第26回【私を映画に連れてって!】中島らもさんの小説『お父さんのバックドロップ』の映画化をめぐる予測不能な出来事
1981年にフジテレビジョンに入社後、編成局映画部に配属され「ゴールデン洋画劇場」を担当することになった河井真也さん。そこから河井さんの映画人生が始まった。『南極物語』での製作デスクを皮切りに、『私をスキーに連れてって』『Love Letter』『スワロウテイル』『リング』『らせん』『愛のむきだし』など多くの作品にプロデューサーとして携わり、劇場「シネスイッチ」を立ち上げ、『ニュー・シネマ・パラダイス』という大ヒット作品も誕生させた。テレビ局社員として映画と格闘し、数々の〝夢〟と〝奇跡〟の瞬間も体験した河井さん。この、連載は映画と人生を共にしたテレビ局社員の汗と涙、愛と夢が詰まった感動の一大青春巨編である。
「if もしも……」が多すぎて、思い出すことも数知れずの中で、中島らもさんの原作を巡っては、運命的とも言える歪みを経験した。
『変態家族 兄貴の嫁さん』(1984)でデビューした周防正行監督は『ファンシイダンス』(1989)で一般映画へ。ちょうどシネスイッチ銀座で『木村家の人びと』(1988/滝田洋二郎監督)をやり、『病院へ行こう』(1990/同)が全国ヒットになった頃、周防監督と会うことになった。大好きな映画『シコふんじゃった。』(1992)は撮影現場にもお邪魔した。
次回作で『お父さんのバックドロップ』(中島らも:著)の映画化をやろうと話を進めていた。脚本家は、ぼくが審査員もやった第3回フジテレビヤングシナリオ大賞(1989)に応募していた水橋文美江さん。彼女とは映画『新・同棲時代』(1991/原作:柴門ふみ)を一緒にやり、『お父さんのバックドロップ』のシノプシスを依頼した。その後の彼女は、ドラマ「妹よ」(1994/CX)、「みにくいアヒルの子」(1996/CX)から最近では「ホタルノヒカリ」(2007/NTV)「スカーレット」(2019/NHK)、映画も『冷静と情熱のあいだ』(2001)はじめ、今でもヒットメーカーである。
『お父さんのバックドロップ』は児童書でもあり、学研から発売されており、編集担当の了解をもらい、脚本作業を進めていた。ところが、映画用のシノプシスを作成中に事件? が起きた。
学研は『南極物語』(蔵原惟繕監督/1983)の製作パートナーであり、何度も本社に行ったし、知り合いもいた。『象物語』(1980)など映画出資も行っていることは知っていたが、その後「映像部」的な組織が出来たことは知らず、交流もなかった。
此方は出版物の映画化権の話なので編集部担当とは逐一コミュニケーションは取っていた。ある日、その「映像部」で『お父さんのバックドロップ』の映画企画開発をしていることが発覚。編集の担当者も知らなかったという。
学研内の問題であるが、「映像部」は開発を進めているので止めたくないと言う。
正直に周防監督と、水橋文美江さんに言うべく、3人で帝国ホテルのラウンジで会った。周防監督は冷静で、これは何かの縁で、一旦止めるほうが良いということでは云々……と正確には思い出せないが、ここで断念することになった。1993年のある日のことで、2人には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。これはプロデューサー側のミスでもある。きっと面白いコメディ映画が誕生するはずだった……。
原作のある映画化は何かとハードルが待っている。
その後、中島らもさん主宰の劇団<リリパットアーミー>のわかぎえふさんと仲良くなり、大阪生まれの同学年ということもあり、何度も会うことになった。その縁で『お父さんのバックドロップ』の顛末を、らもさんご本人に会って聞いたことがあった。「そんなことがあったことは知らなかった……」と。「直接、オレに話してくれてたら……」とも言われたが、これも運命なのか。結局、学研映像部では『お父さんのバックドロップ』の映画化はならなかった。
