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6年ぶりの鹿踊り・手踊りで橋野に活気 瀧澤神社例大祭 住民、縁故者 地域の良さ実感

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 釜石市橋野町の瀧澤神社の例大祭が7月27日、6年ぶりに盛大に行われた。橋野鹿踊り・手踊り保存会(菊池郁夫会長)が神社で踊りを奉納したほか、町内2カ所でも披露。久しぶりのお囃子(はやし)や華やかな踊りに、町内外から訪れた見物客がうれしそうに見入った。人口減や少子化などで地域の伝統継承が難しくなっている昨今。同地域も例外ではないが、住民らは力を合わせ、次世代への確実な継承に励む。

 同神社の例大祭は7月下旬に行われる。郷土芸能の奉納を伴って盛大に行われるのは約3年に一度。今回はコロナ禍による休止を経て、2019年以来の開催となった。始めに里宮から約2キロ離れた山中にある奥の院で神事が行われ、総代ら関係者約10人が祈りをささげたほか、鹿踊りが奉納された。

沢桧川沿いに建つ瀧澤神社奥の院で祈りをささげる神社総代ら


奥の院を訪れた橋野鹿踊り・手踊り保存会。祠の前で踊った


里宮拝殿では来賓を含む関係者13人が玉串をささげた。


 里宮の拝殿では来賓を含めた13人が参列して神事が行われ、玉串をささげて五穀豊穣、地域の安寧などを祈った。境内では同保存会の女性23人が古くから受け継がれる3種の「豊年踊り」を披露。集まった見物客から盛んな拍手を受けた。踊りには地元住民のほか、同町出身で他地域に暮らす人たちも協力した。

 保存会役員の伊藤千鶴子さん(56)は「みんなで声掛けした結果、世話人を含め30人近い人たちが集まってくれた」と感謝。「祭りは心の活力を生み、地域に元気を与えてくれる。人と人とのつながりも一層深まる」と意義を強調。伝統芸能の継承には課題もあるが、「祭りに向けての練習だけでなく、月に1回集まり踊りやお茶っこを楽しむ手踊りクラブみたいなものもできれば」と今後に考えを巡らせた。

橋野町出身者も協力し、踊りの輪を作った手踊り


次世代を担う子どもたちもかわいらしい浴衣姿で参加


6年ぶりに華やかな光景が広がった神社境内。昔ながらの祭り囃子が響く


 橋野鹿踊りには32人が参加し、「館褒め」から「礼踏み」まで一連の7演目を披露した。同地域の鹿踊りは江戸時代末期、現在の遠野市附馬牛町東禅寺から指導者を招き、稽古したのが始まりとされる。今年7月の「橋野鉄鉱山」世界遺産登録10周年イベントでも踊りを披露した。

 鹿頭を身に付けて踊る伊藤和也さん(40)は暑い中での踊りを終え、「疲れるが、踊った後はすがすがしい気持ちになる」と笑顔。祭りでの披露は「普段顔を見ない人たちも出てきて楽しんでくれる。祭りはなくてはならないもの」と実感。こちらも担い手不足は顕著で、地域出身者の参加は大きな力。「新たにやってみたい」という声も聞いており、仲間が増えることを願う。

子踊りの先導で鹿が入場。橋野鹿踊りの奉納


刀振りと鹿の掛け合いも見どころの一つ「側踊り」


子踊りの子どもたちも躍動。さまざまな踊りを覚え、頑張りました!


 同神社総代長の小笠原孝一さん(76)によると、古くは神社境内に土俵があり、祭りの際に栗橋地域の若者たちが相撲を取って盛り上げていたこともあったという。小笠原さんは「私たちの年代が小学校の頃は夜店が連なるなど、祭りは大変なにぎわいだった」と懐かしんだ。

瀧澤神社に祭られる「不動明王像」 文化財的価値に注目 元県立博物館学芸員が地元住民に講演


不動明王の縁日6月28日に開かれた講演会。佐々木勝宏さん(左)が講師を務めた


 瀧澤神社の里宮と奥の院には「不動明王像」が祭られている。「なぜ、神社に仏像があるのか?」。そのルーツをたどる講演会が6月下旬に橋野ふれあいセンターで開かれた。講師を務めたのは元岩手県立博物館主任専門学芸員の佐々木勝宏さん(63)。地域住民ら約50人が、その歴史と文化財としての価値に理解を深めた。

