ジャーニーが日本で大ブレイクした理由!ガラガラの渋谷公会堂から武道館公演までの軌跡
バンド史上最も成功したアルバム「エスケイプ」
ジャーニーのアルバム『エスケイプ』は1981年7月21日に世界で同時発売されました。売上枚数は通算1000万枚を越えるともいわれ、バンド史上最も成功したアルバムです。もちろん作品内容がとても素晴らしかったということに尽きるわけですが、日本でのブレイクを理解するには、それまでの道程を知ってもらう必要があります。
彼らは5枚目のアルバム『エヴォリューション』のツアーとして1979年4月に初来日公演を行っています。当時の私は、ジャーニーが所属するCBS・ソニーでテレビ、ラジオなどのメディア担当。この来日では、東京エリアはキャパ2000人クラス×3日間ほどのライブでしたが、当時のセールスパワーからも、それほど無理している興行ではなかったはず。しかし、2晩はそれなりの動員でしたが、東京3日目の夜は渋谷公会堂。悪夢の4月18日を迎えました。
渋谷公会堂はガラガラ、ジャーニー屈辱の夜
実は、全く同じタイミングでボストンが、初来日。彼らの武道館公演初日とジャーニーの3日目がモロにぶつかってしまいました。東京のロックファンは、ほとんど九段に集結したかのように渋谷公会堂はガラガラ。アメリカンバンドとして全米ツアーを大成功させ、意気揚々と日本に乗り込んできた彼らには屈辱の夜となりました。とはいえ、メンバーもこの悔しさをしっかりと受け止め、この夜、鬼気迫る最高のパフォ-マンスを見せてくれました。ファンの間では、語り継がれるライブとなっています。
そして、初来日時からバンド及びスタッフたちが見せてくれた優しさと気配りは、我々及びメディア関係者を喜ばせてくれました。彼らは CBS・ソニー本社に訪問中も洋楽部員のみならず、営業マンを含めて全員と個別に写真撮影を行っています。そして驚くべきことに、その写真を個々の額縁にいれてアメリカから送ってくれたことです。私の自室にもいまだに飾ってあります。こうした人の心をつかむ日本的なサービス精神がジャーニーのブレイクを支えているに違いありません。
ジャーニーの果てしなきスーパーエナジー。今ロック新時代の到来を予感させる。
屈辱の夜以降、チーム・ジャーニーはリベンジに向けて動き始めました。レコード会社、マネージメント、そして興行元のウドーさんも交えた三位一体のコンビネーションが最大限に機能していきます。新譜発売、日本公演、プロモーション… それぞれの動きがシナジーを生み、大きなうねりに変えていったのです。
まずは1年後、1980年4月、6枚目のアルバム『ディパーチャー』が日本発売、10月には来日公演。もちろん取材も完璧。このアルバムからは「お気に召すまま(Any Way You Want It)」という新しいヒット曲も生まれ、東京では渋谷公会堂をはじめとする2000人キャパの3回公演を確実にソールドアウトしています。公演後もそのまま日本に残り、高田賢三監督によるファンタジー映画『夢・夢のあと』のサウンドトラック制作にも全面協力してくれました。
この後、ジャーニーの担当が私に代わり、初めての作品としてライブアルバム『ライヴ・エナジー(Captured)』を発売することになります。アメリカンバンドですし、ライブアクトとしてのキャリアや実績、そして本物感など、バンドのイメージを強化していきたいという日本盤タイトルで、この “エナジー” はそのまま、バンドのコピーになっていきます。そして、その数か月後『エスケイプ』の発売(81年7月)を迎えます。商品帯には恥ずかしげもなく、こう書きました。
“ジャーニーの果てしなきスーパー・エナジー 今、ロック新時代の到来を予感させる”
ヒットポテンシャルが格段に高い「エスケイプ」
1979年、1980年の2度の来日公演&取材によって、パブリシティは途切れることなく続いています。洋楽プロモーションでは、ここが一番大事なところです。たまにしか新譜を出さないで取材協力もせず来日公演もないアーティストは、良い作品がいくらあってもヒットには限界があります。数年ぶりの新譜となると、毎回ゼロからのスタートになるわけですから。
