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明石海峡大橋。世紀のつり橋建設は、一人の「夢」から始まった――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』

NHK出版デジタルマガジン

明石海峡大橋。世紀のつり橋建設は、一人の「夢」から始まった――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』

 情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版の第一作『新プロジェクトX 挑戦者たち 1』より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。

『新プロジェクトX 挑戦者たち 1』書影

<strong>世界最長 悲願のつり橋に挑む――明石海峡大橋40年の闘い</strong>

1. 夢の始まり

橋を夢見た男
 
 「人生すべからく夢なくしてはかないません!」
 
 全ての始まりは、1957(昭和32)年にある男が言い放ったこの言葉だった。男の名は原口忠次郎、時の神戸市長である。
 
 舞台は、戦後の復興が進む神戸の市議会。この年の3月、議会は翌年度の予算をめぐり紛糾していた。原口が、神戸と淡路島を隔てる明石海峡につり橋を架けるという構想を突如披露し、建設に向けた調査予算を提出したからだ。それは、当時としてはあまりにも無謀で、誰もが耳を疑うような構想だった。
 
 明石海峡は、古くから激しい潮流で知られる海の難所であり、海中工事は至難の業。そのうえ水深も深いため、高度な技術力を要するつり橋でしか架橋できない。そして最大の問題は、約4000メートルにわたる海峡幅である。当時世界で最も長いつり橋は、アメリカ・サンフランシスコに架かるゴールデンゲートブリッジ。その長さは1966メートル。技術先進国のアメリカが、その粋を集めて建設した世界一のつり橋よりも、明石海峡は2倍近く長いのである。

 当然、市議会議員たちは反発した。不可能なことは誰の目にも明らかだった。「市長は、白昼に夢でも見ているのではないか?」という厳しい声まであがった。しかし、原口は折れない。そのとき原口が議員に言い返したのが、冒頭の「夢なくしてはかないません」という言葉である。原口には、この橋を絶対に架けたい理由があった。

 原口は、内務省の土木技術者として荒川の治水などに長年尽力してきた。そして1939(昭和14)年、50歳のときに、神戸・中国・四国地方の開発を担う神戸土木出張所の所長に就任した。そのときに原口は初めて四国にわたり、その現状を見て衝撃を受けた。当時、本州と四国を結ぶ橋はなく、交通手段は不安定な船舶のみ。そのため、四国には豊富な資源があるにもかかわらず、近代的な産業が発展せず、平均収入も都市部より大幅に少なかった。その現状を打破するためには、阪神と四国を橋で結ぶしか方法はない。

 「四国はどうしても、阪神の経済圏に早くくっつかなければなりません。これが四国の開発の唯一の道です。また阪神としても、交通さえ便利になればいくらでも発展する地域を後方に持つことが、繁栄の基礎となるのです」
 
 橋の必要性を確信した原口は、その思いを胸に60歳にして神戸市長に就任。明石架橋のために、ついに動き出したのだった。そして1957年、物議を醸した調査予算を熱弁により押し通した原口は、架橋の実現に向けた本格的な調査に乗り出す。さらに、莫大な予算のかかる建設工事を国家事業にすべく、時の建設大臣などへの陳情に奔走した。あまりにも橋のことばかり考えているものだから、「橋口さん」というあだ名までついた。
 
 だが、まだこのときは明石海峡に橋が架かるなどと本気で信じている者は少なかった。明石海峡大橋は、原口の答弁をもじって「夢の架け橋」とも呼ばれた。「夢のように素晴らしい橋」というプラスの意味ではない。「およそ実現不可能な夢幻の橋」であるという、揶揄が存分に込められた呼び名だった。
 
 これは、そんな夢物語に挑んだ者たちの、知られざる不屈のドラマである。

淡路島に閉じ込められた少年

 4年後の1961(昭和36)年、神戸の対岸の淡路島を悲劇が襲った。最大瞬間風速84.5メートルの強力な台風、第2室戸台風が直撃したのである。当時、四国側にも神戸側にも橋はなく、島を脱出する術はなかった。
 
 強風が猛烈に吹き付け、街を破壊するさまを、自宅の窓から不安げに見つめる一人の少年がいた。穐山正幸、12歳。兵庫県の土木職員である父の転勤に伴い、淡路島に引っ越してきたばかりだった。
 
 「猛烈な南風を受けてガタガタと揺れる窓が壊れてしまわないように、両手で必死に押さえていました。そのとき親父は家にいなくて、いたのは祖母と母親と、まだ小さな弟・妹だけ。とても心細かったです」
 
