をつなぐ若戸大橋。若松区と戸畑区を結ぶ長さ627メートルの吊り橋で、かつては「東洋一の吊り橋」と呼ばれ、戦後日本の復興を担う存在だった。
 自分も大きな建造物を手掛けたい――いつしか小山は、技術者の道を志すようになっていた。だが、幼い頃は学校でまわりに追いつけないのが悩みで、みなが簡単にこなす宿題が夜までかかってしまうこともあった。自分に足りない分を埋めようと、食らいつくように勉強した。小山が身上とする辛抱強さは、子どもの頃に形成されたものだった。
 土木の世界に進みたいという思いを持ち続けた小山は、大学に入学して海洋構造物への関心を深めていった。大成建設に採用されると、設計の部署に配属。「いかに論理立てて考えるか」「根拠をしっかり持っているか」といった設計の基礎を、徹底的に叩き込まれた。
「設計は、物事がすべてロジックで成り立っています。お客様にも、どうしてこういう設計になったのか、どうしてこれが必要なのかと、ロジックを一つひとつ積み上げて説明します。設計の仕事とはこういうものかと学びました」
 初めて現場に出たときは、嬉しくてたまらなかった。仲間と一緒になって手掛けたものが出来上がっていく過程を間近で見られることが、何よりも楽しい。小山は次々と難しい現場を渡り歩いては、持ち前の我慢強さと強固なチームワークで乗り切っていった。そんな仕事ぶりから、いつからか「鋼鉄の男」と呼ばれるようになった。
 ある日、小山は大成建設の社長に呼び出された。そして、こう尋ねられた。
「ボスポラス海峡に海底トンネルを通すことが技術的に可能か、聞きたい」
 工事を受注する前に、海底トンネル工事の経験がある小山の意見を聞くのが目的だった。小山は、ひどく頭を悩ませた。ボスポラス海峡での工事は地形条件が非常に厳しく、やすやすと「できます」と言うわけにいかない。
「非常に困難で、リスクが高い工事になります」
 小山は、無理だとは言わなかった。少しでも可能性があるのなら、不可能だと言うべきではない。「鋼鉄の男」には、技術者としての矜持があった。
しかし、人生はひょんなことから転がり出す。慎重な小山の言葉は、「建設可能」と受け止められ、工事の受注が決まった。その報せを聞いた小山は、頭が真っ白になった。

世紀の難工事

「沈埋トンネル」という活路

 ボスポラス海峡横断の鉄道工事プロジェクトは、「マルマライ・プロジェクト」と呼ばれる。「マルマライ」は「マルマラ海+鉄道」を意味する造語。全長76キロに及ぶ鉄道網のうち、海峡を挟んでヨーロッパとアジアをつなぐ13.6キロが「ボスポラス海峡横断鉄道トンネル」で、大成建設とトルコ企業の共同企業体が施工を請け負った。
 とりわけ難しい工事と目されたのが、ボスポラス海峡の海底を走る約1.4キロ部分である。海底には軟弱層があり、浅い採掘ルートはとれない。深いルートを通るのも、地震が多いトルコでは危険すぎる。そこで、海底部は「沈埋工法」を取り入れることになった。
 沈埋工法は、航路・河川・運河などを横断する水底トンネルを作る際に用いられる。平たく言ってしまえば、地上で製造したトンネルの躯体を沈め、水中でドッキングして1つにする工法だ。
 この工法は、ドライドック(造船所のような大規模な製作場所)などで、「沈埋函」を築造することに始まる。沈埋函は海底トンネルの構造物の1つで、鋼殻(金属製の函形状構造物)やコンクリートなどで作られており、1函の長さはおおよそ100メートル前後だ。ボスポラス海峡トンネルでは11の沈埋函が築造された。最大長135メートル、重さ約2万トン。完成した沈埋函の地上移送は困難なので、トンネル埋設場所まで船で曳航して運び込む。
 では、それぞれに独立した沈埋函をいかに水中で接続するか? 海底のトンネルの設置場所にあらかじめ溝(トレンチ)を掘っておき、沈埋函をこの溝に沿って1つずつ沈めていくのだ。先に沈ませた沈埋函(既設函)から延ばした引き寄せジャッキで、新たに下りてきた沈埋函をピタリと合わせ、水圧の働きで沈埋函同士を強く結合させる。
 これを繰り返していけば、アジアとヨーロッパが海底でつながることになる。

