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過去を離れて見えた八ヶ岳山麓の新しい料理 臼井憲幸 カエンネ 長野・茅野 24年12月号

料理王国

過去を離れて見えた八ヶ岳山麓の新しい料理 臼井憲幸 カエンネ 長野・茅野 24年12月号

南北約25kmにわたり稜線を連ねる八ヶ岳連峰。その裾野にある長野県茅野市の森に2020年にオープンした「カエンネ」。標高約1000mに位置するこのエリアでは、冷涼な気候や山の湧水が高原野菜や川魚を育み、それらが料理の根幹となる。近年は国内のみならず、海外から里山の風物詩を求めて店を訪れる人も増えてきた。

オーナーシェフの臼井憲幸さんは、神奈川県横須賀市生まれ。妻の実家が長野県にあり、東京から訪ねるうちに「いつか長野で自分の店を持ちたい」と考えるようになったという。独立当初は当然のように長年修業した北イタリアの郷土色を打ち出す店を思い描いていたが、多彩な食材が集まる東京との環境の違いに直面し、過去の経験や情熱を一度捨て、不安を抱えながらも地元食材と向き合い、この地に根ざした料理を一から生み出すことを決意する。そんな臼井さんに、この地で店を営むその志を聞いた。

JR中央本線茅野駅から車で20分ほどの森にある一軒家のレストラン「カエンネ」。煙突から薪火の煙が立ち上るのどかなたたずまい。

食材として使える山椒の木など、さまざまな樹木が店を取り囲み、四季折々、美しい表情でゲストを出迎える。

長野県八ヶ岳の麓で店を開いて今年で4年を迎えました。そもそも長野に店を構えたのは妻の実家が上田市にあり、何度か訪れるうちに自然の豊かさに憧れを抱くようになったから。イタリアの修業先に都会ではなくエミリア=ロマーニャやピエモンテを選んだのも、山間部の郷土料理を身に付けたいという思いによるものです。イタリアに渡るまでは東京で北村シェフ(「ダ・オルモ」シェフ・北村征博氏)に師事し、北イタリアの郷土料理の世界にどっぷり浸っていて、帰国後、東京でシェフを務めた時も「本場の北イタリアの郷土料理で勝負してやる!」という気持ちが強かったですね。こうした思いは、実は長野で独立した後もしばらく続きました。

カウンターの正面に設けられた薪火グリラー。八ヶ岳の麓周辺で伐採されたナラの薪を用い、野菜や川魚、肉を柔らかな火で焼いて燻香をまとわせる。
「店が山間部にあり、地元の薪で伝統的な薪火料理を提供したいと考えたのは自然な流れでした」と臼井氏。パチパチと音をたてて燃える炎がゲストを和ませる。

オープン日に緊急事態宣言発令。苦境に立たされる

2017年、長野に家族で転居。今店がある場所でイタリア料理店のシェフを務め、物件をそのまま借りる形で20年の4月7日に「カエンネ」を独立開業しました。

とはいえ、世の中はコロナ禍まっただ中。4月7日に緊急事態宣言が出され、県外への移動が制限されてしまった……経営的にも精神的にも苦しいスタートでしたね。幸い、店が蓼科の別荘地に近いため、テイクアウトやデリバリーでしのぎました。宣言解除後は、海外渡航が難しいなか国内旅行に目を向ける人が増え、県外からお客さんが来てくださるように。徐々に流れが変わりました。

独立にあたっては、エミリア=ロマーニャで学んだ伝統的なクラテッロの技法をもとに、生ハムを作ることが自分にとっての大前提でした。この土地の風土が育てた、この店でしか味わえない手作りの味を提供したいという強い思いがあったのです。今の物件で独立した理由も、気温や湿度を一定に保ちやすいコンクリート製の地下倉庫があり、熟成環境に適していると考えたから。

ただしイタリアとは気候や豚の飼育年数も異なるので同じ事をやってもうまくいかず、失敗の連続でしたね。試行錯誤を重ねるなか、長野の酒蔵「眞澄」の酒麹と出会い、ついにこの土地特有の生ハムを完成させることができました。