 穐山の父・正七郎は、朝から晩まで台風対応の陣頭指揮をとった。しかし、頼みの綱の船舶交通や港は壊滅的な被害を受け、救援物資は届かない。それもあって、復旧作業は困難を極めた。疲れ切った父の顔に、穐山は、橋の無い島の悲しさを思った。
 
 「数年間、ほとんど親父の顔を見ていないというか、起きたときにはもう仕事に行っていて、帰って来るのは僕らが寝たあとというような状態。親父は、その数年で一気に老けましたね。橋さえあれば……というのは、子どもだった僕だけじゃなくて、島の人たちはみんな強く感じていたと思います」

「この橋がかかるまでは、私は死に切れませんよ」
 
 その頃、橋の実現を目指す原口忠次郎は、執念ともいえる粘り強さで、国への働きかけを続けていた。
 
 「日本全体の国土計画から考えて、明石海峡大橋は不可欠なもの。四国をあんな形で置き去りにしておくわけにはいかんでしょ。情熱は消えないどころじゃない。ますます情熱を燃やしていきます。そして私のありとあらゆる力と、政治力と、それから技術とを全部投入していきますわ。この橋がかかるまでは、私は死に切れませんよ」

 そしてその執念は、時の建設大臣・河野一郎を動かし、いよいよ国が明石海峡大橋建設のための現地調査に乗り出した。同じ頃、香川県や愛媛県でも瀬戸大橋・しまなみ海道の建設を求める気運が高まり、明石を含む3ルートの間で誘致合戦の様相を呈していたが、河野大臣は「明石海峡大橋を一番先に架ける」と明言。原口率いる神戸市が一歩リードする状況となった。

 もう一つ、原口たちが力を入れたのが、海外の長大つり橋の技術を紹介する『調査月報 明石架橋資料』の発行だった。当時、アメリカでは全長2000メートル級の橋が次々に建設されていたが、日本では全長わずか627メートルの若戸大橋(北九州市)が精一杯。日本の架橋技術は、欧米に比べて実に半世紀以上遅れていた。
 
 このままでは、全長4000メートル近い明石海峡大橋を架けることなど夢のまた夢。

 まずは海外の技術を学ばなければならないということで、海外のつり橋の報告書などを翻訳してまとめたものが、『調査月報』だった。月報は、製鉄会社や橋梁メーカーなど関係各社に毎月配布され、日本の技術者が最新の橋梁技術を学ぶ貴重な資料となっていった。
 
 そして1970(昭和45)年、明石の架橋計画がにわかに動き出した。時の自民党幹事長・田中角栄が、瀬戸大橋・しまなみ海道を含む3ルート全ての建設を宣言。同年、それらの架橋を担う本州四国連絡橋公団(本四公団)も発足し、なんと1973(昭和48)年の3ルート同時着工が決まった。原口は、神戸市長の座を辞して本四公団の顧問に就任。いよいよ始まる橋の建設を心待ちにしていた。

 しかし、運命の女神が味方したのはここまでだった。起工式のわずか5日前、政府は突如、明石を含む3ルート全ての着工の無期延期を発表した。同年に発生したオイルショックが原因だった。1976(昭和51)年、原口は明石の着工を見届けることなく、脳梗塞により86歳でこの世を去った。「橋の見える場所に葬ってほしい」。これが、原口の最後の願いだった。

無気力な社員に訪れた転機

 同じ頃、神戸に本社を置く神戸製鋼で、一人の無気力な新入社員がくすぶっていた。少年時代に淡路島で台風に被災した、穐山正幸である。

 学校の成績が良かった穐山は、その後、兵庫有数の名門高校に進学。だが、趣味にも部活にも熱中できず、所在ない日々を過ごしていた。順当に大学に進み、地元企業の神戸製鋼に入社したが、特に何かやりたいことがあったわけではない。ただ単に、実家から通える範囲にあり、大企業なので土日も休めそうだな、というのが決め手だった。

 入社早々、東京に配属され、アルミ素材を扱う部署で働いた。しかしそこにも、穐山が熱中できるものはなかった。仕事は定時で切り上げ、ジャズ喫茶や居酒屋で時間をつぶす日々だった。

「残業するやつはバカだと思っていたし、仕事はお金を得るための手段と割り切っていました。で、そのお金で遊ぶと。好きなことをする。やりたくない仕事をふられると『やりたくないです』なんてワガママ言って、先輩からも『困ったな』と言われていました」

