北海道・深名線廃止30年。僅かに残された痕跡をたどって【深川駅~幌加内駅跡編】
鉄道は廃止になると一部の痕跡が遺構となりますが、跡地は土へと還ります。JR深名線の廃止から30年、痕跡をたどるのは困難でした。なお、本記事では過去写真も紹介しています。年号がないものは2025年9月に撮影したものとなります。
深名線とは!? 30年前に廃止となった北海道のローカル線
深名線は、函館本線深川駅から幌加内町(ほろかないちょう)の盆地と山深い森を抜けて、宗谷本線名寄駅を結ぶ単線非電化のローカル線でした。交換駅は幌加内駅と朱鞠内(しゅまりない)駅で、レールは37kgという細さ。全線タブレット閉塞、交換駅には腕木式信号機、両運転台の急行型気動車キハ53形が、農村地帯と山深い原野を縫って走る、昭和時代の忘れ形見のようなロケーションでした。
また朱鞠内は1978年に日本最寒気温マイナス41.2℃を記録した地であり、全線が豪雪地帯ゆえに、ラッセル車とDD14形ロータリー雪搔き車の「特雪」が走行する路線でもありました。
このロケーションは1990年代には稀有な存在となり、鉄道ファンからは「最後の国鉄路線」と称されました。私は多感な高校時代にそんな深名線へハマり、地元の方々と交流しながら撮影と乗車に明け暮れ、写真の道へ進むと決心した人生で大事な路線でした。
深名線は1995年に廃止となってバス転換され、私は廃止後も毎年のように幌加内町へ訪れ、廃線跡をずっと見つめてきました。2025年は廃止からちょうど30年にあたります。
ちょうど廃止日の節目に廃線跡をたどってみましたが、草木が元気よく育つ真夏なので、廃線跡探訪には不向きな季節です。跡地は整地され、併走する道路も付け替えられて、どこが線路の跡か分からないほど激変しており、「何度も訪れたのに……」とちょっとショックでした。駆け足で跡をたどってみます。
深名線は深川駅から函館本線と別れて一路北を目指しつつ、峠を多度志(たどし)トンネルで越えて一旦西へ方向を変え、上多度志(かみたどし)駅、多度志駅と、深川市多度志の田園地帯を蛇行していました。
多度志トンネルは「道道875号多度志一已(いちやん)線」のトンネル脇にひっそりと埋もれています。初春や秋ならば周囲の葉も落ち、コンクリートブロックのトンネルポータルがチラッと見えるはずですが、猛々しく育つ草木に阻まれて分かりません。
廃線跡は多度志川を渡って左へカーブしていたはずです。が、道道875号の右手にあった橋脚が確認できません。現役時代はよくここから撮影したのに……。「あれぇ?」と周囲を見渡していると、旧道路らしき痕跡を見つけました。ということは、いま立っている道路は廃線跡を一部活用して付け替えられていたのです。どうりで分からないはずだ。
道道98号旭川多度志線を渡った先は、左へカーブする砂利道があって、それが廃線跡です。その先に上多度志駅がありましたが、駅舎は廃止日の最終列車後に解体され、路線バスの転換地点となりました。駅の傍らにあった農業倉庫は現在も残っているので、この倉庫が目印となります。
次の多度志駅までは田んぼの畦道と砂利道になって続き、僅かながら痕跡があることに安堵したものの、多度志駅の跡地は駅舎すら跡形もなく、なんとなく“ここに駅があったなぁ”という長細い敷地が残るのみです。
多度志駅の先は、国道275号に沿って線路がありました。廃線跡は一部畦道となっていますが、ほぼ農地へと埋もれてしまいます。深名線の跡地は廃止後比較的早くに整地され、30年経った今では周囲の大地となじんで判別しづらいです。国道は線路と交差していましたが、踏切部分はクランクになっていたため、道路も付け替えられています。
僅かに残された木造駅舎と線路に胸をなでおろす
廃止後の現在でも駅舎が残存するのは、鷹泊(たかどまり)、沼牛(ぬまうし)、政和(せいわ)、添牛内(そえうしない)で、沼牛と添牛内両駅は地元の方々が中心となって保存会を立ち上げ、保存活動が行われています。
深川市と幌加内町の市町境には幌加内峠が控えています。線路は25パーミルの勾配で幌加内峠を克服し、頂点(サミット)付近に幌加内トンネルが控えていました。国道275号は峠へと挑む線路をオーバークロスしていたのですが、新たにトンネルを掘削して道路を付け替えたため、廃線跡へ近づけるのは困難です。峠には幌加内トンネルが眠っているはずですが……。
幌加内町へと入りました。幌加内町はそば作付面積と収穫量が日本一を誇り、「幌加内そば」はブランドです。30年前は深名線の列車とそば畑を絡めて、よく撮影していました。国道275号から望める一面のそば畑を眺めながら、当時を思い出します。
そば畑の向こうには木造駅舎が見えました。沼牛駅舎です。地元の農家の方が中心となって有志が集い、クラウドファンディングを活用しながら駅舎を修繕し、保存活動を行っています。普段は駅舎がポツンとたたずみ静かですが、駅舎開放イベントの際はにぎわいが戻ってきます。2025年には線路のあった位置にレールを再敷設し、現役時代を彷彿とさせる光景となりました。
廃線跡は再び大地へと埋もれ、幌加内町の玄関口であった幌加内駅跡も、モニュメントが残るのみです。廃止後に駅舎は残存していたのですが、残念ながら失火により焼失してしまいました。
幌加内駅跡の先はまたもや農地へと消えます。もうこの先も遺構との遭遇に期待できそうにないなと思っていると、上幌会館脇の三角形の空き地に、ポツンと上幌加内駅のホーム骨組みとレールが、僅かながら残されていました。
農地へと変わっていくなか、ここだけレールとホーム骨組みが残されるのも不思議な話です。以前訪れたときに、地元の方々が思い出に残したと聞きましたが、とくに説明書もありません。
レールの位置は現役時代と同じで、枕木もバラストも当時のまま。ホーム骨組みは板も撤去されていますが、移動もしていません。周囲が畑になっているのに、僅か数mの遺構だけが30年前から変わらずに存在しているのです。
廃線跡を巡る者からすれば、「たしかにここに鉄道があった!」と歓喜しますが、何も知らない人にとっては、説明板もないから「え?なんで?」と思うはず。残された線路の先は、畑になっていました。
後編は幌加内町を北上していきます。
取材・文・撮影=吉永陽一
吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。