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国産EV:衝突を重ねながらも乗り越えた開発秘話――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』

NHK出版デジタルマガジン

国産EV:衝突を重ねながらも乗り越えた開発秘話――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』

 情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版の第二作『新プロジェクトX 挑戦者たち 2』より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。

『新プロジェクトX 挑戦者たち 2』書影

<strong>友とつないだ自動車革命――世界初! 5人乗り量産EV</strong>

1. EVの時代はいつかやってくる

世界初、量産型5人乗りEV
 今、世界は100年に一度の自動車革命のただ中にある。
 
 ガソリンを一切使わない電気自動車・EV(Electric Vehicle)。従来のガソリンを燃料とする車とは異なり、排気ガスの発生を大幅に抑えることができる車である。世界の年間販売数は1000万台を超え、ヨーロッパや中国では新車の2割近くまでシェアを伸ばしている。こうした急速に進むEVシフトの先駆者となったのは、ある日本の車だった。
 
 電気自動車「リーフ」。日本の自動車メーカーの日産が、2010(平成22)年に5人乗りとして世界で初めて年間1万台以上生産したEVだ。車名は、英語で「葉」を意味する「leaf」が由来となっており、植物の葉が大気を浄化するように走行時の排出ガスをなくすことを意味する。充電口が二つあり、普通充電と急速充電の両方に対応する。もちろん完全に電池のみで動くため、マフラーもない。高い加速力を誇り、排気ガスも一切出さない。

 開発を担当したのは、当時、日陰部署にいた技術者たちだ。電気のみで走行する自動車の量産化など夢物語と言われた時代から、一途に信念を貫いた。そこには、思い切りぶつかり合い、そして理解し合った仲間たちがいた。
 
 これは友と力を合わせ、前人未踏の壁を突破した、技術者たちの執念の物語である。

「日陰部署」と呼ばれて
 1991(平成3)年。バブルの余波を受け、日本の自動車業界は空前の好景気を謳歌していた。当時、業界第二位だった日産もまさに黄金時代を迎え、「シルビア」「シーマ」「プリメーラ」など、デザインや高出力のエンジンを売りにした新型車を続々と世に送り出していた。

 そんな折に、自動車の本場であるアメリカ・カリフォルニア州で、大気汚染に関する大きな対策が打ち出された。いわゆる、ZEV規制だ。7年後までに排気ガスを出さない車を一定比率以上販売しなければ、巨額の罰金を科すというものだった。
 
 排気ガスを出さない車、すなわちEVである。当時それは、まだ実用化にはほど遠い未来の技術だった。しかし、アメリカは自動車メーカーにとって重要なマーケットの一つである。選択の余地はなく、何らかの手を打たなければならなかった。こうして日産内に、社内のさまざまな部署から集められた50名から成るチームがつくられることになる。

 このEV開発部の中心メンバーとして白羽の矢が立ったのが、当時主力車の開発部門にいた門田英稔だった。新たな車を開発するのはやりがいのある大仕事だが、とはいえ、その時点ではアメリカでわずか数百台程度売るためだけだ。花形部署からの異動に一時肩を落とした。彼は、当時抱いたやるせない思いをこう語る。
 「『なんで俺が?』と思いましたね。当時のEVといえば、東京モーターショーなどで展示されているゴルフカートみたいな車ばかりで、正直

 現実感がほとんどありませんでした。これまでの仕事から離れてまでやる必要のある仕事なのか? 自分はこの新部署でいったい何をやるのだろう? というのが本心でした」
 
 そして、EVの電池開発を担当することになったのは、日産総合研究所から異動してきた宮本丈司 。日産における電池づくりのエキスパートだ。戸惑いの中でスタートした開発だったが、EVは将来の可能性をさまざまに秘めた製品でもある。徐々にメンバー内のモチベーションも上がってきた。注目のプロジェクトでもあったため、社内での認知度も高かったという。

 しかし一方で、EV開発部は他の部署から冷ややかな目で見られていた。現時点では主力商品でもなければ、売り上げを見込める商品をつくるわけでもない。日産としては、不採算事業であることは誰の目にも明らかだった。つまり、車づくりの本流ではないため、時に「日陰部署」などと揶揄された。
 
 そんな部署に、なぜか自ら志願してきた若者がいた。当時、入社4年目の枚田典彦だ。彼は、EV開発における電池の担当となる。なぜわざわざ、ここに? 驚きを隠せなかった上司の宮本は、手を挙げてきた枚田に「珍しいな、お前」と言ったことをよく覚えている。行動力があり、何に対しても物怖じせず積極的に取り組む枚田は、すぐにチームを引っ張っていく大きな原動力となっていった。

