新アリーナ開業で盛り上がる新港突堤とウォーターフロント再開発の歴史と未来 神戸市
来年春にいよいよ開業する『ジーライオンアリーナ神戸』と『TOTTEI PARK(トッテイパーク)』の建設・整備が進む新港第二突堤(愛称:TOTTEI トッテイ)を含む新港突堤エリアは、かつて“東洋一の港”と呼ばれ、海外貿易や物流の一大拠点として日本を支えてきました。
今回はそんな新港突堤の歴史や神戸ウォーターフロント再開発の歩み、アリーナやPARKの開業後の展望について神戸市港湾局の畔上慧さん、山本耕太さん、文化スポーツ局の橋詰清孝さんにお話を伺いました。港都・神戸の未来を見据えた取り組みと、その背後に秘められたストーリーを探ります。
アリーナやTOTTEI PARKができる「神戸港 新港突堤」誕生の歴史について教えてください!
畔上:現在の神戸港の歴史は幕末・明治時代から始まりました。ペリー提督の黒船来航をきっかけに、1868年(明治元年)に開港したと言われています。ただ、それ以前から「大和田の泊」や「兵庫津」などは地形的に船が安全に航行できたことから、平安時代の頃から外国との貿易港として栄えていました。
開港当時は今のような大きな船舶の出入りはなく、大型船を横付けするための場所もなかったので、たくさんの荷物や人を一気に運ぶことはできませんでした。
畔上:その後、時代が進むとともに船が大型化していく中、ふ頭や桟橋が必要となり、当時の大蔵省の主導で「神戸港第1期修築工事」が1907年(明治40年)に行われ、本格的な神戸港が形づくられていきました。その時、最初に整備されたのが今回アリーナのできる『新港突堤』で、今から110年前の1914年(大正3年)に完成しました。大きな船が横付けできるようになったことで海外貿易や文化人の交流が活発化していき、それに伴い、新たな産業や文化が神戸から日本に入り、日本の経済成長を加速させたのです。
有名なものでは洋服や映画、コーヒーなどがすべて神戸港から入ってきたと言われています。ちなみに当時の神戸港の管理は国が行っており、神戸市が港湾管理者になったのは1951年(昭和26年)からです。
畔上:新港突堤の完成後、突堤に横付けできる船は直接荷物を降ろしていましたが、横付けが難しい大きな船は沖の方にとどまり、小舟が沖の船まで荷物を取りに行き、それを陸に輸送する「はしけ輸送」が行われていました。「はしけ」は海に浮かべる大きな箱船のようなもので、小舟で「はしけ」を引っ張って沖の船まで行き、人力で荷物を担ぎ乗せ、また小舟で引っ張って陸に戻り、人力で荷揚げするといった感じです。
写真の時代(昭和45年・1970年頃)にはすでに街も港も近代化されていましたが、昭和初期までさかのぼると、輸送用の馬車が突堤付近を走っていたり、時にはふんどし姿で荷役する方々が10人ぐらい列をなして米俵を担いでいる様子の写真も残っています。こういった昔から、神戸は貿易港として間違いなく日本の発展を支え続けていました。
橋詰:新港突堤と江戸時代~明治初期に作られた波止場の違いは、構造物を垂直に作れるかどうかという点にあり、後者は打ち寄せる波で崩れないように傾斜をつける必要があり、船を横付けすることができませんでした。しかし新港突堤は、当時のオランダ・ロッテルダム港で考案された最新技術「ケーソン工法*」を用いて作られたので、垂直に立ち上げることが可能でした。
*「ケーソン」と呼ばれる大きなコンクリートの箱を用いて構造物の基礎または地下構造体をつくる工事およびその工法のこと。
かなりの難工事だったそうですが、「東洋一の港を目指す」という強い思いのもと実施されたそうです。新港突堤はケーソン工法を日本で初めて取り入れた建造物であり、今では日本が誇る近代化産業遺産のひとつに数えられています。
ちなみに新港突堤は複数の突堤が一定の間隔で並ぶ「櫛形突堤(くしがたとってい)」という形式で、建設当初には実は第八突堤までありました。過去の再開発で埋め立てが行われ、現在は4本になっていますが、ここまできれいな状態の櫛形突堤が残っている事例は全国的にも珍しいと思います。
橋詰:ちなみに、コンテナ船が登場するまでは新港突堤の内部に“鉄道の線路”が灘駅のあたりから引き込まれていて、国内輸送における重要な役割を担っていました。当時は蒸気機関車が主流で、機関車が神戸の街中を通る際には上部に設置された大きな鐘を「カランカラン」と鳴らしていたそうです。
それだけ重宝されていた新港突堤が「貿易港」としての役割を終えたのはいつ頃なんでしょうか?
