今、「傷つき」について考える意味──【学びのきほん 傷つきのこころ学】
精神科医・宮地尚子さんによる「傷とともに生きる人」のための、こころのケア論
SNSの多様化、リモートワークの普及、デジタル社会の加速──。人と人との距離感が変わりつつある現代では、誰もが多くの「傷つき」を経験します。
『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』では、精神科医で一橋大学教授の宮地尚子さんが、トラウマ研究の第一人者として現代に特有の「傷つき」の背景を分析しながら、数十年培ってきた専門的知識を初めて私たちの日常生活に落とし込んで解説します。
今回は、著者の宮地さんによる本書執筆の背景を公開します。
自分と他者はなぜ傷つき合い、それはどのように癒やせるのか
私たちは、なぜいま「傷つき」について考えていく必要があるのでしょうか。それは、人間はひとりでは生きていけないから、ということに尽きます。ひとりでは生きていけない、だから他の人間と関係をつくっていくしかない。けれども、その人間関係のなかで、たくさんの傷つきが起きてきます。
そして人間関係をめぐる環境は現在、大きく変わりつつあります。今回はそのひとつとして、リアルとオンラインの両方の世界を私たちは行き来して生活するようになったという話をしています。
私たちの生活に、オンラインのコミュニケーションが大きな割合を占めるようになったことは、皆さんもご存じのとおりです。これは言ってしまえば当たり前のことかもしれません。インターネットやスマートフォンのない日常などもう考えられないでしょう。ですが、当たり前となった現実を改めて見つめなおすことで、いま、私たちが何に傷つき、どれだけ他者のことを傷つける可能性があるのか、より実感をもって理解できるようになるのではないかと思います。
一方、人間の心と体のあり方の基本は、これまでもこれからも大きく変わるわけではありません。これからの赤ん坊が、現代社会に合うような脳をもって生まれてくるわけではありません。誰かに面倒を見てもらわなければ生きていけない無力な状態で生まれ、徐々に人との関わり方を学んで、育ち、大人になり、次の世代にバトンをつないでいくのです。
生きていくことについては誰もが初心者です。いくら科学技術が発展したとしても、家族関係や友人関係にまつわる従来の悩みがなくなることはないでしょう。人間関係をつむぐことに最初から秀でた人はいません。そして、人間関係の基本として必要なこと、たとえば、愛着や信頼、安全・安心なども、時代が変わったからといって大きく変わるわけではありません。
そして、人間は愚かでもあり、賢くもあります。優しくもなれれば、残酷にもなれます。お互いをサポートすることもできれば、貶め合うこともできます。そのどちらの面が表に出やすくなるのかは、社会や文化のあり方によって大きく変わってきます。そして、社会や文化をつくるのは私たち自身であり、私たちの日々の人間関係の築き方によるのです。
この本を通して皆さんに伝えたいことは、次のようなことです。
まず、傷ついたり、傷つけたりしたからといって、それで終わりではない、ということ。絶望しないでほしいし、人間関係から撤退しないでほしい。そして、悪循環に陥って、孤立してしまわないでほしい、ということです。
傷ついたからといって、ずっとそのままでいる必要はありません。傷つきに対処する方法はたくさんありますし、傷つきから生まれる気づきや学び、豊かさといったものもあります。
無傷のままで生き延びることはできないからこそ、少しでも傷つきを減らせるような社会を想像し、そういう社会を創造していけるように、「傷つき」について皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』では、「傷つきやすい時代/「傷つく」と「傷つける」/傷つきの練習/傷つきを癒やすには、といった4つのテーマで、「傷つき」について考えていきます。
著者紹介
宮地尚子(みやじ・なおこ)
一橋大学大学院社会学研究科教授。1986年京都府立医科大学卒業。1993年同大学院修了。専門は文化精神医学・医療人類学。精神科の医師として臨床をおこないつつ、トラウマやジェンダーの研究をつづけている。著書に『トラウマ』(岩波新書)、『ははがうまれる』(福音館書店)、『環状島= トラウマの地政学』(みすず書房)、『傷を愛せるか』(ちくま文庫)など。
※刊行時の情報です
◆『NHK出版 学びのきほん 傷つきのこころ学』「はじめに」より抜粋
◆ルビなどは割愛しています
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