▲筆者は1994年にフジテレビ映画部から編成部に異動となり、映画化では実現しなかった『お父さんのバックドロップ』をテレビドラマ化し、95年6月16日に〝父の日スペシャル〟として「中島らもの変なお父さん」を放送した。中島らもの短編集『お父さんのバックドロップ』に収蔵された4作のうち、当初は3作の予定だったが、結果として2作をドラマ化した。「お父さんのロックンロール」には片岡鶴太郎、風吹ジュンらが、「お父さんのカッパ落語」には陣内孝則、田中律子らが出演している。また、2004年には李闘士男監督、鄭義信脚本で映画化され『お父さんのバックドロップ』が公開された。李闘士男監督の劇場映画デビュー作である。悪役レスラーとして弱小プロレス団体を引っ張る父(宇梶剛士)と、そんな父を好きになれない小学生の息子(神木隆之介)が衝突を繰り返しながら絆を結ぶ姿を描いたハートウォーミング映画で、南果歩や生瀬勝久も出演している。
1994年にフジテレビ映画部から編成部に異動し、ドラマ担当になった。「金曜エンタテイメント」という所謂2時間ドラマ枠担当にもなり、『お父さんのバックドロップ』をやろうと思った。但し、表題ほか4篇あり、わざとバックドロップ編は外した。これは「映画」のことがあったからなのか……。タイトルを「中島らもの変なお父さん」とし2作、「お父さんのロックンロール」で主演は片岡鶴太郎さん。「お父さんのカッパ落語」は陣内孝則さん主演で。これにはわかぎえふさんも出演している。演出は中原俊監督(映画『櫻の園』『12人の優しい日本人』等)。
先頃、フジテレビで「続・続・最後から二番目の恋」が好評だったが、キョンキョン主演の「月9」ドラマ出演は30年ぶりである。30年前に編成のドラマ担当であったため彼女から相談され、一旦、その編成担当となりぼくが企画を書いた。その2年前に『病は気から 病院へ行こう2』(1992)を一緒にやった関係だからである。結果、1995年の10月期ドラマとして放送された「まだ恋は始まらない」だ。共演は中井貴一さん。脚本は岡田惠和さん。最初にぼくが書いたストーリーとは大きく変わったが、それでも視聴率は20%前後獲った。脚本家の腕に頼ることが大きいが、同じ歳の岡田さんはプロフェッショナルだった。
それから10年か、それ以上か記憶がないが、岡田さんに会った時に「小泉今日子&中井貴一」で、もう一度連ドラ! の話は聞いたような気がする。「最後から二番目の恋」(2012)でこのトリオが復活するのだが、これは脚本家の強い「想い」の成果なのだと思う。「まだ恋は始まらない」と「最後から二番目の恋」はどこかで対になっている気がしている。前者は「運命の人に出逢えるか?」がテーマになっていたが、その答えが後者になっているのではと。
「まだ恋は始まらない」の本読み、リハーサルの最初には参加していたが、10月にドラマがスタートした時にはフジテレビを離れ、ポニーキャニオンに席をおかせてもらい『スワロウテイル』(1996)の製作に入った。キョンキョンから「映画やった方がいいよ!」的なことを言われ、決断してフジテレビを飛び出したのかもしれない。ドラマの撮影現場には一度も行かなかった。
『スワロウテイル』が無事ヒットに。日本アカデミー賞授賞式では隣向こうのテーブルが『Shall weダンス?』(1996/周防正行監督)チームだった。10数部門で同程度のノミネートだったが、ほぼ『Shall weダンス?』が最優秀賞を受賞した。『お父さんのバックドロップ』の断念から3年。見事なオリジナル作品でその年の映画賞は総なめした。ぼくはその間に、岩井俊二監督と出会い『Love Letter』(1995)、そして『スワロウテイル』を創った。「if もしも……」だが『お父さんのバックドロップ』の映画化がされていたらどうなっていたのだろうか……。
▲1995年10月から12月までフジテレビ系「月9」枠で放送され平均視聴率18.9%、最高視聴率20.8%を獲得したドラマ「まだ恋は始まらない」。主演は小泉今日子と中井貴一、脚本は岡田惠和が手がけている。江戸時代、身分違いの恋により心中を図った男女が現代に生まれ変わり、再び出会うまでを描いたラブコメディ。本作から16年後に、小泉と中井、そして岡田は「最後から二番目の恋」で再び結集することになる。竹野内豊、常盤貴子、坂井真紀、草彅剛らも出演。筆者はドラマスタート時には、編成部の後輩である石原隆氏(ドラマ「古畑任三郎」や、三谷幸喜映画のプロデユーサー)に後を託してフジテレビを離れた。
それからも、中島らもさんのことがまだ気になっていたのだろうか。らもさんの『永遠(とわ)も半ばを過ぎて』を読んで、何とか映画にしたいと思った。今度は無事に原作の映画化権も許諾され、テレビドラマも御一緒した中原俊監督とやれることになった。
