小泉今日子をヒットさせた田村充義が語る!アイドルポップスじゃなく新しいものを作りたい
連載【ザ・プロデューサーズ】vol.5
田村充義 / 小泉今日子
小泉今日子をプロデュースした田村充義
新しいスターが生まれる時、そのバックステージにはドラマがある。
これは、エンタメ界において、稀代の新人を数多く輩出した「黄金の6年間」(1978〜83年)を舞台裏から支えた、時代の証言者たちの物語である。そう、ザ・プロデューサーズ―― 彼らの軌跡を辿ることは、決して昔話ではない。今や音楽は “サブスク” なる新たなステージへ移行し、人々はあらゆる時代の音楽に等距離でアクセスできるようになった。温故知新―― この物語は、今を生きる音楽人にとって、時に未来への地図となる。
『ザ・プロデューサーズ』第5回は、80年代のアイドル界において、“聖子・明菜” の2強に割って入った、いわば “第3の女” ――小泉今日子さんをプロデュースした、ビクター音楽産業(当時)の田村充義さんを取り上げる。デビュー当初、あまり目立たなかった少女は、2年目に自ら髪を切って覚醒。以後、独自のポジションを築いて唯一無二の存在になった。そのキッカケを作った5枚目のシングル「まっ赤な女の子」から2代目ディレクターとして小泉さんを牽引したのが田村さんである。今回は、覚醒の2年目から飛躍の3年目に至る〈前編〉をお届けする。
なお、本記事はSpotifyのポッドキャストで独占配信された「Re:mind 80’s - 黄金の6年間 1978-1983」を編集したものである(聞き手:太田秀樹 / 構成:指南役)。
お前、ちょっと、小泉今日子さんの担当やれないか
―― 田村さん、小泉今日子さんの2代目ディレクターなんですよね。そのあたりの経緯を。
当時、僕のいたビクター音楽産業(現:ビクターエンタテインメント)の組織が改変されて、それまで演歌、ポップス、ロックみたいに分かれていた部署が、1982年に1つのセクションに統合されたんです。まぁ、レコード会社って、その時々の社長さんの意向で、部署をくっつけたり離したり、よくあるんです。それまで僕は、高垣さん(高垣健。サザンオールスターズを発掘)とも違う、ロックのセクションにいて、『東京ニュー・ウェイヴ ‘79』というライブアルバムを出したり、それからスペクトラムをやって、コスミック・インベンションをやって、山田邦子さんをやって… それが70年代末から80年代アタマにかけて。それが、いきなりビクターの主流の『スター誕生!』出身の方々と一緒になって… 。
―― スター誕生。
それこそ、岩崎宏美さんや石野真子さんや桜田淳子さんらがいらしたり… そういうメインストリームの皆さんと同じセクションにまとめられて。それが82年の末でしたね。そこで、当時の飯田部長(飯田久彦氏。元歌手で、愛称はチャコ)に呼び出されて、「お前、ちょっと、小泉今日子さんの担当やれないか」って突然、言われて……。
―― 会社の辞令。
そうです(笑)。劇的でもなんでもなく、普通に。
今どきのアイドルの方って、こんなにしっかりしているんだ
―― 小泉さんとは、そこから初めてお会いしたんですか。
いや、その前に一度会ってました。というか、僕が一方的に覚えてるんですが、前の部署にいたとき、たまたま桜田淳子さんの最後のほうのシングルとアルバムに関わったことがあって。それで桜田さんが『スター誕生!』(日本テレビ系)にゲスト出演した際に一度、後楽園ホールまで見に行ったんですよ。その時、楽屋が小泉さんと一緒で。
―― 大部屋?