 枚田は入社以来、材料研究所に配属され、主にサビの研究を行ってきた。彼の自動車に対する熱い思いの原体験は、幼い頃、父親に連れられ毎週のようにドライブに出かけていたことにあった。父は、訪れた場所を楽しげに地図に記した。それを見て育った彼は、いつか自分で開発した車で両親をドライブに連れて行くのが夢になった。車づくりに携われるならEVでも何でもよいと、胸を躍らせ、飛び込んできたのだった。EVという未知なるものづくりに関わることになった当時の心境を、彼は次のように語る。
 
 「EVはまだまだ新しく、そしてマイナーな存在だったので、先駆者もいません。ゆえに、自分たちでいろんなものをイチからつくり上げなければいけませんでした。でも、それゆえにやりがいはすごく感じましたね。何としてでも世に出せるようにしたい、と強く思っていました」

リチウムイオン電池の可能性
 EV開発部は、9年という年月をかけて、電池の性能やモーターのパワーなどを進化させていった。しかし、皆が大きな可能性を確信し始めたその矢先、衝撃の事実が発覚する。日産はバブル期の設備投資のツケで、2.9兆円もの負債を抱え、経営破綻の危機に追い込まれていたのだ。
 
 そんな中、新社長として、あのカルロス・ゴーンがやってきた。彼は、持ち前のコストカッターの手腕を見せつけ、採算性のない事業を次々と解体していった。EV開発部も例外ではなかった。可能性こそ秘めてはいるが、あくまで不採算事業であることに違いはない。それまでの地道な努力は認められず、問答無用で解散が申し渡された。
 
 メンバーは散り散りになっていった。宮本と枚田の電池チームも行き場を失った。それでも、これまでの開発を無駄にしたくはないと研究と勉強をやめることはなかった。

 宮本には、ある強い思いと確信があった。EVの出来を左右するのは電池である。そして、将来的に、いつか必ずEVの時代は到来する。自分たちのこれまでの仕事は、その時のためのものである。研究を続けていけば、いつか時代が追いついた時に、他社をリードする存在になっているはずだ。そうでなければ、これからの自動車界の新しい流れの中で、あっという間に追い抜かれてしまうだろう、と。枚田も同じ思いだった。
 
 しかし、そんな未来への展望と固い意志を持った彼らに、安住の地はなかった。電子設計部やエンジン設計部など、毎年部署を転々とさせられ、「流浪の民」と呼ばれた。しかし、宮本と枚田は腐ることなく水面下で研究を続けた。来たる「その時」を待ち続けた。宮本は振り返る。

 「ハナから我々は本流じゃないところでやっているというのは自覚していたので、自分たちの信じることをやり続けていけばいい、そんな感覚でいたのだと思います」
 
 一方、枚田は当時、別部署の同僚らから投げかけられた言葉を今でも鮮明に覚えているという。
 
 「『素振りやってるね』みたいな言われ方をするんですよね。確かに開発する商品が決まっているわけではないので、素振りといえばそうなのかもしれませんけど。でも、心の中では『いつまでも素振りばっかりしているつもりはないぞ』という強い思いがありました。もちろん、花形部門で働く同僚を羨うらやむ気持ちもなくはなかったのですが、EVが社会的に必要になる時代はいつか必ず来る。その時は、逆に私たちが羨ましがられる立場になっているはず。それがいつ来るのかはわかりませんでしたけれども、でもそう遠くはないはずだ、って」

 彼らが、EV開発部門の解散後も研究を続けられた背景には、宮本の並々ならぬ尽力があったと枚田は言う。

 「宮本さんは、本当に逆境に強いんです。当時、相当強い逆風が吹いていたはずなのですが、それに動じる気配はまるでなかった。EVの開発自体にはストップがかかってしまったわけですけど、それでも電池の開発に関しては、宮本さんが上層部に必要なデータをまとめて提案を続け、粘り強く交渉をし、きちんと予算を取ってきてくださったからこそ研究を続けることができたんです。そして、その『何とか続けられている』ということが、我々にとってモチベーションにつながっていたことは間違いないと思います」

 EVを諦めない二人が密かに目をつけていたのが、リチウムイオン電池だ。それは日本で発明された、小型ながらも大容量を誇る画期的なものだった。
 
 しかし、車には無理だと反対されるのが常だった。なぜなら、熱や衝撃で発火しやすいからだ。一度発火すれば、大きな爆発へとつながる恐れもある。過去に、他社の生産する工場で火災が起きたこともあった。採用は難しすぎる、危険すぎるという意見が大勢だった。実際に、トヨタ自動車が1997(平成9)年から製造・発売しているハイブリッド車「プリウス」も、この電池は採用していなかった。

