『死刑より過酷?』清朝の囚人たちが最も恐れた流刑地「寧古塔」とは
清朝最大の流刑地「寧古塔」とは
寧古塔(ねいことう/ニングタ)とは、清朝時代における代表的な流刑地の一つであり、当時の中国で「この世の地獄」とまで恐れられた土地である。
その名前から、荘厳な塔や建造物を想像する者もいるかもしれないが、実際にはそのような塔は存在しない。
地名の由来は満洲語にあり、「寧古(ninggun)」が数字の「六」、「塔(-ta)」が助数詞の「〜個」を意味する。
つまり、寧古塔とは「六つのもの」あるいは「六人の兄弟」を指す言葉であるとされている。
この命名には複数の説があるが、最も知られているのは、清の実質的な初代皇帝とされるヌルハチの曾祖父がこの地に住み、六人の息子に土地を分け与えた、という伝承に基づくものである。
寧古塔の位置は、現在の中国・黒竜江省東部からロシアの沿海地方にかけての広大な地域に相当する。
かつては「吉林将軍」管轄の領域とされており、清朝初期には辺境防衛の拠点として重要な役割を果たしていた。
※吉林将軍とは、清朝が東北辺境を統治するために設置した軍政官職。
後に軍政の中心が他所へ移され、この土地は徐々に重要性が失われていった。
そして17世紀半ば以降、清朝はこの地を重罪人の流刑先として活用し始める。
こうして寧古塔は、辺境の一拠点から、凄惨な記憶とともに語られる流刑地へと姿を変えていくことになる。
半数以上が到達前に死亡 ~苛酷すぎた1500キロの流配
寧古塔に流されるとは、ただ遠くに送られるというだけのことではない。
その道のり自体が、命を落としかねないほど過酷な刑だった。
清代の北京(京師)から寧古塔までは、直線距離でもおよそ1500キロに及ぶ。
その行程は現代のように鉄道や道路が整備されたものではなく、基本的に徒歩による移動であった。
流刑を宣告された者たちは、鉄の枷を首にかけられ、両足には鎖を巻かれた状態で連行される。
護送を担当する役人たちは、定められた期日内に目的地へ到着させなければならないため、天候に関係なく歩みを進めた。
囚人たちは、酷暑や暴風雪の中でも歩みを止めることなく、過酷な移動を強いられたのである。
特に女性にとっては、移送の過酷さは筆舌に尽くしがたいものがあった。
当時の女性の多くは纏足(てんそく)の習慣があり、足を小さく変形させていた。まともに立つことすら困難な足で、何ヶ月にも及ぶ旅を強いられたのである。
その途中、鉄の鎖が擦れて皮膚が裂け、血が流れ、やがて化膿する。
適切な治療など望めず、多くの囚人は破傷風や感染症によって命を落とした。
科挙の不正事件で寧古塔へ流された文人・呉兆騫(ご ちょうけん)は、流配中に経験した気候の苛烈さを、母宛の手紙の中でこう記している。
寧古寒苦天下所無,自春初到四月中旬,大風如雷鳴電激咫尺皆迷,五月至七月陰雨接連,八月中旬即下大雪,九月初河水盡凍。
意訳 : 「寧古の寒さと苦しさは、天下に比類がない。春先から4月中旬までは雷鳴のごとき強風が吹き荒れ、5月から7月は連日雨に覆われ、8月中旬には大雪が降り、9月にはすでに川が凍りつく。雪は地に触れた瞬間に堅氷となり、あたり一面が白銀の荒野と化す」
順治十八年『上父母書』より引用
記録によれば、寧古塔へ送られた囚人のうち、三分の二が到達前に死亡していたという。
この状況は、もはや「移送」ではなく「死に至る行軍」であり、清朝による見せしめの一環として機能していたともいえよう。
寧古塔での囚人たちの生活とは
命からがら寧古塔へたどり着いたとしても、そこで待ち受けていたのは決して安堵できる日々ではなかった。
この地には「披甲人(ひこうにん)」と呼ばれる、辺境防衛の下級軍士が配置されていた。
彼らは清朝の辺境警備を担う一方で、囚人たちの監視や管理も任されていた。
社会的地位は低く、事実上の武装農奴のような存在であったが、囚人に対しては絶対的な権限を持っていたのだ。
流刑者たちは、披甲人の私的な労働力として扱われ、農作業、伐採、家事などあらゆる雑務を強いられた。
もともと官僚や富裕層の出身であった者も、ここでは身分を奪われ、命令に従わなければ容赦なく殴打された。
披甲人による暴力や侮辱は日常的なものであり、最悪の場合、私刑によって命を落とす者もいた。
にもかかわらず、披甲人が囚人を殺害しても重大な処罰を受けることはほとんどなかったという。
形式上は違法であっても、辺境という閉ざされた空間では、証拠も証人も乏しく、実際の追及は困難だったからである。
反対に、囚人が披甲人に手を上げた場合は重罪とされ、しばしば「連坐」の対象となった。
すなわち、本人のみならず家族全体が死罪に処されることもあり、囚人に反抗する気持ちすら起こさせないような仕組みになっていた。
とりわけ、女性囚人の置かれた状況はさらに過酷であった。
容姿が整っていれば、披甲人たちに性的対象として見なされることがあり、日常的に暴行されることもあった。
実際に、寧古塔への流刑を命じられた女性の中には、自ら命を絶つ者も少なくなかったのである。
詩文に残る風土と、意外な美しさ
このように、寧古塔は恐ろしい流刑地であったが、そのすべてが暗黒に覆われていたわけではない。
過酷さとは裏腹に、そこには自然の豊かさと、風雅な文化も存在していた。
清代の文人・吳桭臣(ご しんしん)は、『寧古塔紀略』のなかで、この地の風土について詳しく記している。
彼によれば、寧古塔一帯は山川や土地が非常に肥沃であり、山菜や野草に至るまで味がよく、物資も豊かだったという。
また、吳桭臣は「道に落ちた物を拾わずそのままにし、落とし主が現れるのを待つ」といった習慣があったことも伝えている。
こうした記録は、寧古塔で過酷な生活を送りながらも、人々の中に信義や節度といった価値観が息づいていたことを表している。
また、寧古塔旧城の周辺には、春になるとバラの花が一面に咲き乱れたとされる。
採集したバラの花びらを用いて「玫瑰糖(めいくいとう、バラの花の砂糖漬け)」や香水を作る風習もあり、特産品として親しまれていたという。
その景色は、厳しい自然のなかにあっても確かに息づく生命の象徴であり、多くの囚人たちにとって、ささやかな心の拠り所となったのかもしれない。
参考 : 『上父母書』『寧古塔紀略』『清史稿』他
文 / 草の実堂編集部