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『三国志前半最大勢力』袁紹が命を落としかけた「界橋の戦い」とは?

草の実堂

『三国志前半最大勢力』袁紹が命を落としかけた「界橋の戦い」とは?

袁紹を天下人候補に押し上げた戦い

画像 : 袁紹 Public Domain

三国志の序盤における主役候補として、袁紹(えんしょう)の名を挙げる人は少なくない。

名門袁家の看板に加え、領地的にも戦力的にも曹操を凌ぐ最大勢力を誇っており、袁紹が三国志の主役級の人物であった事に異論を唱える者はいないだろう。

そんな袁紹を天下人候補として決定的な立場に押し上げたのが、公孫瓚(こうそんさん)との間に起きた「界橋(かいきょう)の戦い」である。

名族として誰もが一目置く存在だった袁紹と、戦力だけなら当時最強クラスだった公孫瓚率いる「白馬義従(はきばぎじゅう)」の戦いはどのようなものだったのか。

今回は、190年代最大の戦いというべき「界橋の戦い」について解説する。

袁紹と公孫瓚

画像 : 清代の公孫瓚の挿絵 public domain

191年、袁紹と袁術の内輪揉めで反董卓連合が空中分解すると、袁紹は袁術と争うようになる。

袁術の元には公孫瓚の従弟の公孫越がいたが、公孫越は袁紹との戦いで戦死してしまう。

この一報に激怒した公孫瓚は、袁紹討伐を決意し、自ら軍を率いて進軍を開始する。

公孫瓚は、自ら組織した精鋭騎兵「白馬義従」に加え、黄巾賊の残党勢力を吸収して戦力を拡充しており、当時その兵力は袁紹をも上回っていた。

そこで袁紹は、別の従弟である公孫範に渤海太守の印綬を送り、公孫範を通して和睦を試みるが、公孫範は袁紹の味方をせず、与えられた領地の兵を連れて公孫瓚に合流してしまう。

さらに冀州の各地でも、公孫瓚の進軍に恐れをなした城が次々と門を開いて降伏するなど、戦況は開戦前から公孫瓚に大きく傾いていた。

界橋の戦い

192年、河北を流れる清河に架かる界橋において、袁紹と公孫瓚はついに激突した。

公孫瓚軍は、歩兵3万、騎兵1万を擁する大軍であった。

騎兵の中核を成すのは、異民族との戦いで数々の武功を挙げてきた精鋭部隊「白馬義従」である。

画像 : 公孫瓚の「白馬義従」イメージ 草の実堂作成

袁紹軍の具体的な兵数は不明だが、公孫瓚軍には及ばず、加えて冀州の諸城が次々と降伏していたことから、戦前の情勢は明らかに公孫瓚が優勢であった。

勢いに乗る公孫瓚軍に対し、袁紹の側には焦燥感が広がっていた。

不利な戦況の中、袁紹軍の先鋒を務める麹義(きくぎ)は、精兵800、弩兵1000の僅か1800人で公孫瓚の前に布陣する。

麹義の背後には袁紹の本隊がいたものの、先鋒の麹義隊は寡兵である。

公孫瓚は、兵数の差を見て一気に麹義を突破しようと騎兵を突撃させる。
しかし、麹義の兵は盾の陰に伏せ、じっと動かずに敵の接近を待った。一見すると意味不明な行動に見えたが、これは計算された奇襲戦術であった。

騎兵が近付いた瞬間、麹義の兵士たちは一斉に立ち上がって大声で突進を始めたのだ。

これが人間同士の戦いなら、一瞬混乱する程度であまり意味のない戦法であろうが、麹義の狙いは馬だった。

個体差はあれども、馬は基本的に繊細で臆病な動物である。
いきなり盾の下から人間が大声を発しながら現れたら、大混乱である。

そこに弩兵が現れて騎兵を一斉射撃し、公孫瓚の白馬義従は混乱のまま総崩れとなった。

こうして戦況は袁紹軍に傾いたかに見えたが、公孫瓚も反撃に転じ、その後、袁紹を包囲するまでに至る。

画像 : 包囲された袁紹軍 イメージ 草の実堂作成(AI)

