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「こまち」なのに「やまびこ会館」。新幹線カラーの町内会館の理由を聞いたら、館長の七転び八起き人生にたどり着いた【秋田県秋田市】

ローカリティ!

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秋田市の駅東方面、太平山三吉神社の近くにある広面(ひろおもて)地区の「三吉町町内会」。

その町内会館はスーパーの駐車場脇に建てられた細長い建物で、真横から見ると白地に赤い「秋田新幹線こまち」をモチーフしたデザインですが、入口正面には「新幹線やまびこ」を描いた「三吉町やまびこ会館」という看板が立てかけられています。

「こまち」なのに「やまびこ」というユニークな姿の町内会館について、館長でもあり町内会副会長の一ノ関勝義(いちのせき・かつよし)さん(79)に、お話を伺いました。

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(撮影日2024年7月17日 筆者撮影)
「やまびこ会館」側面風景(撮影日2024年7月17日 筆者撮影)

念願の町内会館は、払い下げのバスだった

払い下げバスを利用した当時の会館(一ノ関勝義さん提供写真)

そもそも、この会館が建っている場所は水たまり状態の水路とのことでした。

「ずっと地元の人が町内会館を欲しがっていましたが、費用がかかりあきらめなければいけない状況でした。何かいい方法はないかと考えていた時に、目をつけたのが休耕田の水路でした」。

しかし、それを実現させるためには周囲の田んぼの地権者からの了解を得なければいけないなど高いハードルがあり、一ノ関さんはその課題を一つひとつすべてクリアしたとのことです。

よどんだ水路にふたをしての細長い土地に、建築は行わずに上物を置くだけという許可を得たため、払い下げされたバスを置いて1992年に会館が完成しました。

その後バスに塗装をする際「細長いから電車かなと思いましたが、電車よりやっぱり新幹線」と、当時上野から東京駅まで延伸して話題だった東北新幹線「やまびこ」カラーの白地に緑色に仕上げ「やまびこ会館」と名付けたとのことです。

払い下げのバスを「やまびこ」カラーに(一ノ関勝義さん提供写真)

「こまち」と「やまびこ」が合体!

バスの老朽化に伴い2008年に会館を建て直した際、当時秋田新幹線こまち(E3系)が開通していたため、今度は白地にピンクのラインを引いて「こまちカラー」に仕上げ、会館入口がある正面は「新幹線やまびこ」、側面は「新幹線こまち」という状態になりました。

秋田新幹線こまちは、盛岡駅で東北新幹線はやぶさと連結・切り離し作業が行われますが、「盛岡に行けば新幹線が合体するから、それと同じ」と、一ノ関さんは笑います。

さらには2022年に、現在のこまち(E3系)のカラーに塗り替え、やまびこのイラストを描いた看板を設置し、秋田〜東京間の時刻表も記載しました。

現在、秋田と岩手の間にある仙岩峠に秋田新幹線のトンネルを掘る計画があり、時刻表はその計画が実現した場合の短縮された時刻を設定しているのだとか!

「やまびこ会館」側面(撮影日2024年7月17日 筆者撮影)

館内は、お座敷列車のように真ん中にテーブルを置き両脇に町民が並んで座ります。

「町内会館がない時代はほかの会館を借りていたので、町内会館は本当に念願でした」と、一ノ関さんは語ります。

「やまびこ会館」内観(撮影日2024年7月17日 筆者撮影)

新幹線の会館を建てた館長さんは、鉄道に無関心!?

筆者はこの会館を見た時によっぽどの鉄道マニアの方が建てたのだろうと思い、一関さんに「鉄道好きですか?」と聞いたところ、「鉄道には興味はないです(笑)」と、意外な答え。

幾多の条件をクリアしていくうちに、たまたま新幹線の会館にたどり着いたといいます。

とはいえ、館長さんの自宅も細長い土地に建っており、「家は2階建て風の新幹線と同じ幅です」と、笑います。

「世のため、人のため」町内会館館長のはい上がり人生

この会館の建設に尽力した一ノ関さんは、現在「株式会社一ノ関時計店」を長男の正明さんに事業承継して、会長職へ。また、80歳を目前にして国家資格である一級眼作製技能士に合格しました。

そのほか秋田市商店街連盟顧問、広面商工振興会顧問など、さまざまな肩書を持つ地元の名士です。

時計店を営みながら「世のため人のため、人のやりたくない役、私が引き受けます」を信条に、50年以上にも渡りボランティア活動などを続けてきました。

人生のどん底が3度あった

秋田県八郎潟町(はちろうがたまち)出身で農家の次男だった一ノ関さんは、中学卒業後に時計店の丁稚奉公として働きました。寝る場所も確保されないという過酷な状況でもその負けん気で勤め上げ、トップセールスマンにまで昇り詰めました。

働きながら商工ゼミナールに通い勉強を続け、若くして資産を持つために20代に土地を購入しましたが、結婚・独立してその土地にお店を建てようとした28歳のときに、建築詐欺にあってしまいます。

翌年、29歳で改めて融資を取り付けることができ「一ノ関時計店」を開店したものの納得が行かなかった一関さんは、「必ずこの店を建て直す!」と決意。それから5年後、手狭になり3階建ての店舗に建て替えようとしますが、詐欺にあった時と合わせた金額5000万円を短期間で返済という厳しい条件で融資を受けることになりました。

一ノ関さんは返済のために一生懸命に働きましたが、これが負担となり病名のない病気になってしまったのです。

この危機に、妻の洋子さんが認定眼鏡士の資格を取得しお店に立ち、34歳の時に加入したライオンズクラブの方々がいろいろなアドバイスをくれたといいます。

さまざまな人の協力により立ち直った一ノ関さんは、「人生は人脈が大事、人の恩は忘れるな」ということを胸に刻んでまい進します。

携帯電話のなかった当時、お店と外商の連絡に無線車を使用するなど多彩なアイデアでお店を切り盛りし、2024年に「株式会社一ノ関時計店」は創業50周年を迎えました。

失敗があったから成功がある、波瀾万丈の人生

一ノ関さん自身が苦労し人に助けられた経験から、「人のため」にゴミ拾いや交通安全、花壇づくりなどのボランティア活動を続けています。

また、秋田中央地下道路の賛成派代表、地域の夏祭りの事務局・会長、町内の私道20カ所を市道にするなど地域のための活動を行い、ライオンズクラブ会長という要職にも3回就きました。

一ノ関さんは、県内のさまざまな会合などでその豊富な人生経験について講演を行っています。

「波瀾万丈、泣き笑いの人生です」と笑う、一ノ関さん。

そのバイタリティで、今後も地域をますます元気にしてくれるに違いありません。

一ノ関さんが手がけ、町民のボランティアで整備している花壇「三吉町フラワーロード」(撮影日2024年7月26日 筆者撮影)
花壇には、ユニークなエイジフレンドリー川柳も掲示しています(撮影日2024年7月26日 筆者撮影)
2024年6月に店舗をリニューアルした「時計・メガネのイチノセキ」(撮影日2024年7月26日 筆者撮影)
森川淳元

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