日本のギャル文化考察【1980年代後半】奔放に遊んでいた若い女性はバブルを経ておやじ化?
連載 日本のギャル文化考察 ③【1980年代後半】奔放に遊んでいた若い女性はバブルを経ておやじ化?
バブル経済はギャルのイメージをまた変える
橋本環奈が主演するNHK連続テレビ小説『おむすび』で描かれた “ギャル文化” は、主に1990年代後半から2000年代初頭に渋谷を発信源として広まったものである。しかし、ギャルという言葉自体はそれ以前から日本で使用されており、そのニュアンスやイメージは時代や状況に応じて変容してきた。
『おむすび』のギャルと、1980年代のギャルは全く別物だ。本連載では全5回にわたり、“ギャルと周辺文化史” を掘り下げていく。この第3回は、1980年代後半を取り上げる。日本がバブル期に突入し、ギャルが極端にステレオタイプ化された時代である。
ガールにはないギャル独自のニュアンス
1970年代後期、日本におけるギャルはガールとほぼ同義でありながらも、よりポップで新しい言葉として使われた。そして、ガールにはない、独特のニュアンスを持っていた。
① 今どきの若いアメリカ女性
アメリカのポップカルチャーを体現する、自由で洗練された若い女性像
② 性的な視点で商品化・消費された若い女性
メディアが作り出した性的な対象としての女性像
③ アクティブに生きる新しい時代の若い女性
従来の枠を超えて、積極的に活動する自立した女性像
ところが、日本のギャル文化考察【1980年代前期】トップアイドルの有名曲にギャルはなぜ登場しないのかで触れたように、1980年代に入ると①で使われることはほとんどなくなる一方で、新たに次のようなニュアンスが加わった。
④ 奔放に遊んでいる若い女性
メディアがイメージした享楽的な女性像
⑤ 性に積極的で不良性感度の高い若い女性
雑誌『GALS LIFE』が読者として想定する女性像
ギャルとツッパリ文化の決裂
上記のように⑤は雑誌『GALS LIFE』(主婦の友社)周辺に限定された。同誌は文字通り、ギャルの生活をテーマとしているが、そこでツッパリ文化をプッシュし、セクシュアルな要素を全面的に押し出していたのだ。ただし、その過激な方向性が社会的な問題として批判を招き、1984年には国会でも取り上げられる事態となった。これを受けて『GALS CITY』と改題し再出発を図ったが、「キミの男運、金運、SEX運」や「ボーイズ性感ゾーン」といった特集を組むなど、内容自体に大きな変化は見られなかった。結果的に雑誌名を変更した翌年には休刊に追い込まれる。これをもって、⑤“性に積極的で不良性感度の高い若い女性”というニュアンスはほぼ消滅する。
また、1980年代も半ばをすぎるとギャルという言葉自体が目新しさを失い、③“アクティブに生きる新しい時代の若い女性”というポジティブなニュアンスも薄れていった。結果、単なる “群像としての若い女性” を示す言葉のバリエーションの1つに置き換わっていく。たとえば、相撲ファンの若い女性を相撲ギャル、成人式を迎えた女性を成人式ギャルと表現するケースだ。こうして、ギャルは女性の主体性を欠いたまま、以下の3つのイメージに収束していった。
② 性的な視点で商品化・消費された若い女性
④ 奔放に遊んでいる若い女性
⑥ 群像としての若い女性
「CHA-CHA-CHA」は唯一最大のギャルソング
1986年7月にスタートしたTBS系テレビドラマ『男女7人夏物語』の主題歌、石井明美の「CHA-CHA-CHA」は、同年を象徴するヒット曲の1つである。この楽曲はイタリアのユニット、フィンツィ・コンティーニのカバーであり、日本語訳詞を音楽評論家でもある今野雄二が担当した。
