築地一のマグロ屋が驚き「何者なんだ」 まちの魚屋が世界を目指す無謀な挑戦を実現
■焼津市の「サスエ前田魚店」 世界が注目する日本一の目利き
できるはずがない。周りから冷ややかな目で見られた挑戦は今、日本だけにとどまらず世界から注目されている。静岡県ゆかりの人たちが歩んできた人生をたどる特集「My Life」。第19回は港町・焼津市に店を構える「サスエ前田魚店」の5代目店主、前田尚毅さん。「どうしようもなくクズだった」という前田さんが業界で最も有名な魚屋と呼ばれるまでの存在になったのは、恩返し直前に他界した「人生の親父」への誓いがある。【全2回の前編】
【動画で見る】”日本一の魚屋さん” サスエ前田魚店・前田さんの包丁さばき
静岡県中部の沿岸部に位置する焼津市は、カツオやマグロで知られている。人口約13万5000人の長閑な港町には、漁師や料理人が全幅の信頼を寄せる魚屋がある。「サスエ前田魚店」。店主の前田さんが魚を卸す飲食店は、予約が取れないほどの人気店も多い。海外の旅行者が行ってみたい日本の飲食店トップ100の中にも、前田さんと関わりが深い店が県内で3店、全国で10店も入っている。
前田さんが世界を目指す挑戦を始めたのは17年前だった。今では「世界で一番予約が取れない天ぷら屋」と言われる、静岡市のてんぷら店「成生(なるせ)」の店主とタッグを組んだ。前田さんが当時を回想する。
「焼津の魚と静岡の飲食店を世界で注目されるようにブランディングしていこうと決めました。周りからは『どうせ無理』、『上手くいくはずがない』と言われました。田舎の小さな魚屋が世界を目指すと言っても、誰も実現するはずがないと思うのは当然ですよね」
■築地で確信「まちの魚屋も十分に勝負できる」
無謀とも思える挑戦。だが、前田さんには勝算があった。きっかけは、東京の有名店で寿司を口にした時だった。「値段は高いのに、味には何の感動もありませんでした」。小さい頃から魚が大好きで、醬油をつけずに鮮度の高い魚を毎日食べてきた前田さんは県外の店で魚がおいしいと感じたことがないという。
「この味で日本や世界から評価されるのであれば、十分に勝負できると思いました。『まちの魚屋が何を言っているんだ』と当然笑われるんですけど、飲食店に卸す時に少し手を加えて魚のポテンシャルを上げれば、日本でトップクラスの飲食店ができる自信はありました。うちの仕入れルートには、おいしい魚がそろっているわけですから」
この経験が、これ以上ないタイミングと重なった。成生の店主が修行していた割烹料理店から独立して、天ぷら屋を始めようとしていたのだ。前田さんは、その店に魚を卸していたため、面識があった。2人で協力し、目標をミシュランに定めた。
「成生の店主の車に赤い本が置いてあったんです。『何だ、これは?』とたずねたらミシュランを目指したいとのことでした。私はミシュランと言われてもピンときませんでしたが、世界に認められる1つの基準になると思って目標にしました」
■前田さんが持つ魚の知識に築地一のマグロ屋も驚き
ミシュランを目指すには、実際に星を獲得した店を知る必要があると前田さんは考えた。東京のミシュラン店が魚を仕入れているのは築地市場(現在の豊洲市場)と予想して、知り合いを通じて見学に行った。築地で一番の目利きと呼ばれるマグロ屋と会話する機会があり、自分が持っている知識や考え方をぶつけた。すると、相手は「築地の場内で、こんな話をできる人はいない」と驚きを隠せなかったという。
「築地は世界最大のマーケットなので、ここにいる人たちよりも自分に知識があればナンバーワンになれると単純に考えました。築地一のマグロ屋さんは私に対して『何者なんだ』と興味を持ってくれました」
前田さんの知識量や探求心、何よりも魚への興味や愛情は突出していた。魚の肛門に指を入れ、においによってどこに生息していて何を食べていたのか、どんな獲られ方をしたのかが分かるという。魚の味を大きく左右する冷やし方は特に重点を置く作業の1つで、12種類の氷を使い分ける。前田さんの話に築地の職人たちも驚きの連続だった。
前田さんは自身の知識や目利きへの自信を深めた。同時に、世界への足掛かりをつかむ出会いにも恵まれた。築地に来ていた寿司屋が前田さんとマグロ屋の会話を聞いていたのだった。
「今の話、もう一度聞かせていただけませんか」
■仕入れた魚を仕立てて直送 銀座の寿司屋がミシュラン1つ星獲得
寿司屋の質問に一通り答えた前田さんは、店に招待された。その寿司屋は銀座に店を構えたばかりで客が入っていなかった。実際に寿司を食べた前田さんに感動はない。感想を正直に伝えると、「前田さんの魚を送ってほしい」と依頼を受けた。
「うちの魚の方が良いという思いもありましたし、魚を売るだけではなくておいしくする仕立てが必要だと感じていました。漁師さんが獲ってくれた魚に手を加えてから送ったら『これは、すごい』と喜んでもらえました」
この寿司屋はミシュランの1つ星を目標にしていた。前田さんから魚を送ってもらって1年半。いきなり3つ星を獲得した。前田さんは自分の知識や考え方、成生と一緒に世界を目指す方向性に間違いがないと実感した。
成生は来店客を満足させ、着実に知名度を高めていった。そして、静岡から世界を目指す2人の姿に憧れ、同じ志の仲間が加わった。現在、前田さんが深く携わる飲食店は静岡市と焼津市に3軒ずつ、計6軒まで増えた。前田さんは魚を届けるだけではなく、店の席数や使用する器など店の開店前からアドバイスしてコンサルタントのような役割を担っている。
■魚で地元活性化 飲食業以外にも恩恵を届ける
この6つの飲食店を目当てに新幹線で静岡駅に訪れる人は年間2万5000人いるという。前田さんが思い描くのは、自身が卸す魚や仲間の飲食店を通じたまちづくりだ。
「私たちは1市3軒を掲げています。それぞれの市に遠くからでも訪れたいと思う飲食店が3軒あれば、観光客は1泊します。2軒では、昼と夜に利用して日帰りしてしまいますから。観光客の滞在時間が長くなればホテル、タクシー、百貨店などお金を落とす場所が増えて、色んな業種の方々に恩恵が届きます。今、そこをやっているところです」
サスエ前田魚店の魚は日本中から求められている。現在は海外にも魚を届け、飲食店からはデモンストレーションや料理人へのレクチャーの依頼が来る。海外から漁師や魚屋が研修に訪れたり、観光客のツアーが組まれたりもしている。
この10年ほどで前田さんを取り巻く環境は大きく変わった。周りから鼻で笑われた世界への挑戦は成功した。なぜ、向上心やモチベーションを保ち続けられたのか。その理由は、「人生の親父」との約束にあった。【後編に続く】
(間 淳/Jun Aida)