 しかし、それでも宮本は信じていた。もしリチウムイオン電池の安全性が確保できれば、自動車革命が起きるはずだ。EV時代の到来の鍵は、この電池が握っている、と―― 。
 
 当時、自動車で使用するものとしてもっとも一般的だったのは鉛蓄電池だった。エンジンルームに積まれることの多いバッテリーに利用されていた。ポピュラーだった理由は、取り扱いが容易で、火災などのリスクが低く、しかも安価だったからだ。しかし、圧倒的にエネルギー容量が不足していた。ゆえに、動力源に用いても航続距離はせいぜい40〜50キロ程度。これでは、近隣を走るだけの、利用目的も限定された車としてしか使えない。一般に広まるにはあまりに力不足だし、ガソリン車に代わる「もう一つの選択肢」になることは期待できない。その点、エネルギー容量ではるかに勝るリチウムイオン電池なら、鉛蓄電池の弱点を克服することができるはずなのだ。
 
 予算は限られている。彼らは、リチウムイオン電池に目標を定め、一点集中で開発を続けた。虎視眈々と爪を研ぎながら、必要とされる「その日」をじっと待ち続けた。

2. ついに夢の舞台に

素振りの日々から、打席へ
 2007(平成19)年11月。流浪の民として、宮本と枚田が水面下で電池の開発を続けて8年目のことだった。かつて二人とともにEVを開発していた門田の携帯が鳴った。電話は役員からだった。電話口から聞こえてきたのは、思いもよらぬ通達だった。
 
 「新EVプロジェクトを立ち上げる。リーダーは君にやってもらう」
 
 「今予定している会議はすべてキャンセル、すぐEVのために動いてくれ」
 
 門田は、「これは本気だな」とすぐに悟った。
 
 命じたのは、かつてEV開発部を解体したカルロス・ゴーンだ。彼の命は、EVを量産化し、グローバルに展開すること。そのために与えられたのは、わずか3年間。これは一般的な車の開発に要する期間の半分である。

 この急なプロジェクトの発足の背景には、やむにやまれぬ事情があった。この年、日産はゴーンが来てから初めての減収を発表。逆転するにはEVだと、方針転換が図られたのだ。

 門田は、大きな目標を書き留めた。

 「プリウスとの真っ向勝負だ」

 そして、散り散りになっていた元EV開発チームを再招集すると、こう宣言した。
 
 「今回のEVは、サイズはもっとも競争が激しい5人乗りのファミリータイプ。1回の充電で160キロ以上走破する」

 EVの心臓部とも言える電池開発の責任者となったのは、長い間日陰にいた枚田。ついにスポットライトが当たる時が訪れたのだ。水面下で開発してきたリチウムイオン電池を、世に出す時が来た。逆風続きの日々が終わりを告げ、急に追い風が吹くのを実感した。やる気に満ち満ちた彼は、心の中で誓った。素振りの日々は終わりだ。今度は倒れないように、ちゃんと打席に立つ、と。

 7年間の流浪の旅を経て、彼らは、ついに夢の量産EV開発の舞台に立ったのだった。

生産vs.開発
 2008(平成26)年、春。神奈川県座間市の工場脇にあるプレハブ小屋で、枚田たちの電池開発は始まった。チームに課せられたハードルは高かった。160キロ以上という長い航続距離を出すだけでなく、同時に高い安全性も求められた。
 
 開発は、まず「セル」と呼ばれる色紙大の電池の生産から始まった。それを192個つなぎ、鋼のパックに収納する作戦である。セルはリチウムなどの金属や炭素の粉が塗られた薄いシート50枚に電解液を注いでつくられる。電池は材料の配合、つくる過程の温度や湿度、注入時間などの諸条件によって性能が大きく変わってくる。枚田たちは最適な条件を突き止めるため、幾度も実験を繰り返した。
 
 開発が始まって4か月が経った頃、一人の男が枚田たちを訪ねてきた。
 
 「電池の開発状況はどうだ?」
 
 生産技術部の岸田郁夫、電池を量産する生産ラインの責任者だった。これに枚田が応えた。

 「データを取っている最中で、材料もつくり方もまだわからない」
 
 それを聞くと、岸田は怒りをあらわにした。枚田たちと顔を合わせたこの日のことを、彼はこう振り返る。
 
 「『何なんだ、こいつらは?』と思いましたね。あれも決まってない、これも決まってない、でしょ。どういうことなんだ? って」
 
 さらに岸田を苛立たせたのが、大量生産とはほど遠い開発現場の現実だった。リチウムイオン電池をつくる作業は、極度の繊細さが要求される。セルのつくり方を問うた彼は、その想像以上の悠長さに唖然としたという。
 