 遠野物語拾遺33「鮫の参拝」の伝説が残り、2007年には周辺の沢桧川の景観とともに市指定文化財となった瀧澤神社奥の院。滝つぼに接する巨大な崖の上に建つ祠(ほこら)には、ご神体に見立てた不動明王立像(石像)が祭られる。近くには地元住民が水神様として崇拝する小さな祠があり、中には同座像(同)が安置される。佐々木さんによると、同座像は鎌倉時代、同立像は室町時代に制作されたものとみられるという。

1995年に「岩手の景観賞」を受賞した瀧澤神社奥の院周辺。沢桧川の清流が木々の緑と相まって絶景を生み出している。2007年には名勝として市指定文化財になった


巨大な崖の上に建つ奥の院の祠。写真右下は水神様の祠


 同神社の里宮は橋野町沢地区の高台にある。本殿にある不動三尊像(木像)は、中央に不動明王(座像)、左に制叱迦童子(せいたかどうじ)、右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)が据えられたもの。これらの像は江戸時代の1795(寛政7)年に、先祖が橋野で大槌生まれの兄弟僧侶、秀井慈泉(菊池佐兵衛)と佛眼祖睛(弟・武助)が親族らから金を集め、京都の仏師が作った像を奉納したものだという。神社を管理する別当の菊池康二さん(56)宅には、寄付者10人の名前などが記された寄付状が受け継がれる。

瀧澤神社里宮本殿(左)に祭られている不動三尊像(右)。現在、京都で修復作業中


不動三尊像購入に協力した人たちの名前などが記されている寄付状に見入る


 では、なぜ神社に仏像なのか? それには奈良時代から続いた「神仏習合」が関係する。日本では古くに神道と仏教が融合し、一つの信仰対象となる独自の宗教文化があった。これにより神と仏は同一視され、同じ社で崇拝されるが、明治時代になると「神仏分離令」が出され、仏像の破壊運動などが起こる。佐々木さんは「目に留まって壊されないよう、当時の人たちは不動明王像をご神体として人に見せないようにしたと考えられる。もともと“沢の不動尊”としてきた場所も瀧澤神社として神社の形式をとったのではないか。自分たちの信仰を守るための知恵」と話す。

 慈泉、祖睛兄弟は、江戸時代の橋野村の肝いり古里嘉惣治のひ孫。嘉惣治は地頭の厳しい取り立てで極度に苦しめられていた村人を助けるため、1674(延宝2)年、老名(肝いりの相談役)小屋野十三郎とともに南部藩主に直訴。村人は救われたが、2人は処刑された。佐々木さんは「研究者の文献では、像の奉納は嘉惣治の追善供養のためとあるが、それだけではなく、橋野の人たちの守り神として祭ったのではないか」との見解も示した。嘉惣治の直訴は藩の家老が記した雑書にも記録があるが、地元で伝わっている話と異なる部分もあり、佐々木さんはその理由についても解説した。

橋野町荻の洞にある「古里嘉惣治、小屋野十三郎三百年忌の大碑」。1964(昭和39)年建立。地元では50年ごとに2人の追善供養が行われている


 佐々木さんによると、里宮の不動三尊像は制作地や年代が判明していることから文化財としての価値も高いという。長い年月の中で素人による色の塗り直しなどがあり、本来の姿を取り戻すため、佐々木さんが中心となって京都の専門業者に修復を依頼。現在、作業が進行中だという。

 別当の菊池さんは、2023年に亡くなった母ヨシヱさん(享年92)が望んでいた像の修復が実現したことに深く感謝。「母は信仰心がとても強く、神社のことを一生懸命やっていた。像修復の夢がかなって安心しているだろう。自分も改めてその歴史を知り、しっかり守っていかねばとの思いを強くした」と話した。

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