レンガ積みのトンネルを愛でながら長い長い道のりを散策【山梨県甲州市の大日影トンネル後編】
前編では勝沼ぶどう郷駅の旧スイッチバック駅構造と、大日影(おおひかげ)トンネルの入り口まで到達しました。後半はトンネル遊歩道を散策します。このトンネルは漏水と経年劣化対策工事で2016年から長期間閉鎖されていましたが、2024年3月に再開しました。トンネル内の遊歩道は見どころも多く、往復1時間以上はかかりました。
いよいよトンネル遊歩道の中へ
JR中央本線大日影トンネルは明治30年(1897)に起工し明治36年(1903)に竣工しました。トンネル内部はレンガ積みで、坑門(ポータル)は東京側が石積み、甲府側がレンガ積みと異なっています。明治30年代は日本のトンネル技術が発展を迎えつつある時代で、同時に笹子トンネル(4656m)も掘削したほどでした。笹子トンネルに比べれば大日影トンネルは短いですが、それでも長さは1367mもあって、深い谷間に建設されたため、工期は5年にも及びました。
訪れたのは秋も深まる晴天日。少々暖かい日で、トンネル内は寒いかなと思いましたが、身を引き締めるほどの寒さではありません。入り口は門扉が増設されている以外ほぼ現役時代のままで、坑門上部の扁額には「大日影トンネル遊歩道」と掲げられています。
平日のためか、トンネルへ誘われる人々はほとんどおらず、老夫婦が1組いたくらいでした。所要時間は往復1時間なので手頃です。陽気の良い休日ならばもう少しにぎわっていると思われます。
内部は線路がそのまま残っており、中心部を歩くのはバラストと枕木に気をつけねばなりません。線路の両サイドは平坦になっているので、そこを歩くのが無難でしょう。
トンネルに入るや、天井が細かい網で覆われ、それがレンガの色合いと二色刷りになったような造形で、はるか先の出口まで延びています。漏水対策の網だと知らなければ、何かの意匠か設備の一つか、悩んでしまうところです。線路中心部に立ってみると、もうトンネル状のグラフィックデザインに見えてしまいました。
線路に水が湧き出て保線の注意看板などの遺構が点在する
トンネル内部と言っても照明はしっかりと灯され、懐中電灯は必要ありません。暖色系の照明がレンガと相性よく、薄暗く怖い空間ではなく、暖かみのある空間になっていました。
ちょろちょろちょろ……
足元ほうから流水音が聞こえた気がしました。屈んでみると、線路の中心部がところどころ水たまりとなって水が流れています。線路はバラストと枕木があるだけで、水路はありません。どこからか湧いているのでしょうか。
気になりつつも先へと進み、レンガの壁面を眺めていると、要所で保線員向けの注意書き、100mおきに設置された距離標などが残っており、茶褐色のレンガが部分的に白くなっています。
「石灰分の再結晶 白い折出物はモルタルの石灰分が再結晶したもの」
ちゃんと説明板があって、散策者の疑問に答えてくれます。モルタルはレンガを積むときに使用しました。内部は完璧なレンガ巻きのように見えて、部分的に花崗岩で補強されています。弱い断層を通過するために花崗岩で補強したとのことです。
また壁面は等間隔で待避所の窪みがあります。作業中や移動中に列車が来るとき、この窪みで待避して列車をやり過ごすのです。
大日影トンネルでは一時避難用の小サイズが29カ所、保線連絡電話機なども備えた中サイズが5カ所あります。さらに大人が10人は入れそうな大サイズの待避所が2カ所あって、これは反対の面に備わっています。カ歩道となってからは大サイズ待避所にベンチが備わって、休憩するのにもってこいです。
中間地点が登場。実はずっと出口へ“登っていた”
「0.7km←出口→0.7km」
トンネル内部には、現役時代からのものと思しき距離を知らせる看板が壁面に掲げられているのですが、数十分歩いてやっと中間地点へ到達しました。その先に「110」の数字が。キロポストです。東京駅を起点として110km地点が、大日影トンネルのほぼ中間地点となりました。
小休止しながら、それにしても内部はモルタルの再結晶や開業時代の蒸気機関車の煤(すす)などで茶褐色のレンガ色ではなく、あちこち汚れているのに目が止まります。一体どれくらいの列車がここを行き来したのか知る由もないですが、竣工から121年は経過しており、その汚れがグラデーションとなって馬蹄型の形状に染み込んで、これはトンネルの年輪みたいなものだなと感じました。
