なぜ『日本書紀』には卑弥呼が登場しないのか?最新研究で迫る「邪馬台国連合」の存在【新・古代史】
卑弥呼と三国志、空白の四世紀と技術革新、倭の五王と東アジア情勢──。最新調査で見えてきた「日本」という国の始まりを豊富な写真資料とともに描き出した『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』より、第2章「最新研究で迫る邪馬台国連合」の冒頭を特別公開。私たちの国はどのようにまとまり、発展してきたのか? そのルーツに迫ります。
最新研究で迫る「邪馬台国連合」
前章では、佐賀県・吉野ヶ里遺跡、奈良県・纒向遺跡といった邪馬台国の有力な候補地とされる現場で、どのような研究が行われてきたかを見てきた。本章では、邪馬台国を中心に構成された「邪馬台国連合」についても、現在どのような調査研究がなされているかを確認していく。
当然ではあるが、現在の日本という国は、日本列島全体および南西諸島を指す一つにまとまった国である。しかし、過去に遡れば、日本列島の各地には多数のクニグニが存在した。それが、いつの時代から一つの国へとまとまろうと動き始めたのか。その原動力となったのはいったい何だったのか。「邪馬台国連合」が誕生する過程から、その謎に迫っていく。
邪馬台国連合をなした国々とは
「魏志倭人伝」によると、邪馬台国は三十余のクニグニ、すなわち、対馬(つしま)、一支(いき)、末盧(まつろ)、伊都(いと)、奴(な)、不弥(ふみ)、投馬(とうま)、斯馬(しま)、巳百支(しはき)、伊邪(いや)、都支(とき)、弥奴(みな)、好古都(ここと)、不呼(ふこ)、姐奴(そな)、対蘇(つそ)、蘇奴(そな)、呼邑(こお)、華奴蘇奴(かなそな)、鬼(き)、為吾(いご)、鬼奴(きな)、邪馬(やま)、躬臣(くし)、巴利(はり)、支惟(きい)、烏奴(うな)、奴(な)、といった諸国の頂点に立つクニであったとされる。
そして、これらのクニグニがまとまったものが、邪馬台国連合だ。「魏志倭人伝」には、それぞれのクニの役割や、そこで導入されていた制度についても記されている。
租賦を収むるに、邸閣有り。国国に市有り、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。女王国より以北には、特に一の大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国 之を畏憚す。常に伊都国に治し、国中に於て刺史の如く有り。王 使を遣はして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、及び郡の倭国に使ひするや、皆 津に臨みて捜露し、伝送の文書、賜遣の物をして、女王に詣り、差錯あるを得ざらしむ。
租と賦を収納するために、邸閣〔倉庫〕がある。国々には市があり、有無を交易し、大倭にこれを監督させている。女王国〔邪馬台国〕より北には、特別に一人の大率を置き、諸国を監察させている。諸国は大率を恐れ憚っている。(大率は)常に伊都国を治所とし、倭国の内で(の権限は中国の)刺史のようである。女王が使者を派遣して京都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に至らせるとき、および帯方郡が倭国に使者を送るときにも、みな(大率が) 津で臨検して確認し、伝送する文書と、下賜された品物を、女王に届ける際に、間違えることのないようにさせる。
邪馬台国連合の一角をなす伊都国には、諸国を検察するため常駐していた「一大率」という官が特置されており、諸国はこれを畏憚していたと伝えられている。また、国中には古代中国の地方官である刺史に類する官があった。魏の都、洛陽や帯方郡などに使者を派遣する場合や、帯方郡の使者が倭国を来訪した際には、船着場で捜査し、文書や物資を女王のもとに伝送するのに誤りがないようにしていたと考えられている。
さらにクニグニには市があって、物資の交換取引を監督する「大倭」と呼ばれる役人がいた。邪馬台国連合には高度な官位制が取り入れられており、小さなクニグニがまとまり、政治体制を運営していた様子がうかがえる。まさに、私たちの国がどのようにまとまり、発展してきたのか、そのルーツを邪馬台国連合から垣間見ることができるのだ。
なぜ『日本書紀』に卑弥呼が登場しないのか?
