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すぐそこにあるディストピア──鴻巣友季子さんと読む、アトウッド『侍女の物語』『誓願』【NHK100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

すぐそこにあるディストピア──鴻巣友季子さんと読む、アトウッド『侍女の物語』『誓願』【NHK100分de名著】

行き過ぎた「理想」は、やがて狂信と独裁を生み出す──アトウッド『侍女の物語』『誓願』を鴻巣友季子さんが解説

2025年6月のNHK『100分de名著』では、カナダの小説家マーガレット・アトウッドがディストピアを描いた連作小説『侍女の物語』(1985年)と『誓願』(2019年)を、翻訳家・文芸批評家の鴻巣友季子さんが紹介します。

『侍女の物語』の舞台は、狂信的な全体主義国家に変貌した近未来のアメリカ。そこでは女性が仕事や財産、地位も家族も名前さえも奪われ、「子どもを産む機械」にさせられる──。刊行当時は極端な想定だという見方もされたこの作品が、2017年の第一次トランプ政権の成立以降、世界的な右傾化の流れがあるなかで、改めて、注目を集めています。

番組テキストでは『侍女の物語』とその15年後を描いた『誓願』を通じて、ディストピアはなぜ生まれるのか、そしてあらゆる権利を奪われた女性たちがいかにして自由を獲得していくのかを、鴻巣さんとともに読みときます。

今回はテキストから、そのイントロダクションを公開します。

近未来を予言する小説

 『侍女の物語』(一九八五年)と『誓願』(二〇一九年)は、カナダの小説家マーガレット・アトウッドが著した近未来小説です。ともにSF的な要素を取り入れた作品で、ディストピア小説でもあり、フェミニズム小説の傑作としても評価されています。

 『侍女の物語』はカナダで最も権威のあるカナダ総督文学賞を受賞しており、優れたSF小説に授与されるアーサー・C・クラーク賞の第一回受賞作でもあります。『誓願』は、英語で書かれた優れた長編小説に与えられるイギリスのブッカー賞を受賞しています。

 『侍女の物語』と『誓願』の舞台は近未来のアメリカ合衆国です。『侍女の物語』でのアメリカは、ギレアデ共和国という独裁国家に変貌していて、そこでは女性の性と生殖に関わる権利がことごとく剝奪されています。その十五年後が描かれるのが『誓願』です。

 両作とも、近未来という設定ではありますが、旧来のSF作品とは少し違っています。未来を描くSFと言えば、古くはジュール・ヴェルヌの『二十世紀のパリ』のようにテクノロジーが発達した世界を描くものが多いのですが、『侍女の物語』と『誓願』には未来のハイテク技術は出てきません。むしろ、時代を逆戻りしたような、古めかしいとすら言えるような情景が描かれます。

 『侍女の物語』と『誓願』はディストピア文学の代表作として大変有名になりました。しかし、『侍女の物語』が発表された一九八五年当時は、ディストピア文学ではなく、近未来の恐怖政治を描いたダークファンタジーといった見方が主流でした。女性から仕事、財産、地位、家族、名前、すべてを奪い、ただの「子どもを産む機械」にするという設定は、現実にフェミニズムへの反動が吹き荒れるなかで深刻な警告として受け止める人たちがいた一方、過激で極端な想定でリアリティがないと言う人たちもいたのです。

 ところが、そんな極端な世界が現実味を帯びてくる出来事が起こります。現実のアメリカの政局です。二〇一七年、妊娠中絶などに反対するキリスト教保守派の支持を受けたドナルド・トランプ氏が大統領に就任すると、女性の権利が奪われた独裁国家を描くこれらの小説は、トランプ政権への不安と抵抗を表現するシンボルになりました。

 同年四月には動画配信サービスで『ハンドメイズ・テイル/侍女の物語』の連続ドラマがスタート。登場人物である〈侍女〉が着る赤いマントに白いフードで仮装した女性たちによる政治デモは、第一次トランプ政権のとき、また現在でも行われています。

 『侍女の物語』は一九九〇年に映画化もされています。監督は『ブリキの太鼓』のフォルカー・シュレンドルフ、脚本はのちのノーベル文学賞作家ハロルド・ピンター、音楽は坂本龍一という豪華スタッフで話題になりました。

 私が二十代で『侍女の物語』に初めて触れたのは、小説ではなくこの映画版でした。そのときには、この物語が現実感を伴って迫ってくるという印象はほとんどなかったと記憶しています。未来の外国の話ですし、少子化の問題についても当時はピンときていませんでした。ところが、私よりも二十歳くらい年下の女性たちは、高校生のときに『侍女の物語』と『誓願』を読み、「これは自分たちの世界を映しているリアルな物語だと感じた」と言います。

 『侍女の物語』の世界が現実化する。そのリアリティが作者のなかに初めからあったかどうかについて、アトウッドは二〇二一年のニューヨーカー・フェスティバルにリモート登壇した際に、静かな声調でこう発言しました。