畔上:大きな変化点は昭和42年(1967年)です。時代が下るにつれて輸送方法が人力から馬車、そして鉄道へと変化していく中、米俵や木箱など大きさや形のバラバラな荷物を運ぶことがどんどん非効率になっていき、いかに効率よく荷物を運ぶか世界中で研究が進められました。その結果、“20世紀最大の発明”と言われる「コンテナ革命」が海外で起こり、1967年(昭和42年)の9月にアメリカのコンテナ船「ハワイアンプランター」が神戸港の『摩耶ふ頭』に入ってきました。
そこから海上輸送の主役はコンテナ船へと移り、船舶の巨大化にも拍車がかかりました。船が大きくなるということは、水面より下に沈んでいる部分の深さも増していくので、水深が浅く、比較的小さな船舶を対象にしていた新港突堤には大きなコンテナ船を横付けすることができませんでした。
畔上:その結果、水深の深い沖合での輸送が増加し、神戸港の港湾機能は『ポートアイランド』や『六甲アイランド』へ徐々に移設されていき、その流れは昭和40年代から60年代にかけて加速しました。それに従い、港湾で働く人や会社もポートアイランド、六甲アイランドへ移っていき、新港突堤エリアは必然、活気が失われていくこととなります。
そんな旧来の港湾物流エリアを都市の魅力を高めるために利用転換していくことを目指して始まったのが『神戸ウォーターフロント』の再開発です。
再開発の背景にはそんな歴史の流れがあったんですね…!ちなみに再開発はいつ頃から行われ始めたのでしょうか?
畔上:神戸開港120年を記念して1987年(昭和62年)に『メリケンパーク』ができたことが、神戸ウォーターフロント再開発のスタートと考えられます。もちろん当時はウォーターフロントという言葉はあまり使われていませんでしたが、アメリカなど海外の成功事例を参考に、全国的なウォーターフロント再開発の先駆けとして進められたと聞いています。
メリケンパークもウォーターフロント再開発のひとつなんですね…!ちなみに現在「ウォーターフロント再開発」という言葉が指しているのはどのあたりの場所になるのでしょうか?
畔上:今の再開発の中心となっているのは、アリーナの建設が進む新港突堤西地区とポートタワーなどがある中突堤周辺地区ですね。それ以前だと2014年(平成26年)に第三突堤に『神戸三宮フェリーターミナル』が誕生し、2015年(平成27年)には『みなと温泉 蓮』がオープンしました。もっとさかのぼると、1998年(平成10年)の『HAT神戸』建設もありますね。ちなみにポートタワーはさらに古く、1963年(昭和38年)に完成しました。
そもそも、神戸ウォーターフロントという言葉はどこからどこまでのエリアを指しているんですか?
畔上:2011年(平成23年)に定めた「港都神戸グランドデザイン」の中では新港突堤を中心に、西はハーバーランド、東はHAT神戸までの辺りを指しています。またポートアイランドの一部も構想エリアに入っています。
ちなみに「港都神戸グランドデザイン」は社会の変化に合わせて2022年(令和4年)に更新し、現在は「神戸ウォーターフロントビジョン」として掲げています。
ここからは開業まで200日を切った『ジーライオンアリーナ神戸』ならびに『TOTTEI PARK』に関するお話を聞きたいです。アリーナ建設やパークエリアの整備は神戸市にとってどのような取り組みと位置付けられているのでしょうか?
