北九州市内某所で<茶会>を体験 「千利休を想い茶の湯を過ごす会」に参加してみた
小雪が舞い散る2月、北九州市内の某所にて「千利休を想い茶の湯を過ごす会」が開催されました。
千利休といえば、歴史の授業や大河ドラマなどでもよく知られている茶人。筆者はこれまで、戦国の世で名だたる武将たちに重宝されたという印象しか持っておらず、千利休について詳しく知る機会がありませんでした。
今回の茶会では千利休の話が聞けると知り、参加してきました。
千利休の生涯と茶の湯の魅力 侘び茶を育んだ茶人の足跡
この日、会場の扉を開けて中に入ると、お香の良い香りと季節の花「水仙」とともに本会主催のaiさんがにこやかに出迎えてくれました。そして、千利休について語ってくれました。
商人の家に生まれた千利休 その意外な素顔と生い立ち
千利休は1522年(大永2年)、現在の大阪府堺市にあたる和泉国で「魚屋(ととや)」と号する納屋衆(倉庫業を営む商人)だった「田中与兵衛」の子として誕生。本名は「田中与四郎」といわれています。
書籍等で見る姿は小柄に感じますが、実際の身長は180cmあったという説も。案外、がっちりとした体格だったのかもしれません。
茶の湯との出会い—若き日の学びと成長
10代の頃、商人の教養として茶の湯を習い始めたといわれる千利休。
最初の師は堺の茶匠「北向道陳(きたむきどうちん)」といい、その後に武野紹鷗(たけのじょうおう)から侘茶(わび茶)の祖といわれる村田珠光(むらたじゅこう)のながれを汲む茶の湯を学んだそうです。
茶禅一味、侘び茶を大成させた千利休
豊臣秀吉の命で千利休が作ったと伝わる茶室「待庵(たいあん)」は、わずか二畳。当時は煌びやかな唐物茶器が主流でしたが、利休は日本の器である楽茶碗を取り入れました。
好んだ茶碗の色は、黒だったといいます。
aiさんは、「照明などもない薄暗い茶室では、その手触りや飲み心地、抹茶の緑との対比など、千利休の理想とする侘び寂びを余すところなく感じることができたのでは」と話します。
戦国の世になり、茶の湯が自分と向き合うもの、己をみつめる場として心を整える役割を果たすようになっていったのかもしれないと筆者は考えました。
日々の暮らしの中に意図する時間を
aiさんの話の間にほっと一息、お茶と和菓子で一服しました。
オンラインなどで<茶の湯お抹茶レッスン>も実施しているというaiさん。この日は卓上にて、椅子に座ったまま、お抹茶をいただきました。
対面に座ってお茶をたてていただく間、一瞬にして場の空気が凛としたものに変わり、自然と背筋が伸びるのを感じました。
抹茶とお菓子をいただきながら、基本的なお茶の作法も教えもらいました。
この日に用意されたお茶菓子「寒つばき」は、まろやかな抹茶によく合い、大変美味しくいただきました。
今回参加したのは、千利休の祥月命日(旧暦2月28日)にちなんだお茶会。茶聖とも称された偉大な茶人に想いを馳せつつ、茶の湯の歴史や禅について知るよい機会となりました。
床の間に飾られていた掛け軸「無事是吉祥」は、<何事も無いということは、良いことの現れであり、常に作偽のない素直な心でいることが吉祥を招く>という意味の言葉。
aiさんの好きな禅語の中の1つでもあるそうで、茶会の始まりから終わりまで、千利休のもてなしの心を感じ、心温まる会となりました。
詳細は「星と一服ai」Instagramで確認できます。
※2025年3月23日現在の情報です
(ライター・kohalu.7)