知られざる明治維新の「影の立役者」 老中・阿部正弘の慧眼とは
「幕末といえば坂本龍馬!」
歴史好きの方なら、そう考える人も多いのではないでしょうか。
司馬遼太郎の小説や様々なドラマの影響で、龍馬は長らく国民的ヒーローとなっています。
しかし明治維新の立役者として、もっと早い段階で日本の未来を見通していた人物がいたのです。
その人物こそ、徳川幕府の老中・阿部正弘(あべまさひろ)。
明治維新だけでなく、近代日本のグランドデザインを描いた黒子的存在でした。
黒船来航、その時日本は?
1853年(嘉永6年)、ペリーの黒船が浦賀に姿を現します。
その目的は、日本との交易だけではありませんでした。
当時のアメリカは清貿易を目論んでおり、ロンドンを経由しない太平洋航路の開拓を目指していました。
ペリーの来航時、幕府の最高実力者として指揮を執っていたのが阿部正弘です。
彼は強硬な攘夷派でも、簡単に外国に屈する開国派でもありませんでした。
なぜなら世界の「現実」をすでに把握していた、聡明な人物だったからです。
情報通の老中、世界を読む
阿部正弘の先見性は、どこから来ていたのでしょうか。
長崎の出島からもたらされる海外情報などを、丹念に分析していたのです。
とくに注目したのが、アヘン戦争の結末でした。
清という巨大国家が、イギリスの近代的な軍事力の前にもろくも敗れ去った現実。
この情報は、阿部に重大な危機感を抱かせました。
さらに世界で起きている二つの大きな変化を理解していました。
それが「産業革命」と「ネーションステート(国民国家)」の形成です。
蒸気機関に代表される技術革新と、すべての国民が参加して国を作り上げていく新しい国家観。
こうした二つの波に、日本は完全に乗り遅れていたのです。
驚くべき明察力!阿部正弘の描いた青写真
「このままでは日本はもたない」
阿部正弘は、200年以上続いた鎖国政策の転換を決意します。
しかし開国すれば良いわけではありません。彼が描いた構想は、驚くほど包括的なものでした。
– 開国して世界から学ぶ
– 貿易で国を豊かにする
– 軍事力を近代化する
– 教育を充実させる
– 人材を広く登用する
上記の内容はこのあとに続く、明治維新の骨格となる要素を多く含んでいたのです。
高等教育機関の設立
1855年(安政2年)、阿部は「蕃書調所」の設立を命じます。
これは、東京大学の源流となる機関です。
蕃書調所では、外国の書物の翻訳や研究が行われ、とくに自然科学や軍事技術の研究に力が入れられました。
当時としては画期的なことに、身分に関係なく優秀な人材であれば、広く受け入れる方針が取られています。
老中に就任する以前に福山藩主だった阿部は、義務教育の先駆けとなる取り組みも行っていました。
軍事改革への着手
軍事面において、阿部は二つの重要な改革に着手しています。
一つは、1853年(嘉永6年)の「海防掛」の設置です。
これは、日本海軍の基礎となる組織でした。
ペリー来航を契機として、沿岸防衛の重要性を認識した阿部はすぐに専門部署を立ち上げ、西洋式軍艦の研究と建造を始めています。
もう一つは、1855年(安政2年)の「講武所」の設立です。
日本陸軍の元となる組織で、西洋式の軍事訓練を行う施設でした。
講武所においても「武士以外からも優秀な人材を集める」という、当時としては革新的な方針が採用されています。
さらに特筆すべきは、勝海舟をはじめとする若い有能な人材を積極的に登用したことです。
「万機公論に決すべし(すべての政策は話し合いで決めよう)」という考えも提唱しました。
この阿部の言葉は、明治維新の重要な理念「五箇条の誓文」の第一条として採用されることになります。
歴史の偶然が生んだ冷静な判断
阿部正弘による冷静な判断の背景には「幸運」もありました。
ペリー来航と同じ1853年(嘉永6年)、ヨーロッパではクリミア戦争が勃発します。ロシアとオスマン帝国の戦いです。
ロシアの南下政策に対抗して、イギリス・フランス・オスマン帝国が同盟を組んだ大規模な戦争で、約3年間にわたってヨーロッパ列強が持つ、アジアへの関心と軍事力を完全に吸収することになりました。
この戦争のおかげで、ヨーロッパ列強の関心は一時的にアジアから離れていきます。
もしクリミア戦争が起きなければ、欧米列強の軍艦が次々と江戸湾に押し寄せていたかもしれません。
この「時間的猶予」があったからこそ、阿部はじっくりと開国への道筋を考えることができたのです。
なぜ彼は忘れられたのか?
このように明治日本の基礎を作った阿部正弘。
しかし、なぜ今ひとつ知られていないのでしょうか。
理由の一つとして、司馬遼太郎の影響力があるかもしれません。司馬作品での坂本龍馬の魅力的な描写は、日本人の歴史観に大きな影響を与えました。
ただ実際には、龍馬の果たした役割はそれほど大きくなかったとも言われています。
また、阿部自身が地味な「実務家」だったことも理由としてあるでしょう。
派手なパフォーマンスや劇的な活躍ではなく、着実な改革を積み重ねていくー。
ドラマチックな「幕末」のイメージとは少し異なっていたのかもしれません。
現代に通じる先見性
グローバル化、技術革新、教育改革、人材育成…。
阿部正弘が直面した課題は、現代の日本が抱える課題と驚くほど類似しています。
今から170年前に彼が示した「変化を恐れず、しかし慎重に対応する」という姿勢は、今なお私たちに重要なヒントを与えてくれているのではないでしょうか。
幕末の「隠れた立役者」である阿部正弘。
歴史の教科書には大きく取り上げられていないかもしれませんが、その先見性と実行力は間違いなく近代日本の基礎を作り上げたのです。
参考文献:出口治明(2022)『一気読み世界史』日経BP
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部