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おれたちの短すぎる人生と生活について

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おれたちの短すぎる人生と生活について

おれには時間がない

われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。

しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされていないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する。それが真相なのだ。

セネカ『生の短さについて』

このごろ、おれは寝込んでいる。ずっとベッドの中にいて、一歩も外に出られないのか? そうではない。午前中、寝込んでいる。


おれは双極性障害者だ。おれが抑うつ状態になって動けなくなることについては、わりと細かく書いたことがある。

身体が動かない。これに加えて最近は、眠り込んでしまうことが増えた。意識があるのに身体が動かないばかりでなく、ほんとうに眠ってしまう。

「あ、身体が動かないな」と思ったあとに眠り込んでしまうこともある。どうしようもない眠気に襲われて、目がさめたかと思ったら身体が動かないこともある。おれが「寝込む」というのはそういうことだ。


酒を飲みすぎている、夜ふかしした、それに対応してもいない。飲みすぎた日もある、夜ふかした日もある。少ししか飲まなかった日もある、早く寝た日もある。どうにもわからない。

そうして、週のうち三日も四日も寝込む。朝、会社のLINEに「すみません、遅れます」と打ち込む。午後に出社する。午後二時、下手すれば三時。午前中に遅れて出ることは少ない。


これは、おれの勤める零細企業だから、ある意味で許されている。これが一般的な企業なら、普通に解雇されている。あるいは、給料が減額されて、ほとんどもらえないかだ。

どうもおれが何事かをできる時間は、人の半分くらいしかないのではないか?

おれには時間がない。


なぜ朝起きなければいけないのか?

なぜ朝起きなければいけないのか? そもそもよくわからない。なぜおれたちは労働に時間を支配されているのか。おれたちが労働の時間を支配するべきではないのか。なぜ、労働が人間よりえらいのか。だれが決めたのか。これをよくないと言う政治家はいないのか。一票を投じる価値はある。


世の中のみながみな9時5時仕事をしているわけではない。夜勤の人もいる。そういう話ではない。しかし、夜勤だって時間が決まっている。

世の中には自由に働いている人もいる。フリーランスの人というか、なんというのか。成果品さえだせば、時間は自由。24時間ずっと寝て、そのあと24時間ぶっ通しで仕事をする。それは極端にしても。


そういう働き方ができるのは、手に職をつけることができた人、とくべつな才能のある人だ。だいたいの人間は決められた時間で働くのを強いられる。フレックスタイム制? 知らないな。

ふつうの人間、ふつう以下のおれのような人間が、働きたい時間に働くのは幻想か。先ほど書いたおれの現在は幻想的かもしれない。2年後に会社はなくなるので、束の間の幻想だが。


雇われ者として、働きたいときに自由に働く……。あるにはある。ウーバーイーツとかタイミーとか。しかし賃金も安定も厳しいものがある。時間は自分で決めている。賃金は低く決められている。市場に首を差し出して、日銭を得る。その自由を自由と呼ぶには、あまりにも天井が低すぎる。

世知辛い。


ワークとライフのバランスがおかしい

人は、誰か他人が自分の地所を占領しようとすれば、それを許さず、境界をめぐっていささかでも諍いが生じれば、石や武器に訴えてでも自分の地所を守ろうとするものである。ところが、自分の生となると、他人の侵入を許し、それどころか、自分の生の所有者となるかもしれない者をみずから招き入れさえする。

自分の金を他人に分けてやりたいと望む者など、どこを探してもいない。ところが、自分の生となると、誰も彼もが、何と多くの人に分け与えてやることであろう。財産を維持することでは吝嗇家でありながら、事、時間の消費になると、貪欲が立派なこととされる唯一の事柄であるにもかかわらず、途端にこれ以上はない浪費家に豹変してしまうのである。

セネカ『生の短さについて』

セネカ先生はこう言っている。セネカ先生の生きた社会には大量のサラリーマンなどいなかった。が、金儲けにあくせくすることも生の浪費だという。セネカ先生の時代に賃労働にあくせくするサラリーマンがいたら、同じことを言っただろう。


おれたちは労働に時間を取られすぎている。おれたちの生活、そして人生。立派な労働者になるための準備としての少年時代も、学校や受験勉強に取られている。なんのために生きているのか? 疑問に思わない人間は、ある意味で幸福な人だ。毎日のように半日寝込んでいるおれが言うのもなんだが、ちょっとバランスがおかしい。


「そうは言うが、昭和のころはもっと……」、「江戸時代の農民は……」という話をする人もいるだろうか。たしかに、ワーク・ライフ・バランスが顧みられる方向に進みつつあるのは確かだ。それにしても、科学技術の進歩に比べて、そちらの歩みは遅すぎる。人間、もっと自分のための時間、真に自分のための時間が必要なのではないか。

それなのに、おれたちの多くはそれをどうすることもできず、自分の時間を会社だとかに多く与えて、長い時間を過ごして、気づいたらもう後戻りできなくなっている。

多くの人間がこう語るのを耳にするであろう。「五十歳になったあとは閑居し、六十歳になったら公の務めに別れを告げるつもりだ」と。

だが、いったい、その年齢より長生きすることを請け合ってくれるいかなる保証を得たというのであろう。事が自分の割り振りどおりに運ぶことを、そもそも誰が許してくれるというのか。生の残り物を自分のためにとっておき、もはや何の仕事にも活用できない時間を善き精神の涵養のための時間として予約しておくことを恥ずかしいとは思わないのであろうか。

