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【特集】江戸時代の〝メディア王〟蔦屋重三郎の仕事─消費者の視点で、人々が楽しむもの、面白いものを追い求めた男

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【特集】江戸時代の〝メディア王〟蔦屋重三郎の仕事─消費者の視点で、人々が楽しむもの、面白いものを追い求めた男

上野の東京国立博物館で、特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」と題した展覧会が開催中である。
〝蔦重〟こと蔦屋重三郎は、現在放送中の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(NHK)の主人公。オリジナルの著作物を作り販売する、今で言う〝コンテンツビジネス〟を革新し続けた男で、その根底には、常に消費者の視点に立った、人々が楽しむもの、面白いと感じるものを追い求めるという才気と実行力があった。
それは、出版業界における編集者としての基本の姿勢と言えるだろう。

 大河ドラマの主人公にもなった蔦屋重三郎(以下・蔦重)は、いかにも今風に〝江戸のメディア王〟といった華やかなうたい文句で語られることが多い。他にも〝江戸のネットワーカー〟、〝コンテンツビジネスの先駆者〟、〝浮世絵界のゴッドファーザー〟といった具合で、蔦重の功績を思えばどれも決して大げさではないのだが、個人的にはシンプルに「編集者」と呼びたい。「蔦重は編集者である」と言い切ったほうがしっくりくるし、彼の本質がよく見えてくる。

 そこで気になるのが「編集」という言葉である。編集とは何か。実は編集という漢字2文字がこれを見事に表している。編集の「編」は編むこと。言い換えれば、組み合わせること、構成することである。「集」は集めることだ。つまり編集とは「集め、編む」ことである。では何を集め、編むのか。情報である。情報を集めて組み合わせ、何かを創造し、人に伝える。これが編集の基本である。

 本も雑誌も、ライターやカメラマンやデザイナーといった多くの人が関わりながら、誌面を文章や写真やイラストなどの情報で構成する、つまり編集することで成り立っている。その中心にいるのが編集者だ。蔦重はその才能が際立っていた。

▲(左)『箱入娘面屋人魚』山東京伝作 墨摺小本 寛政3年(1791)正月 東京国立博物館蔵 通期展示※会期中、頁替えが行われる/(右)『古今狂歌袋』宿屋飯盛撰/北尾政演(山東京伝)画 彩色摺大本 天明7年(1787)東京国立博物館蔵 通期展示※会期中、頁替えが行われる

初めて出版に携わった吉原遊郭のガイドブック

 1750年に江戸の新吉原で生まれた蔦重が編集者として頭角を現すのは20代半ば。親戚の家の軒先を借りて「耕書堂」の名で貸本屋を始めた蔦重は、吉原遊郭のガイドブックともいうべき『吉原細見』で初めて出版に携わる。『吉原細見』は年2回の発行。どの遊郭にどんな遊女がいて、料金はいくらかを調べ、改訂するのが蔦重の役目だった。なにしろ遊女の数は2000人以上。吉原で生まれ育った蔦重だからできる情報収集だった。

 しかも、蔦重は画期的な仕掛けをする。『吉原細見』の巻頭の序文を、学者であり人気戯作者でもあった平賀源内に書かせたのだ。今なら、外国人向けの日本の観光ガイドブックの帯に漫画家・尾田栄一郎(『ONE PIECE』の作者)のコメントが入るようなものだろうか。そんな発想を250年も前にしたのが蔦重だった。

 同じ時期に、蔦重は遊女を当時流行していた生け花に見立てた評判記『一目千本』を刊行している。美しい花と遊女を重ねた企画で、馴染みの客にしか配布しない販促物だった。しかし、この本がほしいからと吉原には客足が戻ったともいわれる。さらに『吉原細見』の版権を獲得して版元になると、サイズを小型本から中型本に変更した。見やすくなったうえ、ページが減ったことにより紙代や版木代の経費も大幅に削減された。安く買えるようになったのだから、読者が増えるのは道理だった。

 この頃から蔦重の快進撃が始まる。33歳で老舗の本屋が並ぶ日本橋に出店すると、風刺や滑稽を織り交ぜた黄表紙や洒落本などの娯楽本を次々にヒットさせた。そして狂歌がブームになれば狂歌集や狂歌絵本を出版し、やがては浮世絵の世界にも進出していくのだが、ここで少し視点を変えて、編集者にはどんな資質が求められるかを考えてみたい。