いえ、2人だけです。多分、番組側としてはビクター同士だから… くらいの配慮だったと思います。それで桜田さんにご挨拶に伺うと、彼女には当然、事務所のマネージャーさんが付いてらして。でも、小泉さんは1人。その時、たまたま取材の方が現れて、小泉さん、マネージャーの名前を言って、“今、席を外しておりますので、しばらくお待ちください” と、すごくスマートな対応をされて。
―― 礼儀正しい。
僕、何も先入観がなかったから、結構びっくりして。今どきのアイドルの方って、こんなにしっかりしているんだって… 。
―― 当時、確か16歳。
そう。デビューして2曲目の林寛子さんのカバー曲(素敵なラブリーボーイ)をやってらっしゃった頃です。普通にきちんとしている人なんだなぁって。それが彼女と初めて会った時の第一印象です。
―― そこから5枚目のシングル「まっ赤な女の子」をリリース。
まず、その前に、普通に音楽の話をしました。 “普段、何を聴いてる?” とか “どんなジャンルが好きなの?” みたいな。当時、僕が30かそこらで、彼女が16なので、そこはフランクに。すると “シャネルズが好き” とか “こんな音楽をよく聴いてる〜” とか、割とノって話してくれまして。あぁ、これなら、僕が今までやってきたようなスタイルで、何か新しくて面白いことを仕掛けても大丈夫かなって。それが出発点でしたね。
“ヨシオくん” “ワルオくん” “フツオくん” の構図をアイドルの世界に当てはめると
―― 新しくて面白いこと。
それと、もう一つ。当時、僕は漠然と “日本人って昔から “3人” が好きだよなぁ” と思ってまして。三人娘とか御三家とか。さかのぼると、アイドル第1期と言われる70年代だと、南沙織さん、小柳ルミ子さん、天地真理さんが三人娘。一方、男性陣は、郷ひろみさん、西城秀樹さん、野口五郎さんが新・御三家。その前だと、橋幸夫さんと西郷輝彦さんと舟木一夫さんが御三家。もっとさかのぼると、美空ひばりさん、江利チエミさん、雪村いづみさんの三人娘と、まぁ、つくづく3人のキャラクター分けが好きな国民性だなぁって。これって、両極端の2つの選択肢で意見を戦わせるより、3つくらい選択肢があったほうが、日本人は平和で好きなのかなぁって。
―― 面白い理論です(笑)。
そんなことをツラツラと考えていたら、ふと、当時人気を博していたテレビ番組の『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(フジテレビ系)に行きつきまして。あの番組の “ヨシオくん、ワルオくん、フツオくん” の構図をアイドルの世界に当てはめると、小泉さんは誰に相当するだろう、と。まず、松田聖子さんは見るからにアイドルの優等生だからヨシオくん。それに対して中森明菜さんはちょっとツッパリの要素も含んでいるので、ワルオくん。となると、やっぱり小泉さんにはフツオくん…… 普通の子の場所が空いてるのかなぁと。
―― 普通の子。
それまで小泉さんはアイドルとしては、いいところ5番手くらいの位置にいました。ただ、僕が担当になったからには、これを3番手くらいに引き上げたかった。上のお2人―― 聖子さんと明菜さんはなかなか抜けないと思ったので(笑)。そのためには、まずは “3人" という枠に入れさせていただこうと。
―― アイドル界の天下三分の計。諸葛孔明みたいな話です。
問題は “普通の子” をどう表現するか。単に “普通” と言っても、ちょっと語弊があるじゃないですか。例えば、メディアが今、普通の高校生の生活を取り上げてくれるかと言ったら、そんなことはなくて、やっぱりZ世代の子がどうだとか、そっちの話になってしまう。普通の中でも、ちょっと極端だとか、変わっていたり、尖っていたりすることを見つけようとする。
―― ひと口に “普通” と言っても難しい。
そう、言葉通りの “普通” じゃ面白くない。普通を表現するにも、尖って見えないと意味がない。ただ、相対的な話になりますが、僕らが知らず知らずのうちに受け入れているアイドルの普通と、一般の高校生の普通との間にギャップがあるとしたら、それを際立たせるのも1つの戦略かな、と。
―― 具体的には?
図らずも、これは小泉さん自身が決断してやられたことですが、83年の早いタイミングで、彼女は自らの意志で髪を切って、ショートにします。普通の高校生なら、髪を切るなんて “普通” のことです。でも、アイドルの世界は違う。いろいろ、事務所の戦略とかある。髪型ひとつとっても、大人たちと相談して決めるのが普通です。その意味で、図らずも小泉さん自身が “普通” のヒントをくれたような気がします。
今、CMに出てくれる女の子を探してるけど、いいコ知らない?