 入社3年目、そうした言動がたたり、神戸に送り返された。放り込まれたのは、会社でも異色の「つり橋」の部署。鋼鉄製のケーブルを作るだけでなく、工事の方法から考案する部署だった。新しい上司は、12歳年上の三田村 武。口数少ない、朴訥とした男だった。
 
 そして、社内外でも評判の凄腕技術者だった。
 
 「三田村さんというのは信頼できるリーダーだと、まわりの皆から言われていました。つり橋のことを誰よりも熟知していて、グループにとってはエースであり、特別な技術者というような感じでしたね」

つり橋先進国・アメリカの衝撃
 
 三田村は、1937(昭和12)年に愛媛県で生まれた。その後大学で土木を学び、神戸製鋼に入社。以来、製鉄所の建設に携わってきた。そんな中、1965(昭和40)年の正月、突然当時の部長に呼び出され、こう言われた。
 
「これからは長大橋の時代がくる。アメリカでは、製鉄会社がつり橋を架けているんだ。君には是非、その勉強を始めてほしい」
 
 寝耳に水だった。土木を専門に学んできた三田村にとっても、長大つり橋というのは全く未知の領域だった。
 
 翌年、三田村は勉強のため、つり橋先進国・アメリカに飛んだ。ちょうどその頃、27年ぶりに世界最長を更新する長大つり橋・ベラザノナローズブリッジ(全長2196メートル)が、ニューヨークに架かったばかりだった。だが、三田村が最も衝撃を受けたのは、そのベラザノではなく、その前まで世界一だった金字塔・ゴールデンゲートブリッジだった。

 この橋の完成は1937年。奇くしくも、三田村の生まれ年と同じだったのである。

 「これは立派な橋だなあ、と感激しましたね。その一方で、私が生まれた年に、もう既にアメリカではこんな立派な橋を架けているのか、格段の差だなと思わされました。日本がここまで到達するにはあと何年かかるのだろうか。自分たちもコツコツと勉強していかないといけないなと」
 
 アメリカ出張から戻ってまもなく、三田村に仕事が舞い込んだ。奈良県月ヶ瀬の山奥に架かるつり橋、八幡橋のケーブル工事である。全長はわずか160メートル。アメリカの長大つり橋には遠く及ばない小さな橋だが、いつの日かアメリカを追い越すことを夢見て、三田村はその工事に全力で臨のぞんだ。そして、この八幡橋で、三田村たちはある新技術を編み出した。それが、のちに明石海峡大橋の建設に大きく関わることになる。
 
 その後三田村は、日本の長大つり橋の先駆けとなる関門橋(1973年完成・全長1068メートル)でもケーブル工事を成功させ、名の知れた橋梁技術者となっていった。

「あかんやん」を封じてみせる

 穐山が三田村の元にやってきたのは、そんなときだった。入社後アルミ素材と向き合ってきた穐山にとっても、長大つり橋は全く未知の領域である。どうしたものかと思っていると、三田村から「これを読んでおけ」とある資料を渡された。かつて原口の元でつくられた、『調査月報 明石架橋資料』だった。この巡りあいが、穐山の目の色を変えた。

 「小説を読むよりもずっと面白いなと思いました。大抵、物事は分かりやすいように書いてあるじゃないですか。でも『調査月報』は、とても難しくて何が書いてあるかさっぱり分からない。分からないから、面白かった。そういう意味では、私にとっては『なんだこりゃ!』だった。ちゃんと分かるようになりたいな、と思ったんです」

 それまで定時で帰っていた穐山が、休み時間を使ってでも読みあさるようになった。数十冊もある『調査月報』を、あっという間に読破した。穐山が、初めて心から夢中になれるものと出会った瞬間だった。

 ちょうどその頃、オイルショックで一時凍結されていた本四架橋計画が再び動き始めた。国は、計6個の長大橋から構成される瀬戸大橋と、しまなみ海道の一部である因島大橋、それから淡路島と徳島を結ぶ大鳴門橋の凍結を解除することを決めた。その一方で、技術的に突出して難易度の高い明石海峡大橋は、引き続き凍結されたままだった。
 
 三田村と穐山は、建設が始まった因島大橋の現場に出た。完成すれば関門橋を超え日本一の長さ(全長1339メートル)となる立派なつり橋である。穐山にとっては分からないことだらけの初現場だったが、ここで思わぬ洗礼を受けることになった。三田村の「あかんやん」である。