注目すべきはその歌詞だ。「♪街で噂の 辛くち セクシー・ギャル」からの「♪甘い誘い はねつける スパイシー・ギャル」と、ギャルという言葉が妙に推されているのだ。なお、オリジナルの歌詞にはギャルという表現は一切なく、これらは今野雄二のオリジナルによるものだ。
円高対策で進められた金融緩和により、地価や株価が異常に高騰した好景気、バブル経済のスタートは1986年末とされるものの、“元祖トレンディドラマ” と評される『男女7人夏物語』の放送はそれ以前に始まっている。このことからバブル期が始まる前から既に世間にはバブル的なムードが漂っていたことがわかる。都市型ライフスタイル志向、高級志向、ブランド志向、リゾート志向、レジャー志向、恋愛志向といった価値観は、バブル以前より醸成されていたのである。
バブル前夜の「CHA-CHA-CHA」は、ギャルを言葉にして歌った1980年代後期の唯一最大のヒット曲である。歌詞に描かれるギャルは、当時の ④“奔放に遊んでいる若い女性”のイメージだ。「CHA-CHA-CHA」がデビュー曲となる石井明美が身につけた衣装は、黒を基調としたシンプルな配色で、素材やカッティングで存在感を示したスタイルだった。ボリュームのあるヘアスタイルや、大振りなアクセサリーなども特徴だ。この石井明美のファッションは、後年に “バブル期のギャルのファッション” としてステレオタイプ化されたものとは異なる。1986年の夏はまだ過渡期だったのだ。
「特捜最前線」も加担した性的ニュアンスの強化
前述のように、1980年代後期になると、ギャルという言葉は、②“性的な視点で商品化・消費された若い女性”や ④“奔放に遊んでいる若い女性”というニュアンスが一段と強くなった。当時は一般的にコンプライアンス意識やジェンダー平等の概念が欠如していた時代だったため、ギャルという言葉にさらに強烈なイメージが付加されていく。ディテールを説明しなくても、次に挙げるテレビドラマのサブタイトル、男性向け週刊誌の見出しから、その時代の雰囲気を感じ取ることができるだろう。
▶︎ テレビドラマ
『混浴露天風呂連続殺人シリーズ4』1985年11年23日放送(テレビ朝日系)
「女子大生秘湯ツアー連続殺人!上州路に消えたヌードギャル」
『特捜最前線』1986年9月25日放送(テレビ朝日系)
「鉢植の墓標・風俗ギャル殺人事件!」
▶︎ 雑誌
『週刊現代』1985年3月16日号(講談社)
「風営法で一変ギャルが大挙移動」
『週刊宝石』1987年2月6日号(光文社)
「トップ・ビデオギャルが赤面告白!わたしのエッチ体験ノゾかせちゃうワ!」
メディアはこのようにギャルに性的なイメージを直接的に結びつけていったのだ。アダルトビデオに出演する女性を “AVガール” ではなく “AVギャル” と呼んだこともその一例である。古谷一行主演の2時間ドラマだけではなく、本来は良心作である『特捜最前線』ですら「風俗ギャル殺人事件!」とやっているのだから始末におえない。このような流れの中で、女性側が自らをギャルと自称するケースはますます減っていく。
若年男性をターゲットとした雑誌も、“ギャルを避けるようになった。“デートマニュアルとして一時代を築いた雑誌『ホットドッグ・プレス』(講談社)は1981年12月25日号で「ギャル、君と話したい。」、1982年7月25日号では「ギャル、君のこともっと知りたい!」、同年12月25日号で「ギャルと一緒の冬休み」と、表紙にデカデカとギャルを打ち出した。ところが、1980年代後半になるとギャルの代わりに “女のコ” という言葉を多用するようになる。
男闘呼組に否定されたギャル
1986年末以降のバブル景気は、④“奔放に遊んでいる若い女性”のイメージに大きな変化をもたらした。それは「CHA-CHA-CHA」のギャルとは明らかに異なる新たな形態であった。