▲特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」会場

作家開高健が挙げる編集者としての資質をすべて備えていた蔦重

 
 作家の開高健が「編集者かくあるべし」と、以下のような『出版人マグナカルタ九章』をエッセイに記している。

①読め。
➁耳をたてろ。
➂夜寝るときも眼を開いたままで眠れ。
➃右足で一歩一歩歩きながら左足で跳べ。
➄トラブルを歓迎しろ。
➅遊べ。
⑦飲め。
➇抱け。抱かれろ。
➈森羅万象に多情多恨たれ。    
(開高健著『一言半句の戦場』より)

▲「雛形若菜初模様 丁字屋内ひな鶴」礒田湖龍斎筆 大判錦絵 安永4年(1775)頃 東京国立博物館蔵
前期展示:4/22~5/18

 
 芥川賞作家の開高健は、若い頃は寿屋(現・サントリー)の宣伝部員として伝説のPR誌を手がけている。2万部程度だった発行部数が20万部まで伸びたのは宣伝色が薄く、内容が抜群に面白かったからだ。そんなPR誌の編集兼発行人を務めた作家が挙げる9項目。おそらく蔦重にはすべてが備わっていたはずである。

 ①、➁、➂、➅、⑦はよく飲み、よく食べ、よく遊びながらも常にアンテナを張り巡らせ、大事な情報をキャッチしろということだ。➈はあらゆることに好奇心を持って接しなさいという意味である。➃については、そんなこと器用なことはできないよと思う人は多いだろう。これは「ときには細心に、ときには大胆に」と解釈してもいいし、「堅実な仕事と冒険する仕事を両立させなさい」と解釈してもいいとぼくは思っている。

 新しい分野に次々に挑み、新機軸を打ち出していった蔦重だが、実は手堅い仕事もきっちりこなしている。その一つが往来物と呼ばれる寺子屋などで使うテキストだ。この時代は商人向けの「商売往来」や武士向けの「武士往来」など数多くの往来物が刊行され、蔦重もこうした実用書に取り組んだ。往来物は爆発的には売れないが確実な需要が見込めるため、経営の安定化につながった。蔦重が台頭したのは日本全国で寺子屋が増え、識字率が飛躍的に高まり、本の需要が一気に拡大した時代でもあったのだ。

 ➇は恋愛を自分自身の糧にしろという意味だが、広く人間関係のことを言っているとも解釈できる。才能や魅力を感じた人の懐に飛び込み、自分も相手を受け入れる。これもまた編集者に求められる資質だろう。蔦重は江戸が狂歌ブームで沸くと、「蔦唐丸」を名乗って自ら歌会を催した。そこには大田南畝のような狂歌の第一人者ばかりか、戯作者、浮世絵師、出版人など、さまざまな人々が集った。一種のサロンを形成したのである。こうした人的交流を易々とやってのけるのが蔦重である。その才能は「ネットワーカー」というより、「人たらし」と呼ぶほうがふさわしい。

 狂歌を通じて見出した一人がまだ無名だった頃の喜多川歌麿である。蔦重は歌麿を自分の店に住まわせ、専属絵師のような形で重用した。若い頃の曲亭馬琴も耕書堂で働かせているし、ブレイクする以前の葛飾北斎とも仕事をしている。蔦重の新しい才能を見る目はたしかだった。

▲『画本虫撰』宿屋飯盛撰/喜多川歌麿画 彩色摺大本 天明8年(1788)正月 千葉市美術館蔵 前期展示:4/22~5/18(後期は別本を展示)

窮地にこそ発揮される蔦重の独創的な手腕

➄は蔦重の真骨頂でもある。トラブルに見舞われても、窮地に立っても、それを好機に変えて新しい道を切り拓いていく。そもそも蔦重のように前例のないことをやれば波風は立つ。当然、同業者からの横やりや嫌がらせは多々あるわけで、大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」もその顛末が見どころになっている。そして、蔦重にとって生涯最大の窮地が訪れたのは松平定信による寛政の改革にともない、山東京伝と組んだ洒落本が絶版となり、財産の半分を没収されたときだろう。

▲(左)『歌まくら』(部分)喜多川歌麿画 横大判錦絵折帖 天明8年(1788) 浦上蒼穹堂蔵 前期展示:4/22~5/18(後期は別本を展示)/(中央)「当世踊子揃 鷺娘」喜多川歌麿筆 大判錦絵 寛政5~6年(1793~94)頃 東京国立博物館蔵 前期展示:4/22~5/18/(右)「青楼十二時 続 戌ノ刻」喜多川歌麿筆 大判錦絵 寛政6年(1794)頃 東京国立博物館蔵 前期展示:4/22~5/18

 

