【豊臣秀次切腹事件の裏側】武将たちが誓った「起請文」から浮かび上がる忠誠と裏切り
政治や戦争の重要な局面で交わされた「起請文(きしょうもん)」。
神仏に誓いをたて、この約束を破った場合は神罰や仏罰をいとわないと宣言する、当時では重要な文書だった。
戦国武将たちが交わした多くの起請文は現存しており、貴重な史料となっている。
今回は「豊臣秀次事件」に関連して作成された起請文について掘り下げていきたい。
この事件において、当時の武将たちは何を神仏に誓い、どのような決意を示したのだろうか。
起請文とは?
起請文(きしょうもん)とは、物事の取り決めや自身の潔白を証明する際に作成された文書である。
誓紙(せいし)ともいう。
まず「前書(誓約内容)」を白紙に記し、次に「神文(神仏の名)」を「牛玉紙(ごおうし)」と呼ばれる護符の裏に記載する。そして、この二つを貼り合わせるという形式が、戦国時代の起請文には多くみられる。
「牛玉紙」は寺社で発行される。
有名なのは熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)のものだ。これを熊野比丘尼という女性たちが諸国をまわって配布していた。
また、「神文」には誓いを守るために自身が信仰する神仏の名を連ねた。
例えば「梵天・帝釈・四天王…」といった具合である。
そしてその末尾には「この誓いを破った場合、神仏の罰を受ける」という文言が記され、誓約の厳粛さが強調された。
秀次事件と起請文
豊臣秀吉の後継者として、関白の地位にあった甥・豊臣秀次。
しかし、秀吉に実子である秀頼が誕生すると、その立場が一転して悪化した。
秀次に突如として謀反の疑いがかけられたのだ。
秀次は潔白を証明するために、7枚継ぎの起請文を提出した。これは、神仏に誓いを立て、反逆の意図がないことを示すものであった。
しかし、起請文が受け入れられることはなく、秀次には高野山で謹慎するよう命じられた。
この頃から、大名たちの間で次々と起請文が取り交わされ、政権内部の動揺が広がっていたことがうかがえる。
最終的に秀次には切腹の命が下され、文禄4年(1595年)7月15日に自害を余儀なくされた。享年28。
さらには、秀次の妻子や侍女、乳母ら39名も斬首され、家老7名も切腹するなど、秀次に連なる者たちも悲劇の渦中に巻き込まれた。
家臣たちも多くが立場を失い、秀次の家系は完全に断絶させられた。
この一連の出来事は「秀次事件」と呼ばれ、豊臣政権の中枢に大きな波紋をもたらした。
増田長盛と石田三成の血判起請文
文禄4年(1595年)7月12日、秀次が切腹する3日前、増田長盛と石田三成は、連名で起請文を作成している。
この時期は、秀次がすでに高野山へ追放され、豊臣政権全体の信頼が揺らいでいた状況にあった。
二人の起請文は、秀吉・秀頼親子への忠誠を誓い、さらに秀吉が定めた法度を厳守することを明確に約束した内容となっている。起請文には両者の名前が記されただけでなく、花押と血判が添えられ、誓約の真摯さを示していた。
特に神文は約1300文字に及び、神仏への誓いの厳粛さが強調されたものとなっている。『※増田長盛・石田三成連署 血判起請文』
その後、他の大名たちも同様の形式で起請文を提出している。
前田利家の起請文
文禄4年7月20日、秀次の切腹から5日後、前田利家が豊臣奉行衆に宛てた傅役の起請文が残っている。
利家は秀吉の古くからの友人であり、秀吉は信頼できる者を秀頼の傅役(教育係)にしたいと考えた。
その結果、利家に白羽の矢が立ったのだ。
この選択には、巨大な力を有していた徳川家康と相対する位置に、利家を置く意味もあった。
利家は、以下の五箇条を誓っている。
1. 秀頼を自分の実子よりも大切にすること。
2. 諸事、秀吉の定めた決まりに従うこと。
3. 秀頼を粗略に扱い、秀吉の定めに背く者がいれば、相談の上で処罰すること。
4. 自分で判断できない場合は、秀吉が決めた者たちの意見を聞くこと。
5. 常に京に居住して秀頼に尽くし、勝手に帰国しないこと。
利家はこれらを誓い、起請文に血判を押した。
この起請文に誓ったことが守られていたためか、秀吉の死後も、利家の存命中には家康も目立った行動を控えた。『※前田利家血判起請文』
宇喜多秀家も豊臣秀頼に忠誠を誓う
文禄4年7月20日、前田利家が起請文を書いた同日、宇喜多秀家も起請文を作成していた。
宇喜多秀家は岡山城の城主であり、幼少期に豊臣秀吉の養子となっている。
また、秀吉の養女である豪姫を妻に迎えており、豊臣一門の一員としての地位を有していた。
秀家が書いた起請文の内容は、利家の起請文とほぼ同じ内容である。
秀吉にとって、秀家もまた信頼に値する大名であったことがうかがえる。
秀吉の死後、秀家は利家と共に五大老の一人として豊臣政権を支えた。
大名たち27人が誓った起請文
文禄4年7月、前田利家や宇喜多秀家らが起請文を提出した同日付で、27名の大名たちによる連署起請文も作成されている。
この起請文は政権側が作成した文案に基づき、各大名が署名し、花押と血判を加えたものである。
その内容は以下の通りである。
1. 秀頼への忠誠を誓うこと。
2. 秀吉の定めた法度を守ること。
3. 秀吉から受けた深い恩を、子孫に至るまで伝え、公儀に忠誠を尽くすこと。
4. 大名同士の争いが発生した場合、私的な不満を公儀に持ち込まず、まずは互いに相談し、その後に公儀の裁定に従うこと。
この起請文は、当時の豊臣政権の安定を図る重要な試みであった。
この起請文には、織田信雄、井伊直政、最上義光、長宗我部元親、立花宗茂、池田輝政、細川忠興、上杉景勝、徳川秀忠など27人の有力大名の名がずらりと書かれている。『※織田信雄等二十七名連署血判起請文』
朝鮮出兵中の武将たちも忠誠を誓う
秀次事件が起きた当時、多くの大名たちは朝鮮出兵の最中にあった。
しかし、事件の経緯や影響は彼らにも伝わっていたようだ。
当時、秀吉は秀次事件の心労からか倒れてしまっていた。
このような状況下で、朝鮮に在陣していた武将たちも起請文を作成している。日付は文禄4年(1595年)8月6日である。
1. 万が一、秀吉の身に不慮の事態が起こった場合、速やかに全員で帰参し、秀頼の御旨を仰ぎ奉公すること。
2. 署名者の中で私怨によって反抗する者があれば、残る者たちが一致団結し、その者を法度に従わせること。
この起請文に署名した武将は、加藤清正、小西行長、黒田長政など、計22名である。『※加藤清正等二十二名連署血判起請文』
おわりに
このように、秀次事件が起こった約一ヶ月の間に、多くの起請文が作成された。それだけ政権が揺らいでいたということでもある。
秀吉の死後も、多くの起請文が取り交わされている。
しかし、この神仏への誓いを最後まで守った者がどれほどいただろうか。
結局、これらの起請文の中で最も重要とされた秀頼への忠誠も、徳川家康の圧力には抗しきれなかった。大坂の陣において秀頼は自害し、豊臣家は滅亡してしまうのである。
参考:『戦国の祈り(大阪城天守閣)』他
文 / 草の実堂編集部