―― あのショートは、当時、かなり騒がれましたね。
自らの意志で髪を切る。普通の高校生にしてみれば、なんてことないことでも、アイドルがやると事件になる。それまで芸能界で当たり前とされてきた慣習に、小泉さんが “普通” を持ち込むことでハレーションが起きれば、それは “普通の子” ――小泉今日子のキャラクターを立たせる戦略としては成功です。
―― 目から鱗が落ちました。
実は、「まっ赤な女の子」を出す前に、僕が小泉さんと最初にやった仕事がCMだったんです。それが、ちょうど彼女が髪を切ったタイミングで。当時、ビクターは原宿のピアザビルに入ってて、よく昼休みに近くのセントラルアパートの福禄寿飯店で中華を食べたり、横の喫茶店でインベーダーゲームをやってると、たまに糸井重里さんと鉢合わせしたんです。
―― 80年代のセントラルアパートは、糸井さんらコピーライターとか写真家とか編集者とか、最先端の文化人が事務所を構えてましたね。
糸井さんは、82年にNHK教育テレビ(現:Eテレ)で『YOU』の司会を始められて、もうすっかりスターでした(笑)。僕は前に山田邦子さんのアルバムを作った時に、糸井さんに作詞をお願いしたことがあって、それが縁で時々事務所に遊びに行ってたんです。ある日 “今、CMに出てくれる女の子を探してるけど、いいコ知らない?” って聞かれて、それが、斉藤慶子さんが一躍ブレイクした、日刊アルバイトニュースのCMの続編。
―― 牛が登場した……
そうです、そうです。“人間だったらよかったのに” のアレ。これはチャンスかもと “今度、小泉今日子ってコを担当するんですけど、どうですか” って資料を見せたら、糸井さん “よさそうだね。でも、予算ないよ” って。それで “事務所に聞いてみます” と、事務所に行って話をしたら “あぁ、わかったわかった、やるよ” って、社長が即決(笑)。
―― 社長自ら。
当時、マネージャーさん、あまりいらっしゃらなくて…。とにもかくにも、CMが決まって。それは、前の斉藤慶子さんと同じく、基本、立っているだけで、台詞はなし。最後に無表情のアップになります。でも、斉藤さんがブレイクした直後だったので “誰?” と話題になって。その時点でショートだったので、パッと見で小泉さんとも分かりづらくて。結果的に、「まっ赤な女の子」を出す前のティーザー広告的な位置づけになって、大変よかったと思います。
どう “普通” をアップデートしていくか
―― “普通の子”、ご本人はどう思われていたんですか。
実は、面と向かって話したことはなかったんです。あくまで僕の中で思い描いていた戦略だったので。ただ、その頃『GORO』(小学館)って雑誌から一度インタビューを受けて、そんな “良い子悪い子普通の子” の話をしたんです。すると、休みの日だったかな、小泉さんがたまたまピアザビルに遊びに来て、その『GORO』を見つけて、件の記事を読み始めて… “これ、田村さんが考えたの?” って。 “ああ、そうだよ” って答えたら、クスって笑ってくれて。だから、ちゃんと認識したのは、そのタイミングでしょうね。雑誌を介してですが(笑)。
―― 自らショートにしたり、もともと小泉さんご自身に “普通” の感覚が備わっていた気がします。
あとは、時代の変化に合わせて、どう “普通” をアップデートしていくか。振り返ると、小泉さんの80年代は、その時々でアイドルの世界に “普通” を持ち込むことで、世間をあっと言わせた軌跡だったと思います。例えば、自分のことを苗字で “コイズミ” と呼び始めたり… 。
―― 当時、ちょっとカッコよく見えました(笑)。
ただ、今のアイドルのコたちは普通にやっているので、すっかりスタンダードになりましたね。結局、時代もどんどんアップデートしているので、常にその半歩先を見て、今、どんな “普通” をぶつけたら面白いのか、カッコいいのか。小泉さんは、その嗅覚が特に優れていました。もちろん、歌やお芝居といったベースがあっての話ですが。気が付いたら、聖子さん、明菜さんに次ぐ “第3の女” のポジションに…。
先生、小泉今日子さんで何か新しいことができないでしょうか?