ボスポラス海峡という難所

 大成建設の小山に白羽の矢が立ったのは、彼が沈埋工法の数少ない経験者だったためである。だが、ボスポラス海峡には、この海域特有の課題が山積しており、前例のない工事になることは明らかだった。
 真っ先に挙げられる問題は、複雑に変化する速い潮流である。ボスポラス海峡は、上層と下層で流向が異なる上下二層流を形成していた。海の上層では、塩分濃度が薄い黒海から濃いマルマラ海に向かって最大流速2m/sの淡水系の潮流があり、下層では逆方向に1m/sの塩水系の流れが走っていた。
 沈埋工法は波や潮流に影響されやすいため、波や流れが比較的穏やかな海域で行うのがセオリーである。潮流が目まぐるしく変化するボスポラス海峡のような場所で沈埋工法を採るのは、数々の経験を積んできた小山にとっても初めてのことだった。
 海底までの深さも前代未聞だった。それまでに小山が経験した沈埋トンネルは水深30メートルだったが、ボスポラス海峡はアジア側が水深40メートル、ヨーロッパ側に至っては60メートルもある。世界で最も深い沈埋トンネルになることは間違いない。小山は頭を抱えた。
「水深が倍になると、作用する圧力は4倍になるので、それに耐えるだけの構造にしなければなりません。水圧に耐えるための工事には機材も必要になります。日本なら作業のサポート体制が整っているので、何とか対応できると思います。しかし、私も含めて多くのスタッフが未経験だった海外での工事で、それができるかどうかは未知数でした」
 海上もリスクだらけだった。国際航路のボスポラス海峡には1日約130 隻せきのタンカーや貨物船が往来しており、フェリーは約1100隻も行き交っていた。海上が混雑していれば、沈埋函を沈める作業船と衝突するリスクもある。必然的に、海上での作業規模や作業時間は削る必要があった。
 社長に呼ばれた小山がつい言葉を濁したのは、こうした事情が頭にあったからだ。かつてないほど、難しい工事になる――。だが、最終的に小山は腹を決めた。決断を後押ししたのは「トルコ150年の夢」に貢献したいという思いだった。
「このプロジェクトがトルコの人たちにとって本当に悲願だということをうかがっていましたし、それを成し遂げるのが私たちの使命だと感じていました。私がやります、と自ら上に伝えました」
 技術者としてのプライドが、小山を突き動かしていた。

信頼できる右腕とともに

 前例のない難工事。小山は、自身が最も信頼する部下に声をかけた。木村政俊。東京湾アクアライン工事でも活躍した機械全般のプロで、「難しい現場は俺に任せろ」と自負する腕利きだった。
「沈埋は経験者も限られていたので、『私が行くんだろうな』と何となく思っていたところもありました。小山さんからは『流れが速くて複雑な工事だよ』と言われ、大変なんだろうなという気はありましたけど、会社にいる間にそれができるのであれば、やってみたいと思いました」(木村)
 大学で電気工学を学んだ木村は、ゼネコンに進んだ先輩たちが生き生きと働いているのを見て、建設業界に興味を抱くようになった。大成建設に入社後は、横浜ベイブリッジの基礎工事など、日本の土木を代表するような工事にも携わった。
「大きい工事は大変ですが、大型の機械を使った工事はとてもダイナミックで、やりがいも感じました。難しさもあるけど、終わったときの達成感は格別です」
 木村は小山の下で、数々の沈埋トンネル工事に携わった。冷静で真面目な仕事ぶりは、小山の信頼を得るのに十分だった。
「彼は機械や電気など、私の専門でないところをやっていたので、とても頼もしい存在でした。沈埋は工事例の数が少なく、会社内でも同じ人間がやっていたので、一緒に仕事をする機会も多かったですね。良き仕事仲間であり、良き飲み友達です」(小山)
 木村にとっても、小山は信頼のおける上司。小山には、どんなときにもブレない「芯の強さ」があった。
「上手くいかないときでも、しっかりと前を向いて1つずつこなして、熱心に時間をかけて解決していく。それが小山さんのスタイルでした。本当に頼れる存在です」
 木村と一緒ならば、この難工事も乗り越えることができる――。小山は家族を日本に残し、頼れる相棒とともにトルコへと渡った。

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