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スパゲッティ ナポリタンの誕生と進駐軍の関係性を追って見えてきた、街の“奥行き”。横浜『ホテルニューグランド』<後編>【街の昭和を食べ歩く】

さんたつ

後編P6232731ホテルニューグランド

文筆家・ノンフィクション作家のフリート横田が、ある店のある味にフォーカスし、そのメニューが生まれた背景や街の歴史もとらえる「街の昭和を食べ歩く」。第5回は和洋折衷の美を感じられる街・横浜の『ホテルニューグランド』で、当ホテルが発祥といわれる【スパゲッティ ナポリタン】。後編では、スパゲッティ ナポリタン誕生に至る経緯を、街の歴史とともにフォーカスします。

ホテルニューグランド

スパゲッティ ナポリタンの原初型は「脇役」だった?

1973年5月撮影、『ホテルニューグランド』前の通り(写真提供=横浜市史資料室)。

横浜『ホテルニューグランド』発祥の料理といわれるスパゲッティ ナポリタン。

話は開業時代にさかのぼる。『ホテルニューグランド』の初代総料理長は、スイス出身のサリー・ワイルという人物。パリのホテルでフレンチを提供していた超一流シェフであったが、格式めいたことに縛られるだけの人ではなかったようで、昭和初期の横浜にやってきてからも、品位を保ちつつ、米を使った「シーフードドリア」を発明したり(これも『ホテルニューグランド』発祥といわれる)、コース料理が主流だった日本のフランス料理に、ア・ラ・カルト(一品料理)での提供スタイルも取り入れたりと、柔軟性、遊び心をもっていた。

ワイル氏時代のメニューがホテルに残されているが、そこにあるメニューの一つにこんな表記がある。

〈スパゲチー・ナポリテイン〉

トマトを使ったパスタ料理だったという。ナポリでは煮込みなど、トマト料理を食べることが多いそうだ。そう、スパゲッティ ナポリタンの原初型が、すでに戦前にあったのである。ただ今のものとイメージはだいぶ違って、ゆでたパスタにトマトペーストをあえただけの料理で、完全な「脇役」だった。よく幕の内弁当など買うと、脇にちょこっとそえてあるシンプルきわまりない箸休めパスタ、あのイメージに近い。

『ホテルニューグランド』の総料理長がインスピレーションを受けた出来事

昭和20年(1945)8月30日撮影、国道1号を横浜へ向かって進駐する米軍戦車隊(写真提供=横浜市史資料室)。

では、いつ「主役」に抜擢されたかといえば、やはり戦後。

終戦するとすぐ米軍が進駐してきた横浜。総司令官マッカーサー元帥は、厚木飛行場に降り立つや、焼け野原の横浜に焼け残り、接収されていた『ホテルニューグランド』へまっすぐに向かい、数日を過ごした(ちなみに、マッカーサーが滞在した部屋はリニューアルされているものの、執務に使用したデスクと椅子が残されている)。

このころ、日本は飢餓状態にあった。耕作人、肥料の不足による凶作、植民地からの農作物の供給途絶で、戦時中よりも食糧不足が深刻化していた。横浜は、米第8軍が大挙進駐したが、米軍は自前で大量に食糧を持ち込んでいたのだ(このあたりを見ても、なぜ日本が負けたのかが分かるが……)。

接収されていたホテル内にも相当量の食品が積み上げられ、兵士はアメリカ式の食事をとっていた。ワイルの愛弟子であり、2代目総料理長となった入江茂忠氏は、とある話を耳にした。米兵たちはゆであげて塩コショウしただけのパスタに、ケチャップをぶっかけてかきこんでいたという——。入江氏はこの出来事にインスピレーションを受け、ホテルのメニューに加えられないかと考えた。しかしケチャップかけパスタではホテルのメニューになりえない。

『ホテルニューグランド』の接収解除は昭和27年(1952)である。ホテルには、スパゲッティがたっぷり残されていた。これに生のトマトや水煮のトマトなどをふんだんに使って入江氏が生み出したのが、「スパゲッティ ナポリタン」なのだ。日付は確定できないものの、スパゲッティ ナポリタンは昭和20年代に、産声をあげた。

進駐軍と2つのナポリタンの関係性

1981年1月撮影、『ホテルニューグランド』(写真提供=横浜市史資料室)。
1981年1月撮影、『ホテルニューグランド』(写真提供=横浜市史資料室)。

——話はこれで終わらない。

ワイル氏は、『ホテルニューグランド』の裏手で「センターホテル」という宿泊施設を経営していた。ここに石橋豊吉という料理人がいたのだが、彼が独立して店を開くことになった。その名は『センターグリル』。昭和21年(1946)創業以来、今に続く野毛の洋食店である。この老舗の名物も「ナポリタン」。そう、『ホテルニューグランド』のレシピから強い影響を受けているのだ。

「入江も石橋さんにアドバイスしたと聞いています」

広報・横山さんもうなずく。とはいえホテルで出すレシピと同じにはいかない。まず、生トマトなど戦後間もない時期は高価であった。

昭和20年(1945)5月29日、横浜大空襲の被害を受けた横浜市街(写真提供=横浜市史資料室)。

昭和20年(1945)5月の横浜大空襲で、市街地はほぼ焼け落ちていた横浜。関内や伊勢佐木町の焼け残っためぼしい建物、広大な土地は接収されてしまい、もともとこの地域にいた人々、復員兵、引揚者、仕事を求める大勢の労働者が、押し出されるようにして移った先が野毛であった。以来この街は猥雑極まりない一杯飲み屋と露店の連なる大衆の街となり、今に続いているのである。進駐軍が横浜へきていなかったなら、まったく違う姿になっていたはずだ。

『センターグリル』はこの街で商売をはじめるのだから、安くて、腹一杯になる料理を提供しなければならなかった。このとき、生トマトは使わず、手に入りやすかったケチャップをたっぷりと使った、我々のよく知るナポリタンが誕生した。

私が面白いと思うのは、昭和20年代に生まれた、いわば「風雅のナポリタン」と「気楽のナポリタン」、この両方ともが「進駐軍の関与によって生まれ、どちらも残った」こと。あらゆる人を受け容れてきた、横浜の奥行きが、ここに凝縮している。

『ホテルニューグランド』のスパゲッティ ナポリタン。

と書いていたら、ハマに繰り出したくなってまいりました。サザンの名曲よろしく「シーガーディアンで酔わされてもう、帰りたくない~」が、したい。パリッとしたジャケットでも羽織って、『ホテルニューグランド』のオーセンティックバー・『シーガーディアンⅡ』で名物カクテル「ヨコハマ」を飲んでから、ふらふら野毛までよろめいていって、川っぺりの小さなスナックでこれを歌う。ね、受け止めてくれるんですよ、ハマは。

ホテルニューグランド
住所:神奈川県横浜市中区山下町10/定休日:無/アクセス:横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅から徒歩2分

取材・文・撮影=フリート横田

フリート横田
文筆家、路地徘徊家
戦後~高度成長期の古老の昔話を求めて街を徘徊。昭和や盛り場にまつわるエッセイやコラムを雑誌やウェブメディアで連載。近著は『新宿をつくった男』(毎日新聞出版)。

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