テストの点数では測れない 「子どもの能力」は環境で変わる 能力主義という名の「思い込み」
社会に広がる行き過ぎた能力主義について、組織開発コンサルタントの勅使川原真衣さんが解説する連載第1回。そもそも能力とは? から始まり、能力主義のカラクリ、不登校や生きづらい子どもが増える背景と能力主義の関係などをうかがいます。
【▶画像】【学びの多様化学校】「対話」を軸に自己肯定感を育む「大分県・玖珠町立くす若草小中学校」公立小学校の成績評価に、新たな動きが出始めています。岐阜県美濃市の公立小学校は、2025年度に1年生の通知表配付を廃止しました。
その理由の一つが「◎や△の数を比べて劣等感を抱く子がいる」からで、2026年度には2年生の通知表も廃止する予定です。
これまでも一部の公立小学校で同様の動きがありましたが、保護者からは「中学校は通知表がある」「競争心を育てることも必要」など、さまざまな意見が出ています。
常に個人が優劣を競い、その結果は自己責任。そんな社会で生きてきた保護者世代が子どもに対し、「幼少期から能力を磨いて勝ち抜かなくては、社会に出たあと困る」と考えてしまうのも、無理はありません。
「でも、『高い能力があれば未来は安泰』とは限りません。現在もてはやされているコミュニケーション力やリーダーシップ力でさえ、環境次第では『役に立たない』といわれかねません。『能力』って実は、すごく不確かなものなんです」
そう話すのは、長年人材系コンサルティングファームで働き、独立後は「組織開発」の視点で企業を支援する勅使川原真衣(てしがわら まい)さん。学校現場にも詳しい勅使川原さんは、個人の能力(できる/できない)を一つのものさしで測り、序列化する「能力主義」に疑問を呈します。
「そもそも、能力を目で見たことがある人なんていないはず。個人の内側に『揺るがない能力』が存在し、テストや選抜で正確に測ることができる、という考え自体が思い込みなんです」
能力、能力主義について、勅使川原さんに詳しく聞きました。
「能力」は環境によって変わる
──「能力が測れない」とはどういう意味でしょうか。学校での成績や受験の結果などは、その人の能力を客観的に示すものでは?
勅使川原真衣氏(以下勅使川原):テストの点数は、ある日・ある時間帯の「できた/できない」を切り取ったものです。その日は体調が悪かったかもしれないし、次の日にはできたかもしれない結果です。
通知表では、授業中の「主体性」や「創意工夫」なども評価の対象になりますが、これらは先生が抱く印象に大きく左右されます。それにこうした「主体性」は、一緒に学ぶクラスメイトや先生との関係でも変わってきますよね。自分の意見を聞いてくれる、話しやすい人なら積極的に学習に取り組みます。
つまり、私たちが「その人の能力だ」と認識してきたのは、実はものすごく「環境に依存するもの」だったということです。日々揺れ動いているのに、ある状態(テストや評価をした日)だけを切り取って、「あなたの能力はこれくらいですよ」と乱暴に決めつけているんです。
勅使川原真衣さん。 ©稲垣純也
勅使川原:私たちは人の内面に「確固たる能力」があると思っていますが、実はそんなものは存在しません。周囲との関係性、誰と何をどのようにやるのかで自分のあり方、発揮できる力は変わります。
──でも、世間は能力の存在を前提として動いています。学校はもちろん、職場でも能力を高めることが、成長につながると思ってきましたが……。
勅使川原:「そう信じさせられている」といったほうが、正確かもしれませんね。そのあたりを理解するためにも、「能力主義」についてもう少し詳しく説明しましょう。
能力主義とは、「この世の限りある資源を、『能力』に基づいて配分する原理」です。能力のある人が多く収入を得る仕組み、ともいい換えられます。
それ以前は、「身分社会(主義)」の時代。近代化の過程で身分社会は廃止され、その代わりに登場したのが「能力主義」でした。能力主義なら、生まれで職業や収入が決まるという人々の不満を解消することができますから、社会を統治する制度としては安定感がありました。
──当たり前すぎて深く考えたことがなかったです。特に問題があるとも思えませんが……。
勅使川原:でも、先述のように能力が何かと問われると、結局、実体はよくわからない。なんとなく平等だと思っているけれど、実はそうでもないですよ、と指摘した学問があるんです。それが「教育社会学」で、私が大学院で学んでいた分野です。
能力主義は、現状では社会のあらゆる場所に浸透しています。それだけ、巧妙に作られたカラクリともいうことができるのです。
──巧妙に作られたカラクリ、ですか。
