80年 東京大空襲の記憶
3月10日で、東京大空襲から80年になります。
太平洋戦争末期の1945年、アメリカ軍のB29爆撃機が東京の下町を中心に1600トン以上の焼夷弾を投下。10万人が亡くなり、100万人が何らかの被害を受けたとされています。
番組では、当時5歳だった森本毅郎さんが見た、赤く染まった東京の空や、上空に聞こえた爆撃機の轟音といった大空襲の記憶を語りました。
戦後80年を迎え、当時のことを直接知る人も少なくなっています。
3月10日は番組リスナーにも、こうしたテーマでお話を募りました。
「『東京大空襲』について、あなたが記憶していることを教えて下さい」
リスナーからの投稿
・千葉県 50代 男性
母親の家族が日本橋に住んでいて東京大空襲に遭いました。
警報が鳴って、隅田川を船で逃げるよう指示があったのですが、祖母は泳げず、川が怖くて頑なに拒んだそうです。結果、焼夷弾が川に落ちて、川面は火の海となり、船で逃げた方達は全員亡くなったそうです。
いま私がこうして家族を持ち暮らしていられる事を運命と感じています。春分の日には祖母の墓前に手を合わせています。
・東京都武蔵野市 76歳 女性
私の母は大正5年生まれで、江東区にある清澄庭園のそばで生まれ育ちました。
3月10日は、空襲防火訓練などは何の役にも立たず、清澄庭園の池に逃れました。
夜が明けて清澄庭園の外に出ると周りは何もなく、東京湾まで一望できたとのことです。
母は関東大震災でも同じ池で助かっています。
今日は清澄庭園に行き、池に手を合わせてお礼を言ってきます。
・女性の方
生きていれば114歳の祖母から聞いた話です。
朝起きて、隅田川の向こう側が一面焼け野原になっていたそうです。
祖母の居たところから見ると、隅田川を挟んで被害が分かれたようです。
自分も反対側にいたら死んでいたと。空襲警報が鳴るたびに、今日死ぬか、明日死ぬかと生きた心地がしなかったと年中言っていました。
・新宿区 67歳 男性
亡き母は毎年、私に語りました。昭和2年、日本橋・浜町生まれ。戦災で焼失した浜町小学校育ち。
昨日まで路地で遊んでいた、屋台のおじちゃん、米屋のおばあちゃん…東京大空襲で一瞬にして失いました。
母は「『平和は大切、二度と戦争は…』は分かるけれども、大きな勢いが入ってしまうと戻れなくなってしまう。私たちの時代は戻せなかった。」
「戦後の日本は民主主義。国民は真剣に国民の意志を、貴重な一票に『必ず』投じないと…。
財源のツケを子や孫に、どころではない。
子や孫の『命』を守る為に、いつまでも、そして、いつまでも『戦後」と叫びなさい」
と言い続け、5年前92歳で亡くなりました。
・横浜市 82歳 男性
大空襲の時は(千葉県)市川に住んでおり、父親は都心の新聞社に勤務していました。
そのため父親は修羅場のような場所をくぐり抜けながら市川に帰宅したそうです。
その後生涯にわたり民主運動を続けていたのは、大空襲を実際に経験した事も影響したのではないかと思っています。
・埼玉県ふじみの市 68歳 女性
お隣に子供を2人かかえて逃げ回ったという方がいました。
詳しいお話をお聞きすることはできませんでしたが「打ち上げ花火の音が嫌い、聞きたくない」とおっしゃっていました。
避難するのは当然と思っていたら、消火行動をとらずにその場を離れると罰せられる法律があったことを後から知って、国民の命なんか本当に軽かったんだなと思います。
(画像:空襲後の浅草松屋の屋上から見た仲見世とその周辺)
・東京都清瀬市 69歳 男性
小さい頃、母に東京大空襲の話を聞いていました。母は渋谷駅の円山地区に住んでいて、円山の坂の上から浅草方面が真っ赤で、焼夷弾のヒューヒューの音が戦後も耳から離れなかったと言っていました。
・さいたま市 73歳 男性
私の通っている絵画教室で、毎年この時季になると赤くくすんだ抽象画の油絵を描く女性がいます。
子供の頃に見た荒川対岸の夜空とのこと。「忘れられない」と言います。
でも最近お見受けしません。もうお歳なのかなと思っています。
・東京都町田市 85歳 男性
当時、私は5歳で、両親、弟たちと府中市に住んでいました。
東京大空襲の記憶はかすかですが、東の空が真っ赤に燃えていたことです。
この赤い色は未だに脳裏にこびりついています。
両親は危ないと思ったのか、長男の私だけを、祖父母の住む山梨県甲府市に疎開させました。
ところが、7月10日の空襲で祖父母と夜中ブドウ畑に逃げ、B29の音、焼夷弾が落ちて燃える道路は鮮明に覚えています。結局自宅は丸焼けになりました。
・宇都宮市 68歳 男性
私は亡くなった母からその時の様子を聞いています。
宇都宮の東の外れにある田舎でしたが、東京方面の空が真っ赤に染まって明るかった、と言っていました。
・東京都小平市 62歳 男性
以前、伯母の戦争体験を聞いたことがあります。
なんでも、3月10日の大空襲があった日の夜、空襲で亡くなった人達の遺体を集めた墨田公園で大量の人魂を見たとか。
とっくに火災は収まっているハズなのに、まるで燃えているように明るかったと言ってました。
・「X」への投稿 東京都 60代
15年前に亡くなった父から聞きました。
23歳くらいの医学生だった父は新宿若松町の陸軍の施設から現地に向かったそうです。
空が赤くなっていたこと、皮膚が焼け爛れた人たちがいたこと。
無口な父から聞いた、ただ一つの戦争の話です。
・「X」への投稿
母の話です。当時、戦争が酷くなったので、渋谷・金王神社裏手の家から、多摩川沿いの川崎北見方に引っ越しました。灯火管制の中、敵機の音がして、まもなく多摩川の向こうが真っ赤に燃えたそうで、今だに怖い夢を見るとの事で、なぜかタンスの上から戦闘機が何機も飛んでくる夢なのです。
・「X」への投稿
亡き母は少女時代、本所にて被災し、埼玉県に疎開し、その26年後の同じ日に私を産みました。おそらく、大事な人やものを多く失ったからでしょう。母は生涯、空襲の事を口にしませんでしたが、私の母親になってくれた事で能動的に戦争を学ぶ事が出来ました。
(TBSラジオ『森本毅郎・スタンバイ!』より抜粋)