 「三田村さんは僕たちに、技術開発や検討などの課題を次々と与えるわけですね。でも、そのやり方については教えてくれなくて、自分たちで考えろというタイプ。必死に考えて課題の答えを持って行くと、『ここはどないするんや』と言われ、まごまごしていると『あかんやん』の一言。それで終わりです。そこでもやっぱりやり方は教えてくれないわけですね。課題をなんとか成し遂げたとしても、別に褒めてはくれません。『あかんやん』と言われないのがもう褒め言葉みたいなもので、仲間内でも『また三田村さんに「あかんやん」言われた、やり直しや……』って言っていましたからね。そういうやり方で随分しごかれたというか、鍛えられたなと」

 三田村の指摘はいつも的確で、その勉強量は計り知れない。穐山は、そんな三田村に必死で食らいついた。修業の日々の中で、いつかあの「あかんやん」を封じてみせたい、そして三田村の背中に追いつきたいという夢が、穐山の中に芽生えた。

 「三田村さんはやっぱり技術第一、それに信頼がついてくるという人ですからね。逃げないし、噓言わないし。僕にとってはやっぱり目標であり、いつか追いつきたいと願う人でした。実力差がありすぎて、師匠と弟子という関係に近かったと思いますが」

 穐山と三田村の出会いから10年の歳月が過ぎた1985(昭和60)年。瀬戸大橋の完成が近づく中、ついに明石海峡大橋の凍結も解除され、3年後の1988(昭和63)年に着工することが決まった。

 それに伴い、橋の具体的な形も見えてきた。予定される全長は3910メートル。もし完成すれば、アメリカを引き離して圧倒的に世界一となる。穐山は三田村から、常々「いつかは明石をやるんだ」と言い聞かされてきた。その日が、ついに目前にやってきたのである。三田村は、このときの感慨をこう振り返る。

 「これは夢じゃなしに、現実のものになるぞという喜びが湧いてきました。『夢の架け橋』じゃなしに、現実のつり橋になってきたと」
 
 三田村と穐山。12歳差の師匠と弟子の、世界最長への挑戦が幕を開けた。

2. 未知の領域「世界最長」に挑む

「世界最長」を支える国産技術
 
 つり橋は、2本の主塔を支えとして対岸にケーブルを架け渡し、そのケーブル橋桁をつり下げる構造となっている。世界最長となる明石の橋桁は、総重量9万トン。ケーブルは、その異次元の重みに耐え切らなくてはならない。
 
 そこで、日本を代表する鉄鋼メーカー・新日本製鐵(現・日本製鉄)と神戸製鋼の2社で、新素材の開発が始まった。その結果生まれたのが、シリコンを加えることで飛躍的に強度を高めた直径5ミリの特製ワイヤー。これ一本で、約4トン(乗用車3台分)をつり下げられる強さである。このワイヤーを実に約3万7000本束ねることで、直径1.1メートルのメインケーブルとなる。それを左右2本架け渡すことで、総重量9万トンの橋桁をつり下げようという計画だった。

 ワイヤーの素材は完成した。次なる問題は、ケーブル2本分で約7万4000本に達する大量のワイヤーを、どうやって明石海峡に架け渡すかだった。
 
 アメリカで長大つり橋の歴史が花開いてから約100年、ワイヤーは、数本ずつ滑車で架け渡しては、人力で束ねていく工法が主流だった。このやり方だと、大量のワイヤーを長さを揃えて束ねるために、膨大な手間と人員が必要となる。だが、三田村にはある秘策があった。全く新しいケーブル架設技術を、奈良県月ヶ瀬の八幡橋で編み出していた。それは、長さを揃えた100本ほどのワイヤーを工場であらかじめ束ねておき、その束を次々と対岸に渡していく工法。それにより、作業効率は一気に跳ね上がる。
 
 「やはりね、我々は我々でやろうと。日本の技術を日本で育てていくのは当たり前かなと、こう思いましたね」
 
 三田村は、この国産技術を用いて関門橋や因島大橋のケーブル工事を成功させてきた。
 
 だが、明石の4000メートルという長さは前人未踏であり、実績がない。この工法が明石でも問題なく使えるのかどうか、事前に実験で確かめておく必要があった。

実験の失敗
 
 このとき三田村は、佳境を迎える瀬戸大橋の現場工事にかかりきりだった。この重要な実験を任されたのは、穐山だった。
 
 「三田村さんが、『穐山、やっとけよ』と。『はーい』と言って引き受けました。でも、正直そんなに大きな課題だとは認識していなかったので、たいしたことはないだろう、実験でも何も起きないだろうと思っていました」
 