畔上:一言で言うと“新たな神戸づくり”です。ただ大きな施設ができるだけとは思っていません。アリーナとPARKができる『新港第二突堤』は全長が350mほどで、土地としては決して大きいとは言えませんが、神戸の未来を見据えた時に生活・スポーツ・音楽・文化・観光・イノベーションなど様々な面で、新たな“個性”や“可能性”、“シビックプライド”が生まれる場所になるため、ポートタワーやメリケンパーク、ハーバーランドのようにウォーターフロントを代表するエリア・シンボルのひとつと位置付けています。
山本:開業後はアリーナを運営するOne Bright KOBEさんが様々なイベントを企画して賑わいを創出してくれる予定ですが、何かある時にだけ行く場所ではなく、普段から足を運びたくなるような、親しみのある場所にもなると嬉しいですね。港湾局も含めて官民が一体となって楽しいイベントを企画していきたいと思っています。
正直、神戸に住んでいると、新港突堤エリアに賑わい空間が誕生するイメージが中々わきません…。都心部の三宮や元町から遠く感じるといいますか。
畔上:確かにおっしゃる通りで、ウォーターフロントは海際なので、東西に長く移動にもそれなりに時間がかかります。でも、実は三宮の都心部からは徒歩約15分と意外に近く、話しながら歩いているといつの間にか到着している距離です。神戸にお住まいの方からすると、国道2号や阪神高速道路という“壁”の向こう側にあるというイメージが“心理的な距離”を長くしているのだと思います。
その点は私たちも大きな課題として捉えており、イベントなどのソフト面だけでなく、三宮とウォーターフロントを結ぶ南北の軸に、自然と足を運びたくなる、散策しやすい空間を伸ばしていくようなハード面での工夫も重視し、公共交通機関やモビリティなどの移動手段も充実させることで、心理的な距離も縮めていきたいと考えています。
確かに“印象”に縛られている部分はあると思いました。ソフト面ではどんなイベントの企画を目指しているんですか?
山本:例えば、同じウォーターフロントにある『メリケンパーク』では日々様々なイベントが開催されており、BE KOBEモニュメントもあることから、いつも多くの人で賑わっています。そんなメリケンパークを訪れた人にそのまま新港町へ足を運んでもらえるようにウォーターフロントの東西を結ぶような仕掛けづくりが必要ですね。あとは「みなとHANABI」のように海際だからこそできる“ウォーターフロントならではのイベント”もどんどん企画していきたいと思っています。
『TOTTEI PARK』の目玉と言えば海際に新たな「緑地」が生まれる点ですが、こちらの整備は神戸市の主導で行っているんですよね。海の目の前に木を植えるのはとてもチャレンジングな試みに感じます。
畔上:TOTTEI PARKは国土交通省が定めた制度「みなと緑地PPP」の全国初認定事例であり、現在は市の技術職員が知恵を絞りながら、メリケンパークや新港第一突堤、HAT神戸に植えられた木々も調査し、“潮風に強いなど、ウォーターフロントでも元気よく育つ木”の種類を調べており、その結果をもとにPARK内に植える木々の選別を行っています。
最後にアリーナ、PARKに対する思いをお一人ずつお願いします。
橋詰:アリーナとPARKの開業によって新港突堤を起点に賑わいが生まれることは、東洋一の貿易港として国内に新しい風を吹き込んでいたかつての神戸港の姿を思い出させてくれます。さらに、多くの方が港へ足を運んでくれるようになれば、先人たちが積み重ねてきた神戸港の歴史に触れていただく機会も増えるので、文化財課としても本当に嬉しく思います。
山本:当たり前の話かもしれませんが、『ジーライオンアリーナ神戸』と『TOTTEI PARK』が1日も早く神戸の街に馴染んで欲しいです。そして、神戸の人が街の良さを市外の人に説明する際、ポートタワーやメリケンパークとともに、ウォーターフロントを代表する魅力的なスポットとして、アリーナやPARKのことを自慢してもらえるようになると嬉しいですね。
畔上:これまで関わってこられた多くの方々の想いと頑張りによって、新たな神戸のシンボルが生まれようとしています。ここでは、たくさんの笑顔・思い出とともに、いろんな「新しい何か」が生まれ続けるはずです。間違いなく神戸の新しいステータスであり、新しい魅力であり、国内外から多くの方々を呼び込むと思います。バスケットや音楽ライブの面だけじゃない、私の想像よりもはるかに広くて大きい可能性を秘めているはずです。既にいくつかのプロジェクトも動き出しており、これからもアリーナを起点とした様々な取組みがどんどん成功して欲しいと思っています。