 「だって、『電解液は一滴ずつ入れるんです』とか言うんですよ。注射器で、24時間かけて。そんなペースでやっていて、どうして量産できるのかって話なわけじゃないですか」

 岸田が憤ったのも、無理のないことだった。彼の所属する生産技術部では、量産化の納期を守ることこそが最重要課題だったからだ。彼は、強い危機感を覚えていた。このままでは、自分に与えられたミッションをこなすことは不可能に近い。いや、絶対に不可能だ。
 
 その時点で、残された期間は2年半しかなかった。タイムリミット内で量産化を実現するには、開発と同時平行で工場をもつくる必要があった。何も決まらない。ゆえに動けない。そして、あまりに時間がない……。岸田がここまで厳しい状況に陥ったのは、自動車産業に足を踏み入れて以来、初めてのことだった。
 
 岸田は28歳の時、自分の手で車を生み出したいと中途で日産に入社した。そして、日本、アメリカ、中国と渡り歩いた。どの現場でも決して弱音を吐かない男として、生産技術部屈指の腕を磨いてきた。彼にとって、納期が遅れ他部署に迷惑をかけるなどということは、あってはいけない。いや、絶対にあり得ないことだった。
 
 岸田は、自ら製造工程表をつくり始めた。そして、それを電池開発の枚田に突きつけ、宣言した。
 
 「もう間に合わない。製造工程はこれでいく」
 
 その工程表は、開発部の意見をばっさりと無視したものだった。24時間以上かかると伝えていたはずの電解液の注入時間は、なんと0時間。その他にも、現状ではデータがなく、かつ時間のかかる工程はすべて却下されていた。
 
 「地道な開発を無駄にするのか!」
 
 枚田は激怒した。とにかく全部が「無し無し無し」の一点張り。時間がかかる工程は、その内容いかんにかかわらず、すべてに「いらないだろ」「もっと早くやればいいじゃないか」と注文が入った。こんなことでは安全な電池などつくることはできない。あり得ない話だった。首を縦に振ることは、とてもではないができなかった。

 「モノをつくれなかったら製品じゃねえ」と一刀両断する岸田、「それは当然、わかってますよ。でも、まだデータを取っている最中だから待ってよ」と食い下がる枚田。このままでは製造に関するさまざまな要件を決めることができない。かといって、枚田にそれを言っても曖昧な答えしか返ってこない。とにかく、時間も予算もかかり過ぎる。これでは量産などできっこない。どんなに反論を聞いても、不満だらけの岸田が主張を曲げること
はなかった。
 
 話し合いは平行線をたどり続けた。夜遅くまで激論を繰り返してもなお、決まらぬ方向性。お互いに自分たちの主張を繰り返すだけなので、何も決まらぬまま、次の日にその延長戦が行われた。それでも、決まらない。双方に、苛立ちが募っていった。
 
 岸田は生産部隊を、枚田は電池開発を共に統括する身である。上の立場の人間が安易に妥協してしまえば、実務を担う部下たちにしわ寄せがいき、困ってしまうだろう。お互いの立場からも、折れることはできなかった。こうして、対立は日に日に強まっていった。

仲裁役の登場
 この険悪な関係の二人に挟まれることとなった男がいた。平井敏郎、電池を保護するパックの開発責任者だ。
 
 以前、共に仕事をした経験のある枚田から「状況を見にきてほしい」と頼まれた彼は、現場に行って驚いた。想像していた以上に開発が進んでいなかったからだ。聞けば、電池を構成するセルはつくれて1日に10個程度、頑張って20個程度だという。ちょっと待て、それではEV1台分の電池をつくるのに何日かかってしまうのか? しかも、このピリピリとした雰囲気はいったいなんだ? 当時、この電池開発・製造の現場に関わり始めたばかりの頃を、彼は苦笑いと共に回想する。

 「開発トップの枚田さんと生産トップの岸田さんが、なんと言うか…… 睨み合っているんですよ。それも毎日毎日。とってもよくない雰囲気で睨み合っている。それもそのはず、話し合っているところを見ても、まったく噛み合っていないんです。お互いに相手の言うことを聞くつもりがまるでない。しかもトップの二人だけじゃなくて、それぞれのチーム全体で対立し合っているから、部屋の空気が悪くて悪くて、いたたまれない気持ちになりました。その時、気付いたんです。あ、俺は仲裁役に呼ばれたのね、って」
 