では、いったい邪馬台国連合を構成していた勢力とはどのようなものであったのか。高校で用いられる歴史教科書『詳説日本史』(山川出版社、二〇二三年)には次のようにある。
「近畿説をとれば、すでに3世紀前半には近畿中央部から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立していたことになり、のちに成立するヤマト政権につながることになる。一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国連合を統合したか、あるいは邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる」
またもや九州説と近畿説で見解が分かれるのだが、九州説が、邪馬台国とヤマト王権とを切り離して考える理由の一つに、『日本書紀』の存在がある。『日本書紀』は、七二〇年(養老四)に完成したとされる歴史書で、そこに卑弥呼に関する記述がないのだ。
もしも、邪馬台国が纒向にあって、倭国の王都としてそのまま近畿でヤマト王権へとつながっているのならば、国の始まりの女王である卑弥呼についての伝承が何らかの形であるはず。それが一切ないということは、卑弥呼のいた邪馬台国は、近畿でヤマト王権となった勢力とは違う地域、すなわち九州にあったのではないか、というわけである。
それでは、九州説ではどのような勢力が邪馬台国連合を形づくったと考えられているのか。小郡市埋蔵文化財調査センター所長の片岡宏二さんは、吉野ヶ里遺跡に匹敵する大規模な遺跡が九州北部には数多く存在していることから、そうした大規模な集落がネットワークで結ばれ、邪馬台国連合を形づくっていたのだという。
その一つが一九九〇年代に発見された平塚川添遺跡。福岡県朝倉市甘木・小田にある集落跡で、筑後川とその支流によって形成された肥沃な平野にある大規模な多重環濠集落跡だ。これまでの発掘調査では、竪穴住居跡が約三〇〇軒、身分の高い人が住んだとされる掘立柱建物跡が約一五〇棟確認されている。
集落の中央部は約二ヘクタールの広さがあり、それを内濠が囲み、その外側に二重の濠が存在するなど、二世紀から三世紀頃の弥生時代後期にかけては、水濠に囲まれた大集落となっていたと推測されている。
こうした大規模集落の近くには、「監視集落」と呼ばれる集落がいくつも存在する。例えば、福岡県みやま市に位置する標高四八メートルの女ぞ山やまという山の中腹にある三船山遺跡。住居が数軒だけしかつくられず、近くには田畑などもなく生活の匂いがしない不可思議な集落である。
では、どんな役割の集落だったかというと、まさに監視のためだった。三船山遺跡は、新井白石が九州説を唱えるきっかけとなった山門遺跡群という大きな遺跡を一望できる場所にある。この場所から中と外の出入りを見張ることで、外敵の襲撃からクニを守る役割を果たしていたとも考えられている。
「魏志倭人伝」には、弥生時代後期の二世紀後半に倭国で起こったとされる争乱である「倭国乱」の記述がある。片岡さんは筑紫平野に固まっていた大きな集落の数々が、争いの時代を生き抜くために、共同で敵の侵入を監視していたと見ている。
纏向遺跡から出土する各地の土器
一方、近畿説ではどんな勢力が邪馬台国連合を形づくったと考えられているのか。その手がかりとされるのが、纒向遺跡の出土物だ。
纒向遺跡では様々なクニの人々がここに集っていたと考えられる状況証拠が発掘で見つかっている。その一つが土器の破片。修復してつなぎ合わせると、土器の形や表面に描かれている紋様などから、どの地方の土器かがわかる。例えば、複数の線が弧を描くように刻まれた紋様は「弧紋」と呼ばれ、纒向から二〇〇キロ離れた吉備に由来するものだと推定される。
纒向遺跡からは、これまでに九州から関東まで列島各地の土器が出土している。土器は食料の貯蔵や儀式などに用いられ、当時の人々の暮らしと密接に関係した。そのため、纒向から様々な地域の土器が出土することは、多くのクニの人々が纒向に集まっていた証拠とも言えるのだ。
纒向遺跡と関係があるとされる地域の勢力を具体的に見てみよう。まずは、極めて強大なクニだった出雲地方。出雲と言えば伝説の怪物ヤマタノオロチの神話が伝わり、「因幡の白兎」で有名なオオクニヌシノミコトが住んだとされる土地だ。
弥生時代の祭祀に使われた銅鐸が日本で一、二を争うほど多く出土しているなど当時の繁栄は明らかである。弥生後期には、石で覆われた四つの隅から手が伸びたような幾何学的な形の巨大な墓がつくられ、四隅突出型墳丘墓(西谷墳墓群)と呼ばれている。
次は、九州北部に位置すると考えられる「伊都国」。王が埋葬されたとされる福岡県糸島市の平原王墓(平原遺跡一号墓)は、四角くて小さい墓だが、その特徴は出土した鏡にある。指導者の墓に鏡を埋めるのは、この地の古くからの伝統であり、太陽への信仰を象徴するとされる。その数、じつに四〇枚。
鏡は、『古事記』や『日本書紀』にアマテラスオオミカミの分身だとある。伊都国に、鏡を王の墓におさめる伝統があると考えられることから、ヤマト王権を中心としたアマテラス信仰と、九州北部との関係が指摘されている。
さらに、瀬戸内海の要衝である吉備も、独特の墓の文化を持つ一大勢力だった。岡山県倉敷市に所在する楯築遺跡は、弥生時代後期につくられた墳丘墓で、吉備の王が埋葬されたと言われている。墓は、円丘部とその両側に長方形の突出部を持つ特異なフォルムから、双方中円形墳丘墓と呼ばれる(下の画像左参照)。
一九七〇年代に行われた開発工事で突出部の大部分は破壊されたが、消滅した突出部を含む全長は約八〇メートルと推定され、同時期の墳丘墓では全国で最大級の大きさを誇る。
遺跡のもう一つの大きな特徴が、不思議な土器の存在だ。円筒形で穴や模様が刻まれた特殊器台と呼ばれ、神様への供え物を入れたとされる壺が上に載る(上の画像右参照)。墳丘に並べて、死者を祀ったのではないかと推定されている。
NHKスペシャル取材班
私たちの国のルーツを掘り下げ、古代史の空白に迫るNHKスペシャル「古代史ミステリー」の制作チーム。他にもこれまで「戦国時代×大航海時代」「幕末×欧米列強」といったテーマを掲げ、グローバルヒストリーの観点から新たな歴史像を描いてきた。