白く美しい姿はどのように取り戻されたのか。姫路城平成の大修理:伝統の技と心を、未来へとつなげ──試し読み【新プロジェクトX 挑戦者たち】
情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。『新プロジェクトX 挑戦者たち 6』より、第二章「白鷺城はよみがえった――世界遺産・姫路城 平成の大修理」の冒頭を特別公開。
白鷺城はよみがえった――世界遺産・姫路城 平成の大修理
1 姫路の空に「白鷺」を取り戻せ
真っ白に光り輝く城
いまから約400年前、江戸時代の創建時から現在の形を維持する城郭建築の最高傑作・姫路城。黒田官兵衛や羽柴秀吉が城主を務めた、天下の名城である。
姫路城は五重6階地下1階の大天守と3つの小天守を渡り櫓でつなぐ連立式天守で、その流麗なたたずまいは、城郭特有の重厚な力強さに加え、凛とした気品に満ちている。壁や屋根の瓦すべてに漆喰(消石灰を主成分とした塗り壁材)が塗られており、陽射しを浴びると真っ白に光り輝く姿から、姫路城は「白鷺城」と称された。
太平洋戦争が始まると、その白い壁が懸念となった。目立ちすぎて、敵機から発見されるおそれがある。そこで、城の主要部分を黒い網で覆い隠すことにした。城壁は2年かけて黒く覆われ、「まるで黒鷺城だ」とも揶揄された。しかしこれが功を奏したのか、姫路城は焼失を免れる。終戦後、黒い網が取り除かれた「白い姫路城」は、平和のシンボルとして姫路の人たちから愛され続けた。
1993年、姫路城は奈良の「法隆寺地域の仏教建造物」とともに、日本で初めての世界文化遺産に登録される。歴史的価値に加え、白漆喰の城壁などの美的完成度が、「日本の木造建築物で最高のものである」と評価されてのことだった。全国に5つしかない国宝指定の城でもあり、まさに「日本の宝」である。
だが、平成に入って、姫路城の漆喰には割れが目立つようになっていた。とくに2004年に姫路の街を襲った台風は、大天守の瓦を吹き飛ばし、四層・五層東面のいたるところで壁漆喰を剥落させた。白い漆喰はカビが生えて黒ずんでボロボロになり、「白鷺城」は見る影もなくなっていた。
破損は予想以上に進んでいる。姫路市は、50年に1度の目処で大天守の大規模修理を行う計画であったが、このまま時が経つのを待つわけにもいかない。そこで、前倒しでさまざまな検討を進めた結果、2009年、当初の目処よりも5年早く大修理を始めることになった。それは、姫路の空に「白鷺」を取り戻す巨大プロジェクトだった。
白く、美しく、強い城へ
まずは城の破損状況を精査し、保存修理工事の基本方針を定める必要がある。2005年、そのための機関として「姫路城大天守保存修理検討会」が設置された。有識者や市民代表がメンバーとなって、議論を重ねることとなった。
検討会が調査を進めていくと、姫路城が抱える問題が次々と明らかになった。あちこちで瓦が落ち、漆喰が剝がれ落ちている。また、1995年に発生した阪神・淡路大震災を受けて、姫路城にも耐震補強が必要だった。
そこで検討会は、大きく3つの基本方針を掲げた。屋根瓦をすべて葺き直したうえで、黒ずんだ漆喰を全面的に塗り直し、構造補強を施す。白く、美しく、そして強い姫路城にする――それが「平成の大修理」の目標となった。
保存修理工事の施工者は入札で決められる。落札したのは、鹿島建設・神崎組・立建設の共同企業体(JV)。「昭和の大修理」も手掛けた鹿島建設が、修理工事の旗振り役となった。
JV工事事務所の総合所長として工事の指揮をとったのは、鹿島建設の野崎信雄。姫路生まれの野崎にとって、この仕事を任された喜びは並大抵のものではない。
「図面を見なくても細部が思い浮かぶほど姫路城を知っていますし、『昭和の大修理』も見ていました。小学生のときに見た心柱の祝曳きの光景は、いまもなお心に焼きついています。ですので、姫路城の保存修理工事が入札で取れたと聞いたときは、ぜひやりたいと思いました。定年を目前に控えていたので、会社人生の集大成の気持ちです」
2009年10月、現地測量開始。5年以上に及ぶ「平成の大修理」が幕を開けた。
大天守を覆う素屋根
最初に行われたのは、大天守全体を覆う素屋根の建設作業である。
瓦の葺き直しや漆喰の塗り替えを進めるにあたり、瓦を外した状態の大天守を雨風にさらすわけにはいかない。素屋根は、そのために設置する仮の屋根である。