この土地で店を続けるには「イタリア料理をやらなくてはいけない」というルールを外し、地元食材と向き合い、なおかつ歴史や文化を学ぼうと思うようになったという臼井さん。

ただし独立してしばらく経つまでは地元の食材を今ほど意識して使っていなかった。野菜の直売所に行っても、レタスやピーマンなど定番の野菜ばかりで「これではイタリア料理が作れない」と気落ちしたことも。妻の実家に頼んでプンタレッラなどのイタリア野菜を作ってもらってもうまく育たず、他府県の食材もどんどん仕入れていたし、僕は横須賀育ちなので地元の川魚はピンと来ず、海の魚を抵抗なく使っていました。加えて、まだまだ北イタリア料理に対する思い入れが強く、そこから外れた料理を提供するのは邪道だとさえ思っていた。今振り返ると、ちょっと恥ずかしい話ですが(苦笑)。

八ヶ岳の麓で作る自家熟成生ハム
長野県の鉄平石にのせて提供するコース一品目の生ハムは、名刺代わりの品。ほんのりと酒麹の香りがするやさしい旨みが特徴で、エミリア=ロマーニャで生ハムとともに提供される揚げパン、ニョッコ・フリットの上に盛られる。パン生地はイーストの量を控え、酒粕やジャガイモのエキスを加えて発酵させることで生ハムの風味とリンクさせている。

東京は食材が手に入りやすいので、料理ありきで必要な食材を揃えることができた。でもここではイタリア料理に向く食材が限られていて、料理から発想することが難しい。そうしたなか徐々に僕の中で「近場の新鮮な食材を使わず、県外のものに頼る現状はもったいない」という思いが強くなっていきました。直売所に行って、旬の高原野菜を見ながら料理のアイデアを練ることが増え、東京にはない食材があることに気づいたり、寒天が特産品なら使ってみようと試したり。冬は野菜が採れないので多く出回る旬の時期に塩漬けにして、手探りで3年くらいかけて発酵についても研究しました。

「ここで生きていくためには、覚えなくてはならない仕事がある」という思いが芽生えた。地元の食材にちゃんと向き合えたら、「この土地に根ざした自分らしい料理」が表現できるのではないかと考えたのです。

生ハムは地下のセラーで最低1年間熟成。豚の尻肉を塩漬け後、地元の酒「眞澄」の麹で少し保水し、豚の腹膜で包んでタコ糸で縛る。麹によって豚肉の水分が保たれ、なおかつ外がカビで覆われることで芳醇な香りや旨みをもつ生ハムに育つ。

子持ち天龍鮎
長野の郷土料理「おやき」をイメージしたフィンガーフード。長野県産の小麦粉に米粉を合わせた薄焼きパンを薪火で香ばしく焼き、上に薪火で焼いた子持ちの「天龍鮎」の身と卵をすりつぶし、焼きナスとソバの実を合わせてのせた。クレソンの新芽と臼井さんが山で採った実山椒が清涼感を与える。なお「天龍鮎」は、長野県飯田市の南アルプスの湧水で育てられたもの。

店から車で10分の場所にある朝採りの野菜や果物を扱う直売所は、臼井さんの料理アイデアが生まれる場所。キノコや木の実などは自ら山に入って採りに出かけることも多い。

岩魚 グーズベリー
イワナに味噌溜まりをさっと塗って薪火で焼く。サワークリームに、ほろ苦いグーズベリー(西洋スグリ)の発酵エキス、セロリオイルが溶け込むソースで目にも鮮やかな一皿に。茅野市名産の寒天をトマトの発酵エキスでもどし、イワナの上に添える。歯ざわりのいいセロリのピクルスの酸味、薪火で焼いた枝豆とオクラの燻香がアクセント。