生を終えねばならないときに至って生を始めようとは、何と遅蒔きなこと。わずかな人間しか達しない五十歳や六十歳などという年齢になるまで健全な計画を先延ばしにし、その歳になってやっと生を始めようと思うとは、死すべき身であることを失念した、何と愚かな忘れやすさであろう。

セネカ『生の短さについて』

セネカ先生も辛辣にこうおっしゃっる。今は人生百年時代らしいので、年齢の数字は変わってくる。それにしても、人間が長生きするようになって、さらに労苦の時間が長くなっているだけじゃないのか。生涯の収支は、令和のわれわれよりも、景気の上がっていく時代に働き、今よりも早く引退し、満足な年金を得られる昭和の人たちだろうか。悪いところといいところを極端に見ているだけかもしれないが。


しかし、セネカ先生、この時代の賃労働者いうものは、いま、ここで、それを始められるほどの自由はない。先生のころの奴隷よりは自由だが、貴族ほどに自由でもない。おまけに、時間を浪費するためのなにかには満ち溢れている。どうなっている?


真に自由な時間があったところでどうする?

セネカ先生は「人間は、人生が短いことを嘆く。しかしそのくせ、自由のために時間を確保する者はいない」みたいなことを言う。

じゃあ、自分の自由な時間を確保して、いったいなにをするの?


セネカ先生はこうおっしゃる。

すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、(真に)生きている人なのである。

そういう神聖な思想を作り上げた人々は、われわれのために生を用意してくれた。彼らこそ人間の生を永遠不滅の生へと転じたものであり、われわれもソクラテスとカルネアデスとエピクロスと語り合うことで、生涯を無駄にしなくてすむのだと言う。


……いや、哲学ですか先生、おれはストア派ではない。「ただちに生きよ」と言われても困る。

いま、ここ、自己なのか、禅なのか。長い歴史を経て消え去らない思想は似てくるのか。


どうだろうか。おれもあなたも、急に自分の時間を生きられるとなって、生きられるのか? 働かなくてよいとなって、「真に」生きられるのか。おれにはわからない。


おれには引きこもりのニートだったことがある。ただ働かないという意味では生きられる。なにも有益なこともしないで、人生を浪費しきる自信はある。「働いていないと落ち着かない」などという立派な労働者さまとは違う。こんなことに自信があってどうするのか。


しかし、「働く」といっても、満員電車という葬列で嫌な会社に通って、お賃金をもらうことだけが「働く」ではない。おれは自転車通勤だが。

なにやら、真に「働く」人もいる自らの才能によって、自由にやりたいことをやって、それがお金にかわる。人間、そうなれたらそれで、一つの哲学の道を歩んでいるのと同じことだろう。

自由になれる人間もいる。しかし、それは限られている。


かぼちゃ頭として生きていこう

ほとんどの人間は真に働くように働けない。少なくともおれはそのようにできない。世の中、できのいい人間というのはあまりいない。国家や経営者から求められる「良き労働者」は存外多いのかもしれないが。

突然だが、アポコロキュントーシスという言葉がある。澁澤龍彦が「かぼちゃについて」というエッセイでこのギリシア語について書いている。


「人間からかぼちゃに変化すること」という意味で、この語を作ったのはセネカ先生だ。

セネカ先生が、自分をさんざん苦しめた暗愚のクラウディウス帝が死んだあとに、その皇帝を嘲弄するために無署名でこのタイトルのパンフレットを流布した。皇帝がアポテオーシス(神格化)するのではなく、アポコロキュントーシス(かぼちゃ化)したという辛辣な駄洒落だ。肝心の「かぼちゃ化」した部分は散逸して現存していない。


セネカ先生は、皇帝の追悼演説の草稿を頼まれると、わざと最大級の美辞麗句を並べ立てた。褒め殺しだ。「しかるに、ネロがクラウディウスの知恵や先見の明について語り始めると、なんぴとも場所柄を忘れて失笑を禁じえなかった」(タキトゥス)。復讐だ。


セネカ先生……、あなたも人生の時間をちょっと無駄に使っているじゃないか。あなたも結局ネロに自殺を命じられるまで、なんだかんだでよく働いて、生きて死んだ。徳を求めて哲学する余技が芸術や弁論、政治だったのかもしれないが。

おれたちは余技で皇帝を馬鹿にすることもできない。しょうもないかぼちゃ頭の人間は、かぼちゃ頭に生まれついてしまった以上、そのように生きていくしかない。


ただし、ちょっぴり自分の時間をだれかに盗られすぎていないかと疑いながら。おれたちにできるのは、そのくらいのことだ。

……ちなみに、かぼちゃはコロンブス以後にヨーロッパに広まったものだ。コロキュンティスは「かぼちゃ」というより瓢箪とか西瓜であって、具体的にはコロシントウリではないかと、澁澤も書いている。コロシントウリがどのようなものか検索してみると、なるほどこれだって頭のかわりにのってかっていたら、やはりまぬけ野郎という感じがする。聖書で「すいか」や「メロン」と訳されているのもこのコロシントウリらしい。日本語話者が想像する「すいか」や「メロン」ではなさそうなので、「ウリ」や「コロシントウリ」と訳してもいいよう気もするが、他人さまの聖典に口出しする気もない。

***


【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Scott Webb

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