素屋根建設の際に立ちはだかった壁が、姫路城の複雑な形状だ。大天守はいくつかの小天守や渡り櫓で囲まれているため、鉄骨を城の頭上で組む必要があった。また、大天守周辺は基礎を据える位置、柱を建てられる位置が限られるため、極めて狭いスペースでの作業が連続した。
前例のない素屋根の設計に頭を抱えたのは、総合所長の野崎。毎日のように試行錯誤を繰り返した。
「姫路城の配置や状況は十分わかっているつもりでも、知らないことが次々と出てくるんです。何度も設計図の修正を行いました。鉄骨の組み立て手順をまとめる際には、当時はまだ珍しかったCGを使ったシミュレーション映像を作成して、全員の意識を統一できるようにしました。姫路城の大天守に、傷をつけることは絶対に許されませんから」
素屋根建設の現場は、異様な緊張感に包まれていた。
通常ならば杭を地面に入れて素屋根を固定するところだが、姫路城の地面の下は特別史跡のため、大天守が立つ地面には釘一本たりとも打ち込むことができない。そのため、素屋根は自重(建物そのものの重さ)だけで建つよう設計された。
また、文化財保護法と消防法の規制により火器の使用が禁じられたため、鉄骨の接合作業にガスバーナーを使用することができない。職人たちは、すべてのボルトを手作業で締めた。
数々の困難を乗り越えて、素屋根の鉄骨が完成した。8階建てで、高さは50メートル超。素屋根の壁面には、実物大の姫路城を写したシートが貼られた。工事中でも姫路城とわかるような工夫だった。
また、「平成の大修理」では従来にはない発想の取り組みがあった。「天空の白鷺」と題された見学施設(2011年3月オープン)である。
通常、修理中の歴史的建造物は一般見学をすることができない。だが、姫路のシンボルである姫路城が長期間の修理で見られないとなると、市の観光産業にとっては大ダメージとなる。そこで、50年ぶりの大修理という状況を逆手に取り、世界文化遺産の貴重な修理の様子を見学できる施設を設けたのだ。
見学施設は、素屋根の1階および7・8階に設けられた。素屋根内にはエレベーターも設置する充実ぶりで、車椅子の人でも見学することができた。
こうして準備は整った。いよいよ、7万5000枚におよぶ屋根瓦の葺き直しが始まる――。腕利きの瓦職人たちが、素屋根に覆われた姫路城を見上げていた。
2 7万5000枚の瓦に挑む
伝統の技を受け継ぐ瓦職人
屋根瓦の工事を統括する棟梁となったのは、東大寺大仏殿や法隆寺金堂など多くの建築物の瓦葺きを手掛けた山本清一。瓦職人の世界で名前を知らぬ者はいない大物だ。
1932年生まれの山本は、瓦葺き職人を父に持ち、「昭和の瓦葺き名人」と呼ばれた井上新太郎のもとで修業した。姫路城の「昭和の大修理」では、28歳にして瓦工事の棟梁に抜擢されている。
「昭和の大修理」は、城内に残るほぼすべての建物を解体し、破損部分を補修して建て直す大規模なものだった。このとき、大天守は屋根瓦約7万5000枚の葺き直しも行われており、山本はその責任者となった。
職人の数は限られ、予算も潤沢ではない。山本たちは、気が遠くなるような数の瓦を取り外し、屋根下地の補修などを行ってから、同じ瓦を使って屋根を仕上げた(破損した瓦は新しいものに交換)。
厳しい現場を見事に乗り切った山本は、31歳のときに山本瓦工業(奈良県生駒市)を設立。古代瓦の研究に取り組むとともに、後身の育成にも力を注いだ。
工場に併設する研修場には、日本の伝統建築を模した木造屋根の架台を設け、職人たちが文化財の屋根を想定した瓦の葺き方、納まり方を学ぶことができるようにした。山本のもとで学び、巣立っていった瓦職人は数知れない。
その愛弟子のひとりが、「平成の大修理」で瓦葺きの現場を率いるリーダーを任された。串﨑彰。数々の文化財修理に携わってきた経験を買われての抜擢だったが、ただならぬプレッシャーを感じていた。
「責任重大ですよね。失敗できんやないですか。世紀の大事業ですし、城郭は初めてだったので、正直怖さはありましたね」
1970年生まれの串﨑は、山口県下関市の出身。もともと一般住宅の建築に従事していたが、伝統建築に携わりたいと一念発起。26歳のとき、家族を下関に残したまま、全国でも指折りの瓦職人が集まる山本瓦工業の門を叩いた。