足したり引いたりしながら、地元の繊細な食材に寄り添う料理を

この地方は八ヶ岳の美しい湧水が野菜や川魚を育てていて、どの食材もみなピュアで繊細な味です。それまで塩も油も多めに使った力強い料理を作っていたので、同じ技法のままでは食材を活かせず、最初のうちは相当苦労しました。素材に何かを加えるというよりも、少し引き気味のほうがよい。長年培ってきたイタリア料理に対する概念を一度とっぱらって、一からここ八ヶ岳の麓の料理を編み出さなくてはならなかった。

他の食材との相性から、海の魚は使わず八ヶ岳の湧水で育てるマスやイワナを選ぶ。肉は八ヶ岳で育つバルバリー鴨や鹿、熊など。

手打ちパスタはグルテン強めの信州産小麦粉「華梓(はなあずさ)」を使用。「輸入ポルチーニ茸には力強いセモリナ粉の麺が合うが、長野の天然キノコには地粉が合う」と臼井さん。なおコースは八ヶ岳産ソバ粉で打つソバの、豆腐のすり流し仕立てで締める。

正直不安もあったし、恐さもありました。でも「地元の食材を理解し、寄り添う調理法をめざす」と決めたら、油や塩の量も自然と減りましたね。ただし一時期は減らしすぎたようで、ある日、友人から「精進料理でもめざしているの?」と言われたことも(笑)。その後、足したり引いたりをくり返し、今の料理に辿り着いたのが2年ほど前になります。

現在、昼夜ともに約12品のおまかせコース(1万7600円)を提供。地元の食材同士を掛け合わせると、全体が無理なく調和し、体にすっとなじむ料理になる。そんな品々で作るコースをめざしています。
以前は海の魚を使っていましたが、潮の風味が勝ってしまうので、八ヶ岳の清らかな湧水で育ったマスやイワナなど川魚を好んで使うようになりました。また、繊細な食材に寄り添うには既存の調味料では強すぎることもあり、発酵させた野菜や魚を調味料代わりに使うことも多い。素材を引き立てるには薪火の香りも重要な役目を果たしています。

ワインに関しても今はほとんどが長野産です。自家製生ハムにシャンパーニュをは強すぎたため、やさしい生ハムの旨みに合わせて水掛醸造所に微発砲の赤を特別に造ってもらって相性の良さを図っています。

料理を通して、この土地を知っていただく役目は大きい

僕がこの地で料理を作る上での役割は、地元食材を使うことで、土地の文化を知っていただくこと。旅する気分で料理を楽しまれるお客様も多く、長野に来たことで料理人としての役目が広がりました。

今、日本各地の地方でレストランを構える人が増えてきていることは面白い傾向だと思います。一度考えを捨てはしましたが、僕にとってイタリア料理が土台になっていることは間違いないし、むしろ郷土愛の精神は大いに影響を受けている。これからも八ヶ岳の麓の郷土色を生かした店であり続けるために、探究と挑戦を続けていきたいですね。

八ヶ岳湧水鱒
色鮮やかなマスと2種類のソースが、美しいコントラストを描く魚料理。マスは中心がミディアムレアになる程度に皮面もパリッと薪火で焼く。添えたのは、マスの脂と相性のよいサフランの風味を加えた、酒粕と白ワインがベースのクリーミーなソースと、発酵ホワイトアスパラガスのみじん切りをマヨネーズで和えたソース。付合わせは自家製アユ魚醤で味付けしたツルムラサキとモロヘイヤ。

臼井憲幸(うすい のりゆき)
1979年、神奈川県生まれ。都内のイタリア料理店で修業後、2009年に渡伊。エミリア=ロマーニャ州のリストランテや生ハム工房で働き、ピエモンテ州「オステリア・デル・カステッロ」で副料理長に。12年に帰国。都内でシェフを務め17年に長野県に移住。現在地でシェフを務めた後、20年4月に独立。

カエンネ ca’enne
長野県茅野市豊平
東嶽10222-25
TEL 050-3159-5561    
12:00〜、18:00〜
木、金ランチ休

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