「釣りに本格的に入門してみない?」 夢中になれることがある状況はとても幸せ!
この夏の自由研究に水辺を眺めてみて、どうだっただろう?川や海の水溜り。魚と小さな生き物の戯れ。それはどこかしら少年の君たちの瞳にも似て美しいものだ。喪失と永遠が同時にある。せっかくならこの自由研究で得た感触を、この先の長い人生にも繋げてみよう。
自由研究の先へ
いきなり筆者個人の話になるが、私は小さな頃から父の趣味の海釣りに連れて行ってもらった。後年父はどんどん難しい人物になっていって、今でも複雑な思いがあるが、少年時分の気持ちは頭を離れない。その結果、36歳になった今でも釣り人であり続け、こうして釣りライターまでしている。職に繋がっている。
地球の90%、人間の80%は水が占めるというのだから、何かしら人類の運命と水は本質的な結びつきがあると思う。本流には研究者がいて、漁業や養殖に関わる人がいる。タレントのさかなクンは水産学に通じながら、それをお笑いという表現に昇華した人だ。
つまり、海や川やその中に棲む生き物との関係を構築することは、時として、人を独立した個とする。その中で釣り人と言えば遊猟の民だが、むろんこの趣味も素晴らしい。人生を一生楽しみたければ釣りを覚えろ、という言葉もある。
まずは身近な魚をよく知ろう
君たちはどう生きるか。自由研究の途上、驚異の新発見をもたらした中学生もこの夏に現れた。類稀な探究心の果てには何らかの報酬があるかもしれない。
もしあなたがこの夏の水辺の自由研究を拡げていきたいなら、フィールドワークと共に、図鑑を広く深く読むことを勧めたい。生態系、外来種について知ること。むろん生き物の毒について正しい知識を持ち、ある程度以上の踏み込みを控えなければならない。
しかし、余計な付け足しとは思うが、野口英世のように化学の研究者は、自分の発見をさらに深く知るために自らを研究体とし、その結果命を落としている。優れた研究者は、必ず好奇心の果てに犠牲を出すものらしい……。不謹慎な例のようだが、先の大戦の終末もそのひとつだ。
堤防エサ釣り 独立まで
遊猟の民となるのも、研究者の道を目指すにも、フィールドワークは怠れない。難しいことではない。要するに実釣ないし、水遊びだ。毎年必ず水の事故が起きているので、保護者同伴でいこう。友達とちょちょっと出かけることも罪ではない。だが何かあったときのためにライフジャケットは必ず着用すること。
地域によって何が釣れるかは違うので一概には言えないが、もっとも手軽に海の世界の深みまで知れるのは、「ライトゲーム」という小物のルアー釣りだ。ただ始めたての小学生にはまだ難しいかもしれない。それならば生エサを使い、足元の探り釣りや、サビキ釣りでいこう。
釣りの独り立ちは、安全第一で、狙ったターゲットを確実に釣る腕を身につけてからだ。魚釣りのパターン化はもちろん、一種の理科的な研究で、研究の道への第一歩である。
夢中になれることを探そう
人生において重要なことは「死なないこと」「好きなものを見つけること」と作家の村上龍が言っている。私もそう思う。この夏の自由研究がその手がかりになればいい。魚釣りはその候補のひとつで、生き方はまさしく自由だ。あらゆるものに触れながら、自分の可能性を研究してほしい。
ただし、大人として最後に残酷な事実に触れておくと、運命の選別は中学三年生までには完全に終わっている。日本社会が君たちを「子ども」と甘く留保してくれる期間は短い(世界的に見ればそれでも長い)。15歳になるまでが勝負だ。勉強を中心としながら、人生をかけて集中できる物事を見つけてほしい。健闘を祈る。
<井上海生/TSURINEWSライター>