そこで、軍師の田豊は袁紹の身を隠そうとするが、袁紹は兜を地に叩きつけてこう言い放ったという。

大丈夫當前鬬死,而反逃入牆間,豈可得活乎

意訳 : 「大将たる者、敵前で戦い死ぬべきだ。壁の中に逃げ隠れて生き延びるなど、どうして許されようか」

引用 『英雄記』王粲 より

袁紹にとってまさに絶体絶命の場面だったが、再び麹義が救援に駆けつけたことで、公孫瓚軍は撤退し、袁紹は命を拾うこととなった。

麹義大活躍の理由

白馬義従を撃破し、さらに袁紹が包囲された危機にも駆けつけて救出した麹義は、まさに界橋の戦いの立役者と呼ぶにふさわしい活躍を見せた。

では、なぜ麹義は当時最強と称された白馬義従を、わずか1800の兵で打ち破れたのだろうか。

画像 : 麹義イメージ 草の実堂作成(AI)

麹義は異民族の侵入が絶えなかった涼州の出身で、日頃から異民族との戦いに明け暮れていた。

そのため、騎兵の運用だけでなく、馬の扱いや馬に対する戦い方も熟知していた。

公孫瓚も異民族との戦いで実績を積み重ねてきた武将であり、馬の性質について無知だったとは思えない。しかし、麹義の兵力が寡少であったことから、正面突破できると油断してしまったと考えられる。

また、麹義の布陣は極めて周到であった。
至近距離まで引きつけたうえで、一斉に起き上がって突撃。さらに背後から強弩隊が矢を浴びせかけ、白馬義従の再編を許さずに敗走させた。

騎兵戦における心理的・機動的な隙を突いたこの作戦は、寡兵ながらも地形と練度を最大限に生かしたものであり、まさに経験と戦術の勝利であったと言えよう。

ともあれ、界橋の戦いは袁紹軍の勝利に終わり、白馬義従最強神話が崩れた公孫瓚は、州牧である劉虞との対立を経て、徐々に人生の歯車が狂い始めるのだった。

界橋の戦いの後

画像 : ​後漢末期198年頃の群雄割拠図 public domain

界橋の戦いによって、袁紹は一躍「天下人候補」として頭角を現すこととなる。

とはいえ、この敗戦が公孫瓚の命運を即座に決したわけではない。彼が最終的に敗れて自害するのは、7年後の199年、易京の戦いにおいてである。

自慢の白馬義従の名に傷が付いた事はショックだっただろうが、依然として公孫瓚の力は強大で、あくまで南進に失敗したに過ぎなかった。

しかし、公孫瓚はその後、州牧・劉虞との対立を激化させ、ついには劉虞を処刑。かつての名声と信望を失い、性格も次第に疑心暗鬼に陥っていった。
大きな敗戦を経験していないにも関わらず、自ら破滅への道を歩む。

界橋の戦いの一番の功労者である麹義も、その後の振る舞いが災いした。
戦勝によって増長し、上官の命令を軽視するようになったことで袁紹の怒りを買い、粛清されてしまったのである。

また、袁紹自身も、界橋での勝利からさほど経たない200年、官渡の戦いで曹操に敗北。
彼の全盛期は、わずか数年という短いものであった。

劉備や曹操が登場しないため知名度こそ高くないが、袁紹という三国志序盤の主役格の人物が、最盛期の公孫瓚を打ち破った界橋の戦いは、反董卓連合や呂布と曹操の戦いにも匹敵する190年代最大の戦いだったと言えるだろう。

だが、この戦いで名を上げた者たちの末路はいずれも苛烈であり、栄枯盛衰の縮図であった。

参考 :『三国志』「袁紹伝、公孫瓚伝」陳寿著・裴松之注 他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部

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