当時は『スワロウテイル』(1996)、『リング』(1998)はじめ、20代の観客を中心に映画を創ることが多かった。この『永遠も半ばを過ぎて』も同様に考えたのか、タイトルが硬すぎる感じがした。今、この歳で考えるととても良いタイトルなのだが、当時は、ストーリーにある3人の男女の嘘つき詐欺話のニュアンスを出したかった。「嘘」=「Lie」、3人だから『Lie lie Lie(ライ・ライ・ライ)』(1997)か。真ん中を小文字にしたのは女性の鈴木保奈美さんを意識したのか……。自分で決めたタイトルだが、英語にしたことも含めて余計、わかりにくくしてしまった気がする。主題歌に、まだデビューしたてのBONNIE PINKを起用し、鈴木保奈美、佐藤浩市、豊川悦司の主演で、今、観ても面白い映画である。残念ながらヒットしなかったのはひとえにプロデューサーのせいであろう。
それから何年かして李闘士男監督と知り合い、彼が『お父さんのバックドロップ』の映画化に並々ならぬ意欲があることを知り、2004年に無事、映画化された。
ただ、公開の3か月前に中島らもさんは逝ってしまった。
出会いや、すれ違い……。映画は人の人生を描くことが多いが、映画を創ること自体も人生の一コマであるのだろう。
▲1997年10月に公開された映画『Lie lie Lie(ライ・ライ・ライ)』。不眠症の電算写植オペレーターの佐藤浩市、佐藤の高校時代の同級生で詐欺師の豊川悦司、2人の詐欺話を見破り強引に仲間入りする編集者の鈴木保奈美を主演に、軽妙で上質なエンタテインメントに仕上がっている。佐藤が睡眠薬を飲んで夢遊状態で写植した文章を〝幽霊が書いた本〟として出版社に売り込むという奇想天外な詐欺物語だが、キュートでしたたかな鈴木保奈美、大阪弁でしゃべりまくる豊川悦司、豊川とは対極の愚直な佇まいの佐藤浩市という主役3人の個性が大きな魅力となっている。公開から30年近く経った現在でも、色褪せることのないすてきなセンスのコメディ映画。本田博太郎、中村梅雀、麿赤兒、松村達雄、三條美紀らも出演。BONNIE PINKが歌う主題歌「Lie lie Lie」と、エンディング曲「たとえばの話」もセンス抜群。
かわい しんや
1981年慶應義塾大学法学部卒業後、フジテレビジョンに入社。『南極物語』で製作デスク。『チ・ン・ピ・ラ』などで製作補。1987年、『私をスキーに連れてって』でプロデューサーデビューし、ホイチョイムービー3部作をプロデュースする。1987年12月に邦画と洋画を交互に公開する劇場「シネスイッチ銀座」を設立する。『木村家の人びと』(1988)をスタートに7本の邦画の製作と『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)などの単館ヒット作を送り出す。また、自らの入院体験談を映画化した『病院へ行こう』(1990)『病は気から〜病院へ行こう2』(1992)を製作。岩井俊二監督の長編デビュー映画『Love Letter』(1995)から『スワロウテイル』(1996)などをプロデュースする。『リング』『らせん』(1998)などのメジャー作品から、カンヌ国際映画祭コンペティション監督賞を受賞したエドワード・ヤン監督の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、短編プロジェクトの『Jam Films』(2002)シリーズをはじめ、数多くの映画を手がける。他に、ベルリン映画祭カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞した『愛のむきだし』(2009)、ドキュメンタリー映画『SOUL RED 松田優作』(2009)、などがある。2002年より「函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞」の審査員。2012年「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭」長編部門審査委員長、2018年より「AIYFF アジア国際青少年映画祭」(韓国・中国・日本)の審査員、芸術監督などを務めている。また、武蔵野美術大学造形構想学部映像学科で客員教授を務めている。