―― その出発点が「まっ赤な女の子」だったと。
ようやく楽曲の話になりました(笑)。当時、担当に付いて初めてのシングルだったので、とにかく、これまでのイメージを変えたいという一心でした。それこそアイドルポップという枠すら超えて、最先端の音楽を作ってやるくらいの気持ちで… 。
―― 作曲は、歌謡曲の大御所 、筒美京平先生です。
実は僕、この世界に入った目的の半分は、筒美京平先生と作品でご一緒することだったんです。だから、いの一番でお願いにあがりました。“先生、小泉今日子さんで何か新しいことができないでしょうか” って。ただ、ご存じの通り、先生はレジェンド級のヒットメーカー。常に依頼が殺到してて、各レコード会社とも順番待ちだったんです。
―― 言わずもがな。
そうでなくても、我がビクターでも、松本伊代さんがデビュー曲の「センチメンタルジャーニー」から4作連続で京平先生に書いて頂いて。あと、岩崎宏美さんという先生のお気に入りの方もいらして、そちらはアルバムも含めてずっと。先生は各レコード会社と平等にお付き合いをされていたので、ビクターはしばらくいいだろうという判断が働いてもおかしくなかった。それが、どういうワケか、いろいろな順番を飛び越えて、書いて頂けることになったんです。
―― ビギナーズラック。
もちろん、何か怪しい手を使ったワケではなく(笑)。1つ考えられるのは、僕がオーダーした “新しいことをやりたい” という言葉が、たまたま、その時の先生の琴線に触れたのかもしれません。というのも、おそらく他社さんは、スタンダードなポップスを求められたんでしょう。ところが先生も、たまには新しいことを試したいフェーズに入る。そのタイミングで、運よく僕が声をかけさせてもらったと…。
――ありそうな話です。
これは有名な話ですが、京平先生はとても研究熱心な方で、毎月20枚ほどの輸入盤のアルバムを購入しては、全部チェックされていました。気に入った曲があれば、ジャケットの裏にこうペンでマークを付けて。そんな風に、常に国内外の最新の音楽にアンテナを張って、積極的にご自身の創作活動に活かされてましたね。だから長きに渡って、日本の歌謡界の第一線でご活躍できたんです。
アレンジは佐久間くんでどうだろう?
――「まっ赤な女の子」はテクノ調でした。
そういうことです。あの時代、新しいものを作るとなったら、当然 “テクノ” という選択肢が入ってきました。80年にYMOがブレイクして、国内外に様々な形で影響を及ぼしました。当然、それは京平先生のプランの中にもあって、それで先生から “アレンジは佐久間くんでどうだろう?” と提案があって。
―― 佐久間正英さん。音楽プロデューサーとして長く活躍されました。
80年代の京平先生は、既に編曲は自分でされないフェーズに入っていて、代わりに、新しいアレンジャーの方を積極的に起用するようになっていました。伝説的テクノポップバンド “プラスチックス” の元キーボディストにして、シンセサイザーの名手である佐久間さんの起用は、先生なりに “新しいこと” への意思表示だったと思います。
―― 佐久間さんと言えば、プラスチックスの前にロックバンド “四人囃子” でも活躍された方。
そういえば、奇しくも同じ時期に、82年組の同期の早見優さんが「夏色のナンシー」をリリースされるんですが、そちらも筒美京平さんの作曲で、編曲はその四人囃子の元メンバーの茂木由多加さんでした。不思議な縁です。
―― 同じ作曲家で、歌い手とアレンジャーがライバル同士…
まぁ、本人たちにそんな意識はなかったと思いますが…。ただ、個人的にはランキングで抜けなかったのがすごく悔しい(笑)。「夏色のナンシー」、いい曲ですよねぇ。
作詞は、若手のホープ康珍化
――「まっ赤な女の子」の作詞は、康珍化(かん ちんふぁ)さんです。
当時、次々と面白い詞を書かれて、若手のホープという感じでした。京平先生と話していて、どうせなら作詞家も新しい人がいいだろうと。それで、ヒットがちょっと出始めたくらいの若い方で探してたら、ちょうど康珍化さんと秋元康さんがいらっしゃって。秋元さんは81年に稲垣潤一さんに「ドラマティック・レイン」を書いて、とても素敵な詞を書かれる方だなぁと思ってました。それでお二人に書いてもらおうと…。
―― 競作ですか?