1988年9月にリリースされた男闘呼組のファーストアルバム『男闘呼組』には、メンバーの高橋一也(現:高橋和也)が作詞した「MEN'S BUGI」という曲が収録されている。この楽曲は、当時大流行していたDCブランド、MEN'S BIGIにかぶせたタイトルで、風刺的な内容を含んでいる。その歌詞には次のような一節がある。
「♪街を歩いてりゃ 必ず見かける ワンレン ボディコン まったく 中身がねーぜ」
ここで、ほぼ全否定されている “ワンレン” と “ボディコン” こそ、バブル期の象徴的なギャルの様式として今日も認識されているものだろう。ワンレンとは “ワンレングス” の略で、髪の長さを均一に揃えたストレートヘアを指す。とくに前髪を片側に流したスタイルが当時の典型だった。ボディコンは “ボディコンシャス" の略で、身体のラインを意識したタイトな服(ワンピースやスカートなど)のことだ。当時は肩パッドが入り、ミニ丈で、ラメや光沢のある生地であるものが主流だった。
ワンレン&ボディコンが生まれた背景
とくにボディコンは、単なる服装以上に “バブル期の女性像" を象徴するアイコンとなる。それは、好景気が生み出した消費志向と、女性による自己表現欲求、そしてディスコを中心とした夜遊び文化が複合的に絡み合うことで流行したファッションだ。
1980年代中期以降、マイケル・フォーチュナティや、ケン・ラズロといったミュージシャンに代表されるハイエナジー(ユーロビート)が高い人気を集め、新たなディスコブームが到来した。1984年12月にオープンした『MAHARAJA TOKYO』をはじめとした豪華な内装の大規模ディスコが、都心だけではなく、ウォーターフロント、ベイエリアと呼ばれた東京湾岸地区に続々誕生することで、ブームの象徴的存在となった。また、それらの店舗ではドレスコードが導入され、入店が許されることで、客はステータスを感じることができた。このような環境で、石を投げれば当たったのが、DCブランドのソフトスーツを着た男性か、ボディコン姿の女性だったのである。
当時、都会の若い女性が全員ディスコ通いをしていたわけではなく、ディスコに訪れる女性が全員ワンレン&ボディコンのスタイルをしていたわけでもない。街ではコンサバ系、サーフ系、モード系、渋カジ系といった多様なファッションスタイルが共存していた。しかし、ワンレン&ボディコンはその華やかさとインパクトの強さから、特に印象付けられることとなった。
ちなみに、今日、こうした女性たちを “イケイケギャル” という総称で一括りにしているまとめサイトなどがある。そして、それらの出自は1980年代にあるとされている。だが、当時の雑誌に “イケイケギャル" という見出しはほぼ見当たらない。ギャルを好んだメディアである中高年男性向け雑誌ですら見出しに打っていない。1980年代に “イケイケ" という言葉は確かに使われてはいたが、この “イケイケギャル” という総称が浸透するのはもっとあとのことではないだろうか。
バブルの真っ最中に生まれたおやじギャル
他方、ディスコで遊ぶことだけがバブル期の若い女性のあり方ではなかった。フルタイムで働く女性が増えたことで、仕事終わりには居酒屋や赤ちょうちんで気軽に酒を飲み、休日にはゴルフや競馬場で過ごすスタイルも広がっていった。漫画家・中尊寺ゆつこは、1989年に『SPA!』(扶桑社)で連載を開始したコミック『スイートスポット』にて、こうした新しい女性像を “おやじギャル" として描写した。このキャラクターは、当時の時代の空気を反映した存在だった。ここでのギャルは ⑥“群像としての若い女性”だろう。
1970年代にアメリカ(西海岸など)の若い女性を指していたギャルが、おやじ化することで1980年代は終わる。次回取り上げる1990年代前期はいよいよギャルの大変革時代が到来。コギャル登場編だ。