『20万人が集結』秀吉が築いた幻の巨大都市「肥前名護屋」はなぜ消えたのか?
日本の歴史には、一瞬の輝きを放ちながら、やがて姿を消した都市がいくつかある。
その中でも、豊臣秀吉が築いた「肥前名護屋」は、ひときわ異彩を放つ存在だ。
佐賀県北部、玄界灘を望む東松浦半島の北端に位置し、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において、日本国内最大級の軍事拠点として整備された場所である。
肥前名護屋は、もともとは人が多く住むには適していない辺境の地であった。しかし、秀吉の命を受け、ここには突如として20万人規模の巨大都市が築かれた。
その中心にそびえる名護屋城は、秀吉自身の居城として設計され、その周囲には全国各地から参陣した戦国大名たちの陣屋が立ち並んだ。さらには京、大坂、堺から商人たちが集い、政治・経済・文化の中心地としての機能も果たしたという。
なぜ秀吉は、この地に巨大な都市を築き上げる必要があったのか。そして、その短期間での栄枯盛衰の背景には何があったのだろうか。
朝鮮出兵の拠点として
天下統一を果たした秀吉は、その目を国外へと向けた。
秀吉は朝鮮半島を経由して明国の征服を目指した。その第一歩として、軍事拠点の整備が急務となった。
朝鮮半島への進出には海を渡る必要がある。しかし、秀吉の本拠地である大坂は朝鮮との距離が遠く、迅速な軍事行動を行うには適していなかった。
当初、候補地として商業都市として栄えていた筑前博多(現在の福岡市)が検討されたと考えられる。博多は古くから交易の要衝として発展しており、多くの商人が暮らす地であった。しかし最終的に、肥前名護屋が選ばれることになる。
肥前名護屋が選ばれた理由は、その地理的条件にあった。
肥前名護屋にした理由は、朝鮮への中間地点となる「壱岐・対馬」に最も近く、港を作れそうな土地もあり、「倭寇」「松浦党」とも呼ばれた海域に詳しい人々がその地に住んでいたからだった。
肥前名護屋城の誕生
宣教師のルイス・フロイスによると、当時の名護屋は、「僻地で、人が住むのには適しておらず、食料のみならず、事業を遂行する全ての必需品が欠けており、山も多く沼地もあり、人手を欠いた荒地だった」という。
まず、秀吉の「御座所」となる肥前名護屋城が築かれた。
城郭は約17ヘクタールの総石垣に囲まれ、その規模は当時の大坂城に次ぐものであった。
城の周囲には、全国から集結した戦国大名たちの陣屋が130以上建設され、さらに商人たちが集う城下町が発展。
短期間のうちに約20万〜30万人が暮らす一大都市が出現したのである。
その様子は「肥前名護屋城図」などの複数の絵図や屏風に描かれている。
当時の名護屋を描いたと見られる絵図で、当時の建物や道筋なども描かれており、現在でも貴重な史料として研究に用いられている。
そうそうたる武将たちの陣跡
今も、名護屋城跡や周辺に築かれた大名陣屋跡の発掘調査や整備などが行われている。
特別史跡に指定されている陣屋跡は、全国から集結した戦国大名たちが築いたものだ。
その顔ぶれを見ると、当時を代表する多くの大名が参陣していたことがわかる。
以下は、主な大名たちである。
・徳川家康
・前田利家
・伊達政宗
・真田信之
・長宗我部元親
・島津義弘
・豊臣秀保(秀吉の甥)
・加藤嘉明
・古田織部
・足利義昭
・細川忠興
・藤堂高虎
・北条氏盛
この他にも、多くの大名の陣跡が残っている。
「肥前名護屋城図」に描かれたままの造りで発掘された陣跡もあり、まだ誰のものかわからない陣跡もある。
これらの陣跡については、いずれも建物そのものは現存しておらず、遺構や石垣のみが残されている。
徳川家康の陣跡は現在2ヶ所が確認されており、それぞれの規模や配置が詳細に調査されている。
複数伝えられている真田の陣
大河ドラマの主役にもなった真田幸村(信繁)が有名な真田一家。彼らの陣跡については特に伝承が多い。
真田家は当主で幸村の父である昌幸、兄である信之の陣の他に、当時は秀吉の馬廻衆であった幸村の陣もあったとされ、その数は5ヶ所にのぼる。
また、近隣には「サナダサエモン様の墓」と呼ばれる供養墓が残されており、地元では幸村に関する伝承が語り継がれている。
この伝承によれば、大坂夏の陣で敗れた幸村のゆかりの人物が土地勘を頼りに名護屋まで落ち延び、供養のために墓を造ったとされる。
肥前名護屋の衰退
文禄の役(1592年〜1596年)と慶長の役(1597年〜1598年)の期間、肥前名護屋は秀吉による朝鮮出兵の軍事拠点として、その重要性を大いに発揮した。
多くの大名や武将がここを経由して朝鮮へ渡り、軍事中枢の一つとして機能した。
しかし、1598年の秀吉の死去とともに朝鮮出兵は終焉を迎え、それに伴い肥前名護屋もその役割を失った。
江戸時代初期、幕府の政策により肥前名護屋城は廃城となり、その資材は唐津城など他の城郭の建設に転用された。一部の陣屋跡には、解体の痕跡が確認されており、こうした証拠は当時の廃城の経緯を物語るものである。
朝鮮出兵時には推定20万人以上が肥前名護屋に集結したが、戦争終結後にはその多くが退去し、都市としての機能を完全に失った。
おわりに
秀吉が築いた肥前名護屋という巨大都市は、10年も経たずに役目を終えてしまった。今となっては石垣が残るだけの幻の都市である。
周辺地域には伝統行事として、当時から伝えられた祭りなどが残っている。
さらなる調査により、当時の武将たちの痕跡を感じられる史跡として整備されることが期待されている。
参考:『肥前名護屋 幻の巨大都市』他
文 / 草の実堂編集部