いえ、そうではなくて、京平先生、意外と “詞先” で欲しがる方で。まず、お二人にフリーハンドで詞を書いていただいて、それを見て、それぞれ曲をつけましょう、と。どちらも甲乙つけがたい出来栄えでしたが、結局、秋元さんが書かれた「午後のヒルサイドテラス」がB面になって、康珍化さんの「まっ赤な女の子」がA面に。
―― 決め手はなんだったんですか。
まず、タイトルが極めてコピー的で。詞の世界観もすごくキャッチーで面白かった。ご存知の通り、80年代は糸井重里さんや仲畑貴志さんらに代表されるコピーライターの時代。新しいものを求めると、当然その要素も入れたくなります。康珍化さんの詞って、どこか広告的なんですよ。と思ってたら、もともとCMの制作プロダクションにおられた方なんですね。
―― テクノとコピーの時代。
そうです。康珍化さんの詞のほうがテクノと合うんじゃないかと思って。それで京平先生に提案したら、先生 “わかった、わかった” って、詞のいいところだけつまんで、曲をつけていただいて。完成した詞を見た康珍化さん、自分の詞が3分の1くらい削られてショックを受けてました(笑)。ただ、曲が乗ると、贅肉がそぎ落とされたように軽快なポップに仕上がってて “大変勉強になりました” と、今度は一転、先生に感謝。
新しい要素が満載の「まっ赤な女の子」
―― “ヴォコーダー” を取り入れた佐久間さんのアレンジも最高でした。
あの頃、日本でいうとYMOだし、世界的にいうと、スティクスの「ミスター・ロボット」とか、10cc(テンシーシー)の「アイム・ノット・イン・ラヴ」とか、そういう声に効果を入れるのが流行っていて、佐久間さんにスタジオにシンセサイザーを持ち込んでもらって、作っていただきました。とにかくいろいろ新しいことを試みて、そういうのが合わさってできたのが「まっ赤な女の子」でしたね。
―― 新しい要素が満載。
先にも申し上げましたが、僕は可愛いアイドルポップスを作る気はなくて、とにかく新しいものを作りたかった。
―― 京平先生はレコーディングに立ち会われたんですか。
はい。実は先生、歌い手の声に一番興味がある方なので(笑)。「まっ赤な女の子」は歌い方も実験的で、サビのところで「♪女の子」の “子” の一文字だけ突然ワンオクターブ飛んだり、最後はこうしようと提案して頂いたり、最初のレコーディングで “このコはどこまで出来るんだろう” と、いろいろ試されたのを覚えています。先生が仕事を受けてくれたのは、あるいは小泉さんの声の魅力に気づいたからかもしれません。また、小泉さんもこの時期、先生の指導を受けて、歌い方のコツみたいなものをどんどん習得されました。
―― 小泉さんが歌番組で歌われる衣装も固定ではなく、赤を基調に、毎回コーディネートされていたのも新鮮でした。
オシャレでしたね。ステージ衣装というより、普段着の延長っぽくて。図らずも、あれも “普通の子” が上手にアウトプットされた一例だと思います。小泉さんのセンスもあったのでしょう。
「半分少女」から「まっ赤な女の子」に繋がるほうが自然
―― 個人的に気になったのは、そんな全てが新しい「まっ赤な女の子」の次が、比較的オーソドックスな「半分少女」だったこと。当時、ちょっと逆戻りした印象も受けました。
「半分少女」に関しては、「まっ赤な女の子」ができたかできないか… くらいのタイミングで、先生が “こんなのもあって、こっちのほうが路線的には繋がるんじゃない” って、聴かせていただいたのが、発端です。確かに、流れでいうと、「半分少女」から「まっ赤な女の子」に繋がるほうが自然。ただ、僕としてはせっかく担当変わったんだし、ご本人も髪を切って新しいイメージになってるので “まずは新しいほうでやらせてください” と。
―― なるほど。
で、そのあとに「半分少女」をレコーディングして。それが僕にとってのセカンドシングル(デビュー通算6作目)になりました。というのも、当時のアイドルは年4枚シングル出さなくてはいけなくて、3月デビューだと3、6、9、12。それに、オリジナルアルバム2枚に、企画盤1枚というのが、当時の年間のスケジュール感でした。だから、とにかく作品を作らないといけない。ましてや、当時のレコード会社の編成会議は、リリースの3ヶ月前に行われたので、それまでに用意しないといけない。つまり、前作の結果が出る前です。それと、自分で新しいことを仕掛けておいてアレですが、「まっ赤な女の子」… 失敗するかもしれないじゃないですか。
―― ある種の保険?