つまり、このバンドの場合はマーケットにしっかりと油が浸っている状況で新譜発売を迎える事ができたわけです。来日公演と取材を経て、メディア関係者もレコード会社の社員たちも全員がジャーニーのファンとなっており、『エスケイプ』は誰が決めたわけでもなく、全社挙げての最大プライオリティになっていました。そこにヒットポテンシャルが格段に高い作品が届いたというわけです。
ファーストシングル「クライング・ナウ(Who's Crying Now)」でのニール・ショーンのフレーズがラジオで流れ始めた時、3回目の来日公演が行われました。新譜発売と同じ7月が日本公演です。ジャーニークラスのビッグアーティストがこのタイミングで日本で公演を行うということ自体が奇跡です。ありえないことでした。
欧米アーティストのほとんどが、新譜リリース時のプロモーションやツアーは、本国でのスケジュールを最優先します。アジア・パシフィックでの公演は新譜発売から大きくずれた時期に後回しにされるわけです。そうなるとレコード会社的には、来日の機会をアルバムのヒットや拡売に結びつける事が難しくなるのですが、ジャーニーの場合はここが大きく違ったのです。
力強い予算と宣伝体制を作りあげたことに加え、マーケットが一番熱い時に、来日公演とバンドの協力が追加されたということです。これは強烈なパワーです。この絶妙なタイミングの来日により、新譜の情報、ライブの熱い記事、メンバーのインタビューなどが立体的に絡み合いながらメディアを席捲。話題をつくり人気を持ち上げて、それまで興味がなかった人々を新しいファンとして獲得できました。
メディア出演に加え、翌々月までのパブリシティも確保されています。帰国3週間後に全米ツアーがスタート。その後全米ツアー大成功のニュースや800万枚を越えるメガセールスの情報も、大きなフォローウィンドでした。楽曲ヒットもファーストシングルに続いて第2弾の「ドント・ストップ・ビリーヴィン」がチャートを駆けあがっています。そして3弾目がスローバラードの「翼をひろげて / オープン・アームズ」と、緩急自由自在に駆使されたシングル攻勢も功を奏しています。この音楽の幅広さがジャーニーであり、『エスケイプ』の特徴です。
武道館公演のソールドアウトが実現
そして、とどめがこれでした。全米ツアーを大成功させた後、翌82年4月、4回目の来日公演が実現するのです。エスケイプ・ツアーとしては2度めの来日公演。ここで武道館公演のソールドアウトが実現し、まさに凱旋コンサートとなったわけです。
まず、こういうスケジュール管理自体が、2年前の覚悟があったからこそのものです。新譜発表、そしてツアーとつながっていく彼らのビジネスです。アルバム発売も計画通り行われないことには、全てが水泡と帰します。興行の準備は、会場の確保が前提ですので、アルバム制作作業よりも遥か前に確定されているのです。
▶ 1979年4月
12日 名古屋市公会堂
14日 大阪厚生年金会館
15日 渋谷公会堂
16日 東京厚生年金会館
18日 渋谷公会堂
▶ 1980年10月
08日 渋谷公会堂
10日 大阪万博記念ホール(昼夜2公演)
11日 中野サンプラザ
13日 東京厚生年金会館
▶ 1981年7月
27日 大阪フェスティバルホール
28日 名古屋市公会堂
29日 東京厚生年金会館
31日 東京厚生年金会館
8月1日 中野サンプラザ
▶ 1982年4月
09日 福岡サンパレスホール
11日 京都会館
12日 大阪フェスティバルホール
13日 大阪府立体育館
14日 名古屋市公会堂
16日 日本武道館
17日 横浜文化体育館
この戦略的来日公演がジャーニー『エスケイプ』の日本での大ブレイクを支えてくれたことは間違いありません。
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