歓楽街を支えてきたイサーンの人々のよりどころ。錦糸町のタイ料理店『イサーン・サコンナコン』
「あ、タイに帰ってきた」店内に一歩入った瞬間、僕はそう思った。ルークトゥン(タイの演歌)が鳴り響く店内には、タイの国旗やらワイ(合掌)をしている立像やらマライ(花輪)やらがゴテゴテと飾りつけられ、手づくり感いっぱいのにぎやかさだ。
タイ王国
東南アジアの中進国。日本には6万1771人が在住している。かつては興行関係者が多かったが、いまは技能実習生や特定技能といった労働者、留学生や一般の会社員、そして日本人の配偶者が多い。永住権を持つ人も2万人以上いる。首都圏のほか、日本各地に住む。
これぞタイといった雰囲気に浸る
「サワディーカー、いらっしゃいませえ」
出迎えてくれるノイさんの笑顔は、いかにもタイのおばちゃんといった柔らかさでほっとする。どう見たってカラオケスナック的な感じの真っ赤なソファーに座って、タイ語メニューがあちこちに貼られた店を改めて眺める。なんとも懐かしい。タイのローカルなカラオケそのままだ。
10年ほど前、バンコクに住んでいた僕は、この手の店でよく飲んだ。タイ語の歌はほとんど歌えないのだけど、酔っぱらったタイ人に囲まれてルークトゥンやタイのポップスに耳を傾け、ぼんやりひと時を過ごすのが好きだった。
外国人なんか誰も来ないそんな店にふらりと入っていっても、当たり前のように歓迎してくれて、ほかの客とまったく同じように世話を焼いてくれたりあるいは雑に扱ってくれたりするタイ人の優しさにも癒やされた。
あの空気感が、錦糸町のこの店にはたっぷり満ちている。深夜になると周辺の店で働くタイ人たちが仕事の疲れをカラオケで発散させにやってきて、これぞタイといった雰囲気に浸れるが、実は飯もいけるのだ。
「うちはぜーんぶ、イサーンそのままの味つけ」
ノイさんが胸を張る。イサーンというのはタイ東北部のこと。店名にもなっているサコンナコンとはイサーンを構成する県のひとつで、ラオスにも近い。もちろんノイさんの故郷だ。このイサーンと、バンコクを中心とするタイ中部の料理はだいぶ違う。
「タイ料理はココナツミルクをよく使うよね」
日本人が「タイカレー」と呼ぶ、ココナツ風味の甘い「ゲーン」は、イサーンではあまり食べられていない。代わりにハーブをふんだんに使う。
「あとイサーンでは、発酵させたものが多いよ」
たとえば塩漬けした魚を発酵させてつくった「パラー」という調味料は欠かせない。イサーン料理の代表ともいえる青パパイヤのサラダ、ソムタムにもたっぷりと入れる。インゲンやニンジン、唐辛子、トマト、丸ナス、タマリンド、それにカニもそのまんま、クロックという臼のような器に放り込んでいく。
「カニはイサーンじゃ田んぼにいるやつを使うんだ」
そしてサークという棒でクロックを突き、具をつぶし、混ぜ合わせていく。このときに奏でられる「ポク、ポク、ポク」という音に、イサーンを感じる。
できあがったソムタムは実に刺激的だ。見た目がもうパラーの茶色になっている。独特の臭みはなかなかにクセがあり、そして容赦なく辛い。そこらの日本人向けタイ料理店が出しているソムタムとはまったく別物だ。
日本人に忖度(そんたく)いっさいなしの「ガチイサーン料理」
発酵モノといえばネームというソーセージもイサーン名物で、ねっとりした食感が独特だ。豚の皮も入っていて、コリッとした歯ごたえがいいアクセントになっている。生でも、パクチーやショウガ、ピーナッツと食べてもいい。
このネーム、市販品を使う店も多いのだが、ノイさんは手づくりにこだわる。
「だってそのほうがおいしいし、私つくるの好きだしさ」
来日29年、よく使いこまれた日本語でまくしたてる。
「ネームはできあがるまで夏は2日くらい、冬は3、4日かな。あと、これがおいしいの。1週間くらいかかるんだけどね」
発酵させたタラコだという。僕もはじめて見た。タラコとカオニャオ、ニンニクなどを混ぜて発酵させるのだとか。イサーンではタラコのほかにいろいろな魚卵を使うそうだが、なかなか珍しい料理のように思う。これが「飯のアテ」という感じで実にいけるのだ。カオニャオとは抜群に合うし、お客のタイ人はカオパット(タイ風チャーハン)と一緒に食べていた。野菜をディップしてもいい。ノイさん自慢の一品だが、「つくるのは冬の間だけ」なのでご注意を。
タイ料理のスープといえばトムヤムクンだが、イサーンではトムセープのほうがポピュラーだ。豚のモツがどっさり入っていて、スープはレモングラスやコブミカンの葉、カー(タイショウガ)などが効いていてすっきりと辛い。その中に、ほろ苦さも感じる。これなんと、牛の胆汁を煮出してナンプラーを加えた「ナムディー」というイサーン伝統調味料の味。これまたノイさん手づくりだ。
夜の街で働く人々がコミュニティーの基礎になった
店は歓楽街のど真ん中、怪しい風俗ビルが立ち並び、東欧系のお姉さんが「国際交流しませんかあ?」なんて声をかけてくる一角にあるのだが、錦糸町は江戸の昔から街道筋にあり、物流の拠点として栄えてきた。明治に入り総武線が開通すると盛り場としての性格を強め、場外馬券場や飲み屋街が形成され、バブル期にはフィリピンパブやタイスナックが軒を連ねた。
2005年のビザ規制もあり、外国人の店はずいぶんと減ったが、錦糸町には往時に形成されたコミュニティーがしっかりと根づいている。だからタイの料理店や食材店が多い。働いているのはイサーン出身者が中心だ。昔から土地が貧しく(それゆえ日持ちする発酵食品が発達した)、産業がなく、出稼ぎ頼みだった地域なのだ。日本の夜の街もイサーンの人々が支えてきた。錦糸町は彼らの苦労が染みついた街と言えるだろう。
『イサーン・サコンナコン』店舗詳細
イサーン・サコンナコン
住所:東京都墨田区江東橋4-18-7 興亜ビル5F/営業時間:17:00~翌3:00/定休日:月/アクセス:JR・地下鉄錦糸町駅から徒歩5分
取材・文=室橋裕和 撮影=泉田真人
『散歩の達人』2024年12月号より
室橋裕和
ライター
1974年生まれ。新大久保在住。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発の日本語情報誌に在籍し、10年にわたりタイや周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のライター、編集者として活動。おもな著書は『ルポ新大久保』(辰巳出版)、『日本の異国』(晶文社)、『カレー移民の謎』(集英社新書)。