まぁ、「半分少女」だと大きくコケることはなく、ある程度、着地点が見えたのは事実です。そりゃ、ありなしで言えば、断然あったほうがいい。
―― 作詞は、和製ポップスの大御所の橋本淳さんです。
これは、京平先生の曲ができた時点で、いったん上司の飯田部長に報告したんです。そしたら “淳さんでいいかな” って。前作から一転、これまた歌謡界のレジェンドです(笑)。かつて、京平先生とのコンビで、いしだあゆみさんの大ヒット曲「ブルーライト・ヨコハマ」を書かれた方。レコーディングの際、なるべく態度には出さないでおこうと心がけましたが、淳さんがスタジオに来られた時は、もう京平先生以上に緊張しましたね。
―― フォローするわけではありませんが、改めて聴くと「半分少女」、いい曲です。
当時、テレビ局に行くと、馴染みのスタッフから “「まっ赤な女の子」がまだ売れてるのに、もう次を出すんだ” とか言われましたけど、結果的に「半分少女」はチャートで前作を上回ってくれて、本当に出してよかった。
「渚のはいから人魚」でオリコン1位を獲得
―― 話は84年に飛びますが、9枚目のシングル「渚のはいから人魚」で、小泉さんは念願のオリコン1位を獲得します。そこから快進撃が始まって、「迷宮のアンドローラ」「ヤマトナデシコ七変化」「The Stardust Memory」と、出す曲、出す曲、すべて1位……。
「渚のはいから人魚」で、当初こちらがやりたかったことが、大体できたという印象があります。何となく “型” というか、“ポジショニング” みたいなものが1つできたかなって。ただ、気をつけないといけないのは、そうやって1つの場所に安住していると、いつか必ず飽きられます。逆にいい時ほど、キープコンセプトじゃなくて、その “余力” を生かして、色々なタイプの曲をやっておかないといけない。84年は、逆にそんな危機感を感じてやってましたね。
―― 危機感。
当時、いわゆるアイドルの寿命は7年って言われたんです。南沙織さんがアイドル1号だとしたら、デビューから引退までが7年。同様に、山口百恵さんも7年です。当時の風潮が、アイドルとしての潮時を迎えたら、役者に転向して延命するというパターン。そんな芸能界の常識を破ったのが、松田聖子さんでした。結婚・出産を経て、復帰してからも歌の世界で1位を取られ、今も第一線で活躍されてます。で、小泉さんですが、こちらとしては、まずは7年を目標に頑張ろうと。ただ、そのためには、同じ作風1本ではもたない。1つのキャラクターを作ったら、そうじゃないキャラクターも模索しないといけない。シンプルに言うと、アップテンポとミディアムとスローバラードの3パターンくらいの顔を持たないと、延命は難しい。
小泉今日子80年代のシングルで最大セールスを記録した「迷宮のアンドローラ」
―― なるほど。「迷宮のアンドローラ」はどういうアプローチを?
ご承知の通り、「渚のはいから人魚」で1つの世界観ができたので、次のステージに移行したいという思いが先行してありました。さて、どうしよう… となったときに、国際的イラストレーターの長岡秀星さんの『迷宮のアンドローラ』っていう画集が出て、そこのタイアップが決まったんです。その頃、フリーで活動されていた長嶋茂雄さんがプロデューサーになって… という、割と大掛かりな企画。
―― まさかの長嶋茂雄さん。
長岡秀星さんは当時、アース・ウィンド・アンド・ファイアーのレコードジャケットを描いたりと、国際的に活躍された方。イラストのテーマ性というか、世界観が明確だったので “あ、これ、ちょうどいいな” とタイアップに乗りました。他の方のイメージを借りて、小泉さんご本人も変われるし、全く違う趣向の作品ができるチャンスじゃないですか。そこで、いい機会と、初めて松本隆さんにお声がけしたんです。
―― 松本隆さんと言えば、松田聖子さんの楽曲を連想します。
普通はそうです。松本隆さんは聖子さんとずっと一緒にやられているので、こちらとしても、なかなかお願いしにくいポジションでした。ただ、今回のように企画ものなら、比較的受けやすいんじゃないかって。それに、もう何年も聖子さんとやられて、そろそろ違うことをやりたいタイミングじゃないかという下心も(笑)。一方で、作曲は筒美京平先生にお願いしたので、筒美先生と松本隆さんと言えば数々のヒット曲を生んだ名コンビ。先方にとっても悪くない話のはず。そんな様々な思いを含んでお願いしたところ、快くお受けいただきました。
