いまこの惑星に生きているすべての人は、地球にとって決定的な時代となるであろう「150 年」のただなかにいる
わたしたちがどう生きるかによって、次の世代が22世紀を無事に迎えることができるか否かが決まる。世界的ベストセラーの哲学小説『ソフィーの世界』の作者が未来のソフィーたちのために、今のわたしたちに必要なのは、何をおいても「生について」哲学することだ、と著者は言います。すべてをあたりまえに受け入れるおとなになってしまう前に、ゴルデルとともに思考の旅をしてみませんか?
*本記事は、『未来のソフィーたちへ 「生きること」の哲学』より一部抜粋・再構成したものです。
魔法の国
オスロ郊外の、当時はまだできたばかりのニュータウンでわたしは育った。トンセンハーゲンというところだ。3歳か4歳のころに引っ越してきて、10年くらいそこに住んでいた。この街で過ごした子ども時代の思い出のなかには、まるで暗い万華鏡の底から浮かび上がってくるような、いくつかの鮮やかな光景がある。それらはひとつに連なりながらも、同時にてんでばらばらだ。
そんな記憶のかけらのひとつを、これからきみたちに話そう。わたしにとっていちばんというくらい、鮮やかな記憶だ。
ある日の昼間― あれはたしか日曜日だったと思う―わたしはふいに衝撃とともに、この世界をいわば初めて目にした。まるで、目を開けたらそこに、おとぎ話に出てくる魔法の国が広がっていたかのようだった。鳥たちはフルートかグラスを鳴らすような美しい音色でさえずりだし、路上で遊ぶ子どもたちの姿は神々しいまでに輝いている。何もかもがメルヘンの世界のようで、奇跡に満ちていた。そして、そのただなかにわたしはいた。心こころ震える深い神秘の内側、だれにも解けない謎に包み込まれるように。どこかべつの現実に――べつの泡のなかに、迷い込んでしまったような感覚だった。白雪姫やシンデレラ、ラプンツェル、それに赤ずきんの世界のようだ。
魔法にかかっていたのはほんの一瞬だったけれど、あの甘い衝撃はその後も長いこと体の奥おく底に残りつづけた。そしてそれ以来ずっと、わたしをとらえて完全には放してくれない。
あの数秒のあいだに、わたしは生まれて初めて、自分はいずれ死ぬのだと理解した。それはいまこの世界にいることの代償なのだと。
自分はいま、おとぎ話のような世界のなかにいる。まるでかなうはずのない夢がかなったような、すばらしい気分だった。けれど、この世界のわたしはただの来訪者にすぎない。ここはわたしの実の家ではなかったのだ。自分はここに永遠にいられるわけじゃない。そう考えると、耐えがたい思いがした。
わたしとこの世界を結ぶつながりは、はかなくて、ほんのつかの間しか保たれない。わたしという存在が続く、短いあいだだけしか。
この世界でわたしはひとりだった。夢を見るとき、夢のなかには自分しかいない。それと同じだ。べつのだれかが(いわば客演俳優として)夢に出てきたとしても、わたしはわたしのままだ。魂は、隣りあって羽ばたきはしても、混じりあうことはない。
眠りの世界におけるそんな他人との距離感を、起きているときにも感じることは多々あった。それでもわたしは、どうしても自分のあの体験をだれかに語らなくてはと思った。といっても、友だちに話すのはやめておいた。だって、彼らにどう伝えたらいいんだ?
あのころ、学校の行き帰りに友だちどうしでしゃべっていたことといえば、ユーリ・ガガーリンのことや(彼は宇宙に行ったんだ!)、ビャルケにある競馬場の馬のこと、オーストリアのインスブルックで開かれていた冬季オリンピックのこと……そんなことばかりだった。放射線測定器があればウランを見つけて大金持ちになれるとか、ロールス・ロイスみたいな高級車がパンクしたら整備士がヘリコプターでかけつけてきて、その場ですぐに修理するんだとか。
自分が生きているのが「変」な気がするなんて、友だちにはとても言えなかった。十一歳か十二歳かそこらの健康な少年が、死ぬのを恐れているなんて。そんなのは、仲間どうしの「いつもの会話」のルールに反する。おきまりのパターンにのっとったおしゃべりをくだらない話で乱すなんて、けっして許されない。そこでわたしは、学校の先生や両親に頼ることにした。先生や父や母なら、きっと生と死について多少くわしく理解しているはずだ。だって彼らはおとななんだから!
わたしはおとなたちに疑問を投げかけてみた。ぼくたちが生きてるのって、変じゃない? 世界が存在するって― そもそも、何かが存在するって、変じゃない?
