織田信長を裏切った家臣たち 「明智光秀、松永久秀、織田信勝、荒木村重 ~他」
織田信長の家臣団といえば、羽柴(豊臣)秀吉をはじめとする有名な武将が多数名を連ねている。
信長の苛烈な性格にも負けず、手柄を競い合った彼らであったが、すべての者がついていけるわけではなかった。
信長は多くの裏切りに直面し、許した者に再び裏切られることもあった。
今回は、信長を裏切った家臣たちについて紹介する。
世紀の裏切り者 明智光秀
信長を裏切った家臣として真っ先に思い浮かぶのは、明智光秀であろう。
信長の家臣として目覚ましい戦功を挙げ、秀吉のライバルとしても存在感を示していた。
光秀は、かの有名な「本能寺の変」で、突然信長に反旗を翻した。
はっきりとした理由は未だに不明で、考えられている説は大きく分けると「光秀の単独犯説」と「黒幕存在説」となっている。
ただし、その中でもさらに多くの説が枝分かれしており、例えば黒幕存在説だけでも「朝廷説、足利義昭説、羽柴秀吉説、徳川家康説・・」など数え切れないほど存在する。
わかっているのは、天正10年、家康を持て成すはずであった光秀が突如その任を解かれてしまったこと。秀吉の中国攻めに協力するように命じられたこと。その軍勢がなぜか本能寺へ向かい、信長に襲いかかったことである。
光秀は信長を討つことに成功したものの、その後の山崎の戦いで秀吉に敗れ、最期を迎えた。
二度も裏切り 松永久秀
松永久秀は、大和の戦国武将として三好氏に仕え、後に織田信長に臣従するも、一度ならず二度までも離反した人物である。
最初の謀反は元亀2年(1571年)で、久秀は旧主・三好義継や敵であった三好三人衆らと手を組むと、信長に対して兵を挙げた。
これは、将軍・義昭の信長包囲網に応えたという側面もある。
その後、辰市城の戦いで敗北し、元亀4年に和睦して再び信長側についた。
しかし、天正5年(1577年)には再度裏切り、足利義昭、毛利輝元、上杉謙信、石山本願寺などの反信長勢力と呼応した。
最終的には信長の嫡男である信忠に攻められ、籠城したが、所有していた名物茶器「平蜘蛛」とともに自害した。
爆死したとも伝わっている。
実の弟の裏切り 織田信勝
織田信勝(信行)は信長の弟である。しかも同母弟(母も同じ)であるから、信長の最も近しい兄弟だった。
信勝は信長との家督争いを行い(母・土田御前は信勝を推していたという)、一度目の謀反は許された。
しかし、二度目の謀反を企てたことで信長に誅殺された。
信長は、仮病を使って信勝を清洲城へ呼び寄せ、騙し討ちにして弟を葬ったという。
戦中にまさかの謀反 荒木村重
荒木村重は元々摂津の有力豪族であり、信長に従って畿内制圧にも協力していた。
しかし天正6年(1578年)10月、播州征伐で秀吉軍に加わっていた村重は、突如として有岡城で謀反を起こし、使者として説得に訪れた秀吉の側近・黒田官兵衛を捕えて監禁した。
これに激怒した秀吉に攻められると、村重は妻子を残して城を捨て、単身で毛利領へと逃亡した。残された妻子や一族37人は処刑されてしまったという。
信長の死後、村重を追う者はいなくなり、最終的に彼は仏門に入り「道薫(どうくん)」と名乗り、茶人として生き延びた。
三木の干殺し 別所長治
別所長治は播磨国の三木城の城主であり、元々播磨国東部に勢力を持っていた大名である。
信長が畿内を制圧すると、長治は信長に臣従した。しかし、信長の播磨攻めの際に謀反を起こし、毛利側についた。
この時期、播磨攻めでは荒木村重をはじめ、多くの武将が信長を裏切って毛利側に寝返った。毛利家の説得が巧妙だったのであろう。
天正6年(1578年5月)、怒った秀吉は三木城を包囲し、兵糧攻めを開始した。
三木城には女子供も多く避難しており、次第に兵糧が尽き、多くの餓死者が出た。
この合戦で秀吉が行った兵糧攻めが、有名な「三木の干殺し」である。
長治は2年ほど籠城したが、最終的には長治、友之(弟)、叔父吉親の切腹と引き換えに城兵を助命するとの条件で開城し、一族と共に切腹した。
安土城で処刑 波多野秀治
波多野秀治は丹波の国人領主であり、八上城の城主であった。
彼は当初、明智光秀の丹波攻めに従っていた。
しかし天正4年(1576年)1月、突如として光秀を裏切り、背後から攻撃して明智軍を退却させた。(黒井城の戦い)
天正6年(1578年)3月、光秀は再び出陣すると秀治の籠る八上城を包囲し、兵糧攻めを開始した。
波多野軍は1年ほど籠城したものの兵糧がつき、ついには味方の裏切りにより、秀治は弟と共に捕えられた。
その後、秀治は安土城に送られ、磔にされて処刑された。
最初の裏切り者か 山口教継
山口教継は、もともと信長の父である信秀に仕えていた尾張鳴海城の城主であった。
しかし、信秀の死後、教継は信長には従えず、今川家へと寝返った。
その後、教継は信長の軍と戦ったが、今川義元から「織田家と通じているのではないか」と謀反の疑いをかけられた。最終的に教継はこの疑いにより切腹を命じられた。これは信長の策略だったとも言われている。
おわりに
織田信長の破竹の勢いとカリスマ性は、多くの人々を引きつけたが、裏切る者も多かった。
家臣ではないので紹介しなかったが、同盟者でもあった義弟の浅井長政にも、信長は裏切られている。
信長の死後、その後を継いだ秀吉も織田家を乗っ取る形で権力を握り、徳川家康もかつては今川家、秀吉の死後は豊臣家を裏切る形で自らの地位を築き上げた。
どの時代でも、最も狡猾で抜け目ない者たちが生き残り、権力を手に入れてきたのかもしれない。
参考文献:歴史道 Vol.1 他
文 / 草の実堂編集部
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