畑違いの現場で、串﨑はカルチャーショックを受ける。なかでも仰天したのは、山本瓦工業の面々が、瓦の原寸図(実物大の寸法で描かれた図面)を作成することだった。
「当時のリーダー(山本政典)が、施工前の現場で原寸図を描いていたんです。非常に感動しましたし、『すごい集団だな』と思いました。実際に現場に立つと、原寸図をつくることの重要性がすぐにわかります。原寸だからこそ、必要とする材木の寸法や瓦の厚みがわかるし、瓦の割り付けもわかるんです」
串﨑はひたすら現場で体を動かし、瓦職人としての経験を積んでいった。現場で原寸図を引く技も身につけ、5年経つ頃には現場のリーダーを任されるまでになる。
文化財修理の難しさ
2011年5月、串﨑たちによる屋根瓦の解体が始まった。最上層から1枚ずつ丁寧に瓦を取り外し、そのすべてに番号を振って元の位置を記録していく。だが、作業を始めてすぐ、串﨑は愕然とする。
「思いのほか、瓦がすっと外れたんです。しっかり止まっていなかったんですね。巨大台風や地震が起きたら、瓦が落下する危険性が高いと思いました」
万が一の事態が起きたら、姫路城の歴史に泥を塗ることになる。どうにかして対処しなければならない問題だった。
状況を把握するために、串﨑は原寸図を書いた。事態は深刻だった。
瓦の下に敷かれた土は、瓦と土台を接着させ、瓦を支えるクッションのような役割を果たす。だが、瓦を桟(野地板の上に敷く木材)に結びつける銅線も錆び切れ、数枚に1枚の割合で、瓦を固定するための釘が厚い土に阻まれ土台に届いていない箇所があった。これらが原因で瓦がほとんど固定できていなかったと、串﨑は判断した。
さらに、傷んだ漆喰から入り込んだ雨水を土が吸い込み、土台となる木までが湿っていた。このまま放置すると、やがて土台の木が腐り、屋根の破損や雨漏りにつながる危険性がある。
「会長(山本清一)が言っていたのは、このことだったのか」
串﨑は、師匠の山本が悔恨まじりに話していたことを思い出した。「昭和の大修理」を担当した山本は、漆喰の水分が大量の土に浸み込む危険性を見抜き、従来の工法を変えようとした。だが当時、その提案は認められなかった。
「ここで昔のやり方を踏襲してしまうと、また同じリスクが出てくる。瓦は絶対に雨漏りしたらあかんのです。何とかせなと思いました」(串﨑)
串﨑は、従来の土葺き(大量の土をのせて瓦を固定させる工法)に替わる方法を提案した。屋根面の下地に瓦桟(野地板の上に敷く木材)を敷くやり方だ。雨漏りや瓦の落下を防ぐだけでなく、屋根全体の軽量化が期待できる工法だった。
「自分もたくさんの現場を見てきたので、この工法が一番やと思っていました。瓦を葺いたあとに銅線や瓦釘を使って頑丈に固定すれば、リスクはぐっと減らすことができますから」
だが、ある難題が串﨑の前に立ちはだかった。文化財の保存修理工事には、「伝統の技法の踏襲」と「使えるものは残す」という大原則がある。
屋根に葺かれていた土も文化財の一部なので、この土を受け継ぐ工法にする必要がある。「土葺きを変えたい」という串﨑の提案は、認められなかった。
400年続く伝統を受け継ぎつつ、姫路城を災害から守る――。この難題をどうクリアするか? 串﨑は、迷わず原寸図を引いた。
「ほとんど現場のベニヤ板で書きました。相手が姫路城ですし、責任が重いというか、妥協は許されません。それに『昭和の大修理』の原寸図も自分で書いて、以前はどういう状況で瓦が葺かれていたのかを徹底的に調べました。新しいことをやるにしても、昔の原寸図が必ずヒントになりますから」
串﨑は、1か月にわたって試行錯誤を繰り返し、図面と格闘した。そして、伝統的な土を残しながらも、屋根の強度を上げる改良案を編み出す。
それは、土台となる木を格子状に組み上げ、そのあいだに代々使われてきた土を最小限の量に減らして入れる方法だった。瓦を支えるクッションの役目として土葺きの良さを残しつつ、土台の木にしっかり固定させるのが狙いだった。
串﨑の執念が、見事に答えを導いた。
■『新プロジェクトX 挑戦者たち 6』目次
I ゴジラ、アカデミー賞を喰う――VFXに人生をかけた精鋭たち
II 白鷺城はよみがえった――世界遺産・姫路城 平成の大修理
III 車いすラグビー 執念の金メダル――仲間を信じて ひとつに
IV 人生は何度でもやり直せる――ひきこもりゼロを実現した町
V カーリング 極寒の町に熱狂を――じっちゃんが夢をくれた