ところが、おとなたちは子ども以上に空っぽだった。少なくとも、当時のわたし自身よりも空っぽだと、わたしには思えた。きっと、彼らおとなはこういう疑問をとっくの昔に「卒業」していたんだろう。
おとなたちは、まるで変なのはおまえだとでも言うように、こちらを見るばかりだった。
どうして、シンプルに「そうだね」と言わないんだろう? 「そうだね、わたしたちが生きてるって考えたら、たしかに変だ」、そう答えたっていいはずだ。それどころか、少しばかり神秘的だと認めてくれたっていい。それか、まったく常軌を逸した、とんでもないことだと! けれど、わたしの見るかぎり、彼らおとなはただひたすら、そんな問いをぶつけられたことを気まずく感じているようだった。もしかしたら、この子は次にどんな質問を思いつくのかとびくびくしていたのかもしれない。おとなたちはとたんに不安げな目になり、視線を泳がせた。それは痛烈なショックだった。だって、わたしは世界を発見したのに!
最初のうち、わたしはあれこれ考え、自信をなくし、とほうにくれた。悪いのは自分のほうなんだろうか? 自分は何かを見逃したか、うまく理解できていないんだろうか? そう、たとえば死について。なにしろ、これについて自分に実際何がわかるだろう?
それとも、おとなたちはただたんに世界について話したくないんだろうか?
何かがあること、存在することについて!
おとなたちからすれば、この真実について何かを語るなんて、とんでもないということか。
それは1960年代初めごろのことだった。全知全能の神が6日間で天と地を創造したとは、たぶんほとんどのおとながもはや信じなくなっていた時代だ。
天地創造の物語のことは、わたしもよく知っていた。小さいころに学校で習っていたし、あの壮大な物語をすべて読んでくるという宿題を出されることもあった。それどころか、翌日にその内容を覚えているかどうか抜き打ちでテストされるおそれもあったものだ。それなのに、わたしの質問に対して、このことをもちだしたおとなはいなかった。
わたしが投げかけた問いは、キリスト教の教えとはまったくべつの種類のものだった。郷土の歴史とか、地理なんかともぜんぜんちがう。あれはまさに「不適切な問い」だった。「赤ちゃんはどこから来たの?」と尋ねるのと同レベルのものだ。ちなみに、こちらの謎については、わたしはすでに答えを突き止めていた。
いつだったか、書棚に並ぶ本の後ろに隠れるように置かれていた、一冊のイラスト入りの本を見つけたことがある。それでわたしは偶然、できたての赤ちゃんが口には出せない理由によって母親のお腹のなかに宿ることを知った。それは、どうしようもないこの世の摂理だ。ただし、その営みについて子どもたちに漏らしてはいけない。なぜなら彼らには、両親の犯した恥の重みを受け止めきれないからだ。子どもだった当時のわたしにとっても、それを受け止めることは難しかった。あの本を手にとって以来、わたしはもう二度とベビーカーを押す女の人を以前のように何気なく平静な目で見ることはできなくなっていた。
でもそれじゃあ、真っ昼間にキッチンや居間で父や母に「世界はどこから来たの?」と尋ねることは、赤ちゃんがどこから来たのかについて尋ねるよりもっと恥ずかしいことなんだろうか?
わたしはときにおとなたちを見上げて、ほとんどすがるようにたたみかけた。それじゃあ、この世界はぜんぜん変じゃないって言うの?
返ってきた答えは、ひどいものだった! 「ああ、そうだよ、変じゃない」。彼らはそう請けあった。「もちろんだとも、まったく正常だよ」
それはむしろ力説するような口調だった。それにたしか、こうも付け加えられたと思う。「そんなことをあまりくよくよ考えちゃだめだ」
そんなこと、だって?
おとなたちの言いたいことは想像がつく気がした。この世界が変じゃないかだなんて、そんなことを考えすぎていたら自分の頭のほうが変になってしまうと言いたいんだろう。
父や母や先生たちは、世界のことを――この世界のことを! ――結局のところまったくふつうだと思っているようだった。少なくとも、口に出してはそう言っていた。でも、わたしにはわかる。もし噓をついているんじゃなければ、おとなたちはまちがっているんだ。
自分が正しいことはわかっていた。わたしは、おとなになんかならないと心に決めた。この世界をあたりまえだと受け入れてしまうようなおとなには、けっしてなるものか。
それから何年もあとになって、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画「未知との遭遇」を観た。
この映画の原題は「Close Encounters of the Third Kind(第三種接近遭遇)」。どういう意味かというと、まず空に浮かぶUFOを目撃したら、それは第一種の「遭遇」だ。異星人が宇宙から来訪したことを示す物理的な証拠を見つけることは、第二種の遭遇にあたる。そして、ラッキーにも(あるいは不運にも)異星人と直接コンタクトしたら、それが第三種遭遇だ。なるほど、すごい!
けれどその晩、映画館を出ながら、わたしは気づいた。異星人とコンタクトなんて、そんなのたいしたことじゃない。だって、わたしは第四種の遭遇を経験しているんだから。
そう、わたし自身が、謎だらけの異星人なんだ。そう思うと全身に震えが走るのがわかった。
あれ以来、幾度となくそのことを考えてきた。毎朝目覚めるたびに、わたしのベッドには「異星人」がいる。そしてそれは、わたし自身なんだ!