 1985(昭和60)年、製鉄所の片隅で、穐山による実験がおこなわれた。巨大なリールに巻かれた4000メートルの束を、ゆっくり引き出していく。これが最後まで問題なく引き出せれば、実験成功である。
 
 1000メートル、2000メートルと順調に引き出されていった。だが、未知の領域である3000メートルを過ぎたあたりで、異変が起きた。リールにキツく巻き付けたはずの束が、大きくたるみ始めた。そして、たるんだ束同士がシュルシュルと音を立てて擦れ合い、ついにはワイヤーを束ねるテープが摩擦で切れてしまった。せっかく束ねたワイヤーが、バラバラにはじけた。これでは使い物にならない。

「ああ、これはダメだ……と。こんな状態では、とてもじゃないけど現場では採用できない。ここで初めて、『三田村さんが危惧していたのはここなのか』と理解しました」
 
 穐山は、実験の失敗を三田村に報告した。だが、予想に反して「あかんやん」は出なかった。その代わり、「穐山、問題点が分かったな」とだけ返ってきた。
 
 「三田村さんは、『穐山のやりたいようにやれよ』と。それで、やってダメだったら自分がフォローするよ、という感じでした。すごく肝っ玉が大きいですよ。いつまでも三田村さんの『あかんやん』の世界にいるのではなく、そこからは脱出して、自分で判断しないといけない時がきたんだなと」
 
 穐山は、ワイヤーが大きくたるんだ理由を必死に考えた。リールの設計、巻き付ける強さ、引き出すスピード。全てを一から計算し直した。

明石海峡を隔てて結ばれた両親
 
 1988(昭和63)年、いよいよ明石海峡大橋の建設工事が始まった。海中に基礎を設置し、その上に高さ300メートルの主塔がそびえたっていく。日本中の橋梁技術者が、この瞬間を待ちわびていた。1957(昭和32)年にこの橋が構想されてから、実に30年以上の月日が流れていた。
 
 その間、技術者たちはいつか世界一のつり橋を架けることを夢みて、関門橋や瀬戸大橋で黙々と腕を磨いてきた。その中の一人に、一際熱い闘志を燃やす若者がいた。ケーブル工事の現場監督、古田富保。古田には、明石海峡大橋との並々ならぬ因縁があった。
 
 古田は、神戸出身の父と淡路島出身の母という、まさに明石海峡を隔てて結ばれた両親の元に生まれた。両親は、大阪のダンスホールで偶然出会い恋に落ちたが、母・智永ちえには既に淡路島に許嫁がいた。父・勝己は、智永の両親を説得して結婚の許しを得るために、何度も淡路島に通った。
 
 小さな連絡船は激しい潮流で強く揺れ、勝己は船酔いで嘔吐を繰り返した。欠航も頻発し、船に乗るために3時間待つこともあった。それにめげずに島に通い、なんとか智永と結婚することができた。古田は、そんな両親の苦労を小さい頃から聞かされて育った。

 「いちばん苦労して行ったのは、うちの親父とお袋なので。それこそ大恋愛を、この明石海峡が隔てたわけですからね。私自身も、小さい頃に毎年母の実家の淡路島に連れて行かれて、船酔いで大変な目にあいました」

 そんな古田が明石海峡大橋のことを知ったのは、小学生のときだった。神戸にある父の実家に遊びに行き、海水浴を楽しんでいると、海岸に見慣れない鉄塔が立っていることに気付いた。あの原口忠次郎の構想を受け、明石海峡の風速を調査するために建てられた観測塔だった。
 
 「『あの塔は何?』と祖父に聞いたら、『あれは明石海峡大橋の観測塔だよ。世界一の橋がここに架かるんだぞ』と言われました。そして、原口忠次郎さんって方が『人生すべからく夢なくしてはかないません』と、夢を持てば橋も架かるんだと言って尽力したことも教えられました。幼心に、すごいことを考える人がいるもんだなあと感銘を受けました。その祖父も、『早く橋ができれば便利になるのに』としょっちゅう言っていましたね」
 
 両親、そして祖父母が待ち望んでいる「夢の架け橋」を、自分の手で架けたい。それが、古田自身の夢になった。

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