 わたしが『侍女の物語』を書いた一九八五年ごろ、ヨーロッパ諸国の人たちはアメリカがこんな方向に──右傾化、全体主義化、独裁政権化──進むなどと決して、決して、決して、信じようとしなかったのです。

 彼女は「決して(never)」という言葉を三回使いました。その静かな強調に、会場はどよめきました。刊行当時のアメリカに対する希望的なヴィジョンに、会場の人たちは驚いたのでしょう。この三、四十年で、受け手の反応は明らかに変わったと言えます。

 ではなぜ、アトウッドは一九八五年当時にこの物語が書けたのか。別の問い方をすれば、なぜ現実から遠く離れているように見える近未来小説として書いたのでしょうか。

 ヒントは、アトウッドが大好きなウィリアム・シェイクスピアの作品にもあるかもしれません。その代表作『ハムレット』は十二世紀のデンマークの王子の話で、『ロミオとジュリエット』の舞台は十四世紀初頭のイタリアのヴェローナという都市国家です。シェイクスピアは、自分が生きている十六〜十七世紀のイングランドを物語の舞台にしませんでした。彼が書く戯曲にはイングランドの王室批判や政治風刺が多く込められていたからです。それが当局に知られると捕まってしまうでしょう。だから舞台を外国にして、時代も百年単位で変えた。つまり、目の前にある現実を念頭に置きながら、時空をずらして物語を書いたのです。

 これはシェイクスピアだけでなく、時代劇や歴史小説、そしてディストピア小説にも共通することです。単に純粋な未来や過去を描いているのではない。目の前にあり、歴史においても繰り返されてきたけれど、人びとには見えていない、あるいは気づいていないことの本質を浮かび上がらせるため、あえて現在から時空をずらして書くことがあります。異国や過去や近未来を描くことは、いま見えていないものを可視化するための文学的手段なのです。

 先ほど述べたように、『侍女の物語』と『誓願』は近年ではディストピア小説として世界によく知られています。ディストピア文学とは何かについてはこのあと詳しくお話ししていきますが、簡単に言えば、為政者が自らの理想を追求するあまり、行き過ぎた監視・管理が人びとを虐げ蝕んでいく社会を描く文学です。

 今回は、この「ディストピア」と恐怖政治という側面に焦点を当てて、『侍女の物語』と『誓願』を読んでいきたいと思います。読み解くにあたって私が投げかけたいテーマの一つが、「ディストピアと信仰・信念」です。宗教的な信仰、自分が信じるものとしての信念、それらとディストピアとの関係を考えてみたいのです。ディストピアと言われる社会機構の背後には、必ず信仰や信念というものがあるからです。

 『侍女の物語』と『誓願』というディストピアの支配と滅亡の物語は、中世に起きたルネサンスや宗教改革、そして言語能力の獲得と驚くほど共通するところがあります。中世の封建社会に兆した個人の自由意思と自律の精神。それと同じことが『侍女の物語』から『誓願』のなかで起きます。

 ディストピア国家ギレアデ共和国は武力や謀略によって崩壊したのではありません。言葉によって支配したこの国は言葉によって滅んだのです。

 ディストピアは悪として生まれるのではなく、その信仰・信念に基づいたある種のユートピアを目指して始まります。そうして夢みた社会がなぜディストピア化するのか。その答えを探るために、人権も思考も奪われた〈侍女〉たちが自由意思と自律の精神を手にするまでの道のりを、これからみなさんと一緒に読んでいきたいと思います。この予言のようなアトウッドの小説を読みながら、現在の私たちについても考えていきましょう。

「100分de名著」テキストでは「すぐそこにあるディストピア」「性搾取の管理社会」「言葉を奪われた女たち」「闘う女たち」という全4回のテーマで本書を読み解き、さらにもう一冊の名著としてクレア・キーガン『ほんのささやかなこと』を紹介しています。

講師

鴻巣友季子(こうのす・ゆきこ)
翻訳家、文芸批評家
1963年東京都生まれ。英米圏の同時代作家の紹介と並んで古典名作の新訳にも力を注ぐ。文芸評論、翻訳研究の分野でも活動。主な訳書にエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(新潮文庫)、マーガレット・アトウッド『昏き眼の暗殺者』『誓願』『老いぼれを燃やせ』、クレア・キーガン『ほんのささやかなこと』(早川書房)、ミリアム・テイヴズ『ウーマン・トーキング ある教団の事件と彼女たちの選択』(角川文庫)他多数、主な著書に『謎解き「風と共に去りぬ」』、『文学は予言する』(新潮選書)、『翻訳ってなんだろう?』(ちくまプリマー新書)、『翻訳問答』シリーズ(左右社)、『ギンガムチェックと塩漬けライム』(NHK出版)などがある。津田塾大学言語文化研究所客員研究員。日本文藝家協会常務理事。
※刊行時の情報です

◆「NHK100分de名著 アトウッド『侍女の物語』『誓願』2025年6月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における『侍女の物語』の引用部分は著者による訳、『誓願』の引用部分はハヤカワepi文庫版(著者訳、2023)に拠ります。
◆TOP画像:Paylessimages/イメージマート

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