勅使川原:能力主義の元では、さまざまなことが「個人の問題」にすり替えられ、矮小化されてしまいます。
学校や仕事でうまくいかないとき、私たちは自分のせいだと考えがちですよね。その上で「もっと頑張ろう」と奮起するか、「自分の能力が低いからしかたない」と諦める。他人にも同様に、「努力が足りないからだ」と厳しい視線を送ります。
本当は個人ではなく組織の側に原因があるかもしれないのに、多くの人は不満を表明したり対応を求めたりはしません。それどころか、「もっと、もっと」と勝手に頑張り続けてしまう。こうした状態は、企業や学校、組織にとっては願ったり叶ったりです。
つまり能力主義は、「統治する側」が作り出した自分たちに都合のいい仕組み、なのです。「個人の中に能力があり、高めなければならない」こと自体がフィクションであり、それを利用している人たちがいることに、私たちはそろそろ気づく必要があります。
「競争が社会を強くする」時代の終わり
──能力が不確かなものだということはわかりましたが、競争自体はいい面もありますよね。
勅使川原:戦後の復興期や人口も経済も右肩上がりの高度経済成長期には、能力主義が一定の役割を果たした部分もあったでしょう。
ですが、今や少子高齢化が進み、人手不足が深刻化する時代、令和です。能力主義を前提に個人が競争し続けた結果、子どもの自殺は増え続け、不登校も過去最大。大人は大人で、精神や身体に不調をきたす人が続出している現状があります。
能力主義がこうした「生きづらさ」を引き起こす要因を、私は著書の中で「能力主義の3作法」として整理しています。
【能力主義の3作法】
©Mai Teshigawara
勅使川原:①本来、能力は「状態」なのに、スナップショット的に切り取り、断定します。
②切り取ると、他者比較が可能になります。
③序列化することで、さらなる競争が起きます。場合によっては「あなたの能力ではここにいる資格はありません」と排除されます。
学校でも職場でも、至るところでエンドレスに競争しているのですから、疲れ切るのも無理はありません。「競争がお互いを高め合った」時代はとっくに過ぎ去ったと私は感じています。
学校でもあいまい化して強まる能力主義
──いわれてみれば、学校での成績評価は、「能力主義の3作法」と同じです。
勅使川原:学校は能力主義を基本に動いていますからね。さらにこの十数年で、能力主義はあいまい化しながら強まっています。
今の学校で求められるのは、学力だけではありません。「生きる力」「主体性」「自己調整力」……どんどん増えています。でも、何ができたらそれらの能力があることになるのか、基準ははっきりしません。
「こうあるべき」という指標が増えた結果、正解とされる範囲がすごく狭まっています。そして、そこからはみ出すと「問題のある子」と認定され、通級(通常学級に在籍しながら、一部の授業を発達の特性に応じた別の「通級指導教室」で受ける制度)や特別支援学級に送りこもうとする力が働きます。
ですが、公立の学校は公共財ですから、「できる子」だけを評価してそれ以外の子が排除される状態でいいはずがありません。条件つきではなくどんな子にも存在を承認し、安心できる居場所になる必要があると思います。
──保護者が能力主義的な競争を、学校に求めている面もありそうです。
勅使川原:そうですね。保護者世代は能力主義を強く内面化していますから、考えを変えることが非常に難しいことは理解できます。何を隠そう、私自身が能力主義を深く内面化していた本人なのですから……。
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次回は勅使川原さんご自身のストーリーを中心に、行き過ぎた能力主義から子どもを守る方法などを続けてうかがいます。
取材・文 川崎ちづる
【勅使川原 真衣 プロフィール】
1982年、横浜市生まれ。東京大学大学院教育学研究科修了。外資コンサルティングファーム勤務を経て組織開発コンサルタントとして独立。2児の母。2020年から進行乳がん闘病中。著書『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社、2022年)は紀伊國屋じんぶん大賞2024で第8位入賞。続く『働くということ 「能力主義」を超えて』(集英社、2024年)は新書大賞2025にて第5位入賞。その他著書多数。最新刊は『学歴社会は誰のため』(PHP、2025年)。日経ビジネス電子版と論壇誌Voice、読売新聞「本よみうり堂」にて連載中。
なぜ学歴社会はなくならないのか、誰のために存在するのかなど、その核心に迫る。『学歴社会は誰のため』勅使川原 真衣著(PHP新書)