再び歩き始めます。閉門時間まではまだ十分にありますが、まだ半分ほど歩きます。と、壁面に勾配標が立てかけられていました。片側に下がった腕木には「25」の数字。25/1000(千分の25)、1000m行って25m上がる(下がる)。つまり25パーミルの勾配がついているということです。
中央本線は笹子トンネルから甲府盆地まで下り勾配の連続です。大日影トンネル内も25パーミルの勾配がついており、人間でも坂道を感じるほどの勾配です。トンネルへ入ってからは、逆にずっと上り勾配となっていたのです。急坂ではないので足に負担がきませんでしたが、小休止すると意外と体力を消費したんだなぁと感じるほど、少し息が上がってきます。
と、今度は線路の中心部が水路となって開削されています。看板があったので危険回避できましたが、暗闇にわずかな照明だったらハマってしまいそうな罠(わな)です。バラスト敷きであった線路はコンクリート道床となって、地下鉄の線路みたいな雰囲気に変わります。
大日影トンネルは湧水があって、その対策として東京側の約330mの線路をコンクリート道床にして、中心部分に開渠水路を設けて水の処理としました。水路がトンネルの途中で途切れているのが謎ですが、開渠水路の終端部はバラスト道床の底部に水路が潜っていたので、線路の下を水が流れているのでしょう。先ほど見た湧水もこの水かもしれません。
やっとのことで出口へ。帰り道はギリギリの時間に……
トンネル内部は線路がコンクリート道床となって、がらっと表情を変えました。水路は水がこんこんと流れ、はたしてどこから湧いて出た水なのだろうと気になります。出口の先はすぐ深沢という谷間の沢があって、水気の多い場所です。と、開渠水路とコンクリート道床が突如として終了しました。てっきりトンネル出口まで続いているのかと思っていただけに意外です。湧水がひどい場所だけこうしたのでしょうか。
外の明かりはだんだんと大きくなっていき、壁面の距離標も「0.1km←出口→1.3km」となりました。
やっと出口だぁ。
大日影トンネルの出口まであと一歩。内部からはワインカーヴとなった深沢トンネルの坑口が見えます。到着! 振り返ると石積みの坑口が構えていました。入ったときのレンガの坑口と表情が異なり、別のトンネルへ出てきたのかと錯覚しちゃいます。
真向かいの深沢トンネルも石積みであるから合わせたのかと思いましたが、周囲は深沢というだけあってV字の谷となっており、底部を深沢川が流れています。大日影トンネルの先は深沢川を渡り、すぐ深沢トンネルへと続く構造です。石積み坑口は耐久性があり、地形的に厳しい谷間に適切だったのではとも思います。
これにて大日影トンネルの遊歩道散策は終了……ではありません。来た道を戻らないとなりません。気づけば夕方に迫ってきました。門扉が閉まったら国道20号まで出て迂回しないと。
気持ち早歩きで勝沼ぶどう郷駅側へと目指します。今度は下り勾配。早歩きだと速度がついてきます。なるほど、25/1000勾配を感じる!ちょっと感動。背後で男性二人組が「こんなトンネルがあるのか!」と感動しながら歩き始めましたが、彼らはワインカーヴに車を置いてきた様子。
「あと20分で閉鎖します」
いきなりの放送が入りました。しっかりと時間を教えてくれるのはありがたい。いや、あの人たちは戻って来れるのか?と気になっていると、前方から係員のおじいさんが現れて、駅側から来たのか?と質問されたあと、
「向こう側(深沢)の扉を閉めてから戻ってくるので、取り残される人はいないよ」
とのことで納得。門扉は手動だろうと思っていましたが、係員の方が毎日トンネルを往復して開閉しているとは。スタスタと歩き去っていくおじいさんの背中を眺めながら、地域の人々に支えられて鉄道遺構が残されているのだなと、あらためて感じました。
トンネル内は見どころも多いので、訪れるときは時間の余裕をもってお越しください。
取材・文・撮影=吉永陽一
吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。