 このとき蔦重が打った起死回生の一策が浮世絵の企画・出版だ。それも顔を大胆にクローズアップした美人大首絵である。これを美人絵なら右に出る者がいないと言われた喜多川歌麿が描き、全身図では表現しきれなかった女性の内面まで表現した。さらに、蔦重は無名の絵師・東洲斎写楽に役者の大首絵を描かせた。芸術的なデフォルメと豊かな描線が役者の個性を鮮やかに写し出し、観る者の度肝を抜いた。しかし当時の写楽に対する評価や人気は必ずしも高くはなく、写楽はわずか10カ月で姿を消し、蔦重もその3年後には帰らぬ人となった。写楽が正当に評価されるまでには100年以上の歳月を要した。今ではレンブラント、ベラスケスに並ぶ世界三大肖像画家の一人に挙げられ、写楽の名は浮世絵の代名詞にもなっている。蔦重と写楽の仕事は時代のはるか先を行っていたのである。

▲(左)「大坂新町東ノ扇屋 花扇太夫」栄松斎長喜筆 大判錦絵 寛政(1789~1801)中期頃 東京国立博物館蔵 後期展示:5/20~6/15/(右)「四季美人 雪中美人と下男」栄松斎長喜筆 大判錦絵 寛政4~6年(1792~94)頃 東京国立博物館蔵 前期展示:4/22~5/18

「どうでぇ、世の中にはこんなスゲェ絵があるんだぜ。おもしれぇだろ。俺はおまえさんの喜んだり、びっくりする顔が見たくって、この仕事をやってんだ」

 写楽の独創的な役者絵を見ていると、蔦重の威勢のいい声が聞こえてくるようだ。

▲(左)重要文化財「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」東洲斎写楽筆 大判錦絵 寛政6年(1794)東京国立博物館蔵 前期展示:4/22~5/18/(中央)重要文化財「市川鰕蔵の竹村定之進」東洲斎写楽筆 大判錦絵 寛政6年(1794)東京国立博物館蔵 後期展示:5/20~6/15/(右)重要文化財「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木」東洲斎写楽筆 大判錦絵 寛政6年(1794) 東京国立博物館蔵 前期展示:4/22~5/18

米谷紳之介(こめたに しんのすけ)
1957年、愛知県蒲郡市生まれ。立教大学法学部卒業後、新聞社、出版社勤務を経て、1984年、ライター・編集者集団「鉄人ハウス」を主宰。2020年に解散。現在は文筆業を中心に編集業や講師も行なう。守備範囲は映画、スポーツ、人。著書に『小津安二郎 老いの流儀』(4月19日発売・双葉社)、『プロ野球 奇跡の逆転名勝負33』(彩図社)、『銀幕を舞うコトバたち』(本の研究社)他。構成・執筆を務めた書籍は関根潤三『いいかげんがちょうどいい』(ベースボール・マガジン社)、野村克也『短期決戦の勝ち方』(祥伝社)、千葉真一『侍役者道』(双葉社)など30冊に及ぶ。最新刊に『小津安二郎 粋と美学の名言60』(双葉文庫)がある。

特別展 蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児

本展では、本を、人を、時代をプロデュースした蔦重の全体像が、約250作品で紹介される。
第1章「吉原細見・洒落本・黄表紙の革新」、
第2章「狂歌隆盛―蔦唐丸、文化人たちとの交流」、
第3章「浮世絵師発掘―歌麿、写楽、栄松斎長喜」
そして、附章として、大河ドラマとも連携し、蔦重が活躍した天明・寛政期の江戸の街が再現展示される。展示作品からは、蔦重の鋭い先見性、編集眼と戦略、際立つプロデュース力に加え、蔦重自身の遊び心、粋さ、審美眼、芸術性といった部分までが浮かび上がってくる。熱心な大河ドラマファンのみならず、前のめりになる展示内容である。
ちなみに大河ドラマで主役の蔦重を、頭の天辺から足の裏まで蔦重そのもののような、まさに当たり役とも言える芝居で魅せている横浜流星が、音声ガイドナビゲーターを務める。

(展覧会情報)
〔会場〕東京国立博物館 平成館(東京都台東区上野公園13-9)
〔期間〕4月22日(火)~6月15日(日)※会期中、一部作品の展示替え有り
〔休館〕月曜日
〔開館時間〕9:30~17:00
※毎週金・土曜日は20時まで開館
※入館は閉館の30分前まで
〔問〕050-5541-8600(ハローダイヤル)
展覧会公式サイト:https://tsutaju2025.jp/

▲特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」会場

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