 普段はNATC(日産先進技術開発センター)に詰めている平井は、座間に着く度に憂鬱な気分に襲われた。枚田と岸田のいる開発部に顔を出さねばならないのだが、どうにも気が重い。あの険悪な雰囲気に満ちた部屋に行きたくない……。

 「今だから告白しますが、最初の頃は座間に着いても彼らのところに行きたくなくて、とりあえず漫喫(漫画喫茶)で2時間くらい潰して、ギリギリまで先延ばしにしてから仕方なく……という感じでした。で、コンビニに寄ってお菓子を買って、睨み合っている彼らのところに行って、『ほら、みんな甘いもの食べて気を静めて、もう一回話し合ってみようよ』というのをやるんですよ。それがほぼ毎日、正直、本当に疲れましたね」

 枚田と岸田の対立は、端的に言えば、それぞれのカルチャーの違いに端を発していた。言うなれば、「研究室での実験」と「工場のラインづくり」という、根本から考え方の異なる部署のぶつかり合いだったのだ。

 それまで、岸田がつくってきたのは自動車における機械部分であった。つまり、それは物理の領域であり、ゆえに計算によってかかる時間も必要な人員もすべて即座に算出可能だ。しかし一方、化学の領域にある枚田の電池づくりは、そうしたシミュレーションが容易にはできない。実験結果も、その時その時で異なったものになることもざらだ。化学変化を相手にするということは、微細な変化と不確定要素、なかなか出ない答えと地道に付き合っていくことなのである。
 
 また、それぞれが重んじるものも異なる。研究なら、いくら時間と人手がかかっても、性能を上げられさえすればそれでよい。しかし生産、しかもそれが量産ということになれば、人的・物理的・時間的なコストが大きなネックになってくる。つまり、生産性を上げるために、かなり厳しいところまで自分たちを追い込んでいく必要があるのだ。岸田は、当時をこう振り返る。

 「枚田さんら、電池の研究をする人たちのことを、当時はまるで理解できていなかったんです。生産の現場は、かなり上意下達の組織に近いところがある。明確にピラミッド型の組織で、トップダウンで下の者は命令に従わなければならない。できない、わからない、ちょっと待ってくれ、なんて答えは選択肢にないんです。自分は、電池の生産ラインを準備するためのリーダーですから、当然もっとも生産性がよく、そして実現性のあるつくり方というのを考えて、そのためにはこういう設備が必要で、こういう流れでやっていかなければならないよ、ということを示し、命じていく立場にあります。つまり、私がしっかりしなかったり、間違ったことを言ったりすると、下に迷惑がかかることになるんです。だからあの時は、どこか自由にやっているように見える枚田さんら開発部門に我慢がならず、過剰に責め立ててしまったんですね」

 枚田は、当時岸田から詰め寄られた経験を、こんなふうに振り返る。

 「静かに怖かったですね。毎回毎回『なんでデータが出ないんだ』と言われるんですけど、電池というのは耐久性も非常に重要な要素なので、本当に設計通りにできているかというのを見るのに、サイクル試験やストレージ保存試験といったいろいろなことをやらなければなりません。そして、それはそれなりに時間もかかる。明日持ってこいと言われても、実験だけで3か月はかかってしまう。でも、そこを理解してもらえないので、説明してもすぐに今度は『なぜ3か月も?』ということになってしまう。永遠にすれ違っているような気持ちでした」
 
 彼らが、こうした文化的な相容あいいれなさを克服するのは、もう少し先の話だ。
 
 そして、その頃、枚田・岸田・平井の3人をさらなる窮地へと追いやる事態が発生した。開発中に電池が燃える事故が頻発したのだ。
 
 リチウムイオン電池は、材料やつくり方を誤ると大きな発火を引き起こし、時にそれは爆発を伴うこともある。試験室が燃え、消防隊が出る大騒ぎになった。驚きと困惑と不安が開発チームを襲った。

 いつも強気な岸田も、その例外ではなかった。電池づくりが、ここまでやっかいなものだったとは……。これまで家では仕事の不安や愚痴は漏らしたことはなかったのに、この時は限界だった。家では妻の薫に初めて弱音を吐いた。彼女は、当時をこう回想する。

 「帰ってくる度に、毎回毎回『失敗した、失敗した』という話をしているので、驚きました。そういう話って、それまでは家ではまったくしたことがなかったので。これは本当に苦労しているのだろうなと思いました」
 
 この時、発売までに残された時間はわずか1年半――。3人は、絶体絶命と言っていいところまで追い詰められていた。

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