―― 松本隆さんも、企画ものなら差別化できると思われたんでしょうね。
先ほど僕がこの世界に入った目的の半分は筒美京平先生と言いましたが、あとの半分は “はっぴいえんど” の人たちなんです。
―― 念願が叶った。
実は、前の部署で担当していた山田邦子さんとか、コスミック・インベンションの作品で、既に大滝詠一さん、細野晴臣さん、鈴木茂さんの3人とはご一緒してたんです。そして今回の松本隆さんで、晴れて4人とお仕事ができて、感無量でしたね。
―― アレンジは船山基紀さん。
船山さんは僕の大学の1年先輩で、早くからアレンジャーとして活躍されてましたが、一度ロスへ移住して、いつかご一緒したいとずっと思っていました。それが帰国されて、しかも最新のシンセサイザーの “フェアライト” を導入されて、この機会に最新のサウンドを試してみたいと。
―― 当時、日本に数台しかなかったフェアライト。
お陰様で、念願の方々とご一緒出来て、「迷宮のアンドローラ」は、80年代の小泉さんのシングルで最大セールスを記録しました。だから、いい思い出しかありませんね。あと、この作品で、ミュージックビデオも一緒に撮ったんです。撮影期間が2、3日しかなくて大変でしたが、本格的なMVが出来たと思います。機会があれば、見てください(笑)。
これまでの集大成「ヤマトナデシコ七変化」
―― その次が「ヤマトナデシコ七変化」。「まっ赤な女の子」と同じ筒美京平先生・康珍化さんの座組です。
「迷宮のアンドローラ」でちょっと違う世界観に行けて、ひょっとしたら女性の方も共感してくれる楽曲に仕上がったかも… という自負はありました。ただ、新しいことをするのと同じくらい、引き続き従来の世界観も大事にしたいので、地固めというか、これまでの集大成を京平先生でもう1回と、作ったのが「ヤマトナデシコ七変化」です。
――「まっ赤な女の子」から始まった大きな流れ。
はい。ただ、「渚のはいから人魚」は馬飼野康二さんの作曲だったので、京平先生にお願いすると、また別の集大成ができるんじゃないかなと。なので、本作とは別に、少し遅れて12インチシングル盤も出しました。おそらく、日本の音楽業界のメジャーフィールドでは初めてに近いチャレンジだったと思います。この時のアーティスト名義は “KYON2” です。
――出ました、KYON2。
そして、84年の最後を飾ったシングルが「The Stardust Memory」です。これは、小泉さんの主演映画『生徒諸君!』の主題歌と決まっていたので、映画のタイアップという意味合いでは、これまでテレビで小泉さんを見てきた方々以外の層にも見ていただけるかなと、もう少し幅広いターゲットに向けて座組を考えました。そこで、「メリーアン」や「星空のディスタンス」でブレイク中のALFEE(現:THE ALFEE)の高見沢俊彦さんにお願いして、書いてもらいました。
最大の脅威は「夕やけニャンニャン」
―― そんな飛躍の84年を経て、85年を迎えます。
この年は、新しい方々が登場して、ある意味、脅威の年でした。最大の脅威が、4月にフジテレビで始まった『夕やけニャンニャン』です。なんか、こうスター然としたアイドルじゃなくて、隣に住んでいるような、クラスにいるような素人の女の子たち。最初は物珍しさで見てましたが、だんだん人気が出てきて、そのうちソロも出し始めて、チャートもいいところに行き始めて、これはひょっとしたら、ひょっとするぞと…。
―― 何が脅威でした?
だって… “普通の女の子” って、こちらのコンセプトとダブるじゃないですか。
かくして、2年目に自ら髪を切って覚醒した小泉今日子さんは、2代目ディレクター田村充義さんと出会い、“普通の女の子” のポジションを得てブレイク。聖子・明菜の2強に割って入る “第3の女” の地位を得た。ところが85年、新たな脅威が彼女に忍び寄る。それは、同様に “普通の女の子” を売りとする、素人の女の子たちのグループ――。後編は、起死回生とばかり、あっと驚く秘策を繰り出す田村流プロデュース術を語り尽くす。
参考図書:
* 別冊太陽スペシャル『小泉